ケイケイの映画日記
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やっと観てきました。戦争を題材にした作品は気が重くなるので、ただいま必死に仕事の勉強中の私には向いていないんですが、監督のアンジェイ・ワイダの背景と年齢を考えると、とても尊いものを観たと感じ、やはり観て良かったです。
1939年9月。ポーランドはドイツとソ連の密約によって、両方の国から分割占領されてしまいます。主に軍人や技術者はソ連の、教職者や文化人はドイツと、それぞれ捕虜に。アンジェイ大尉とその妻アンナと娘ニカ、アンジェイの同僚イェジ、大将と大将夫人ルジャと娘エヴァ、大学教授のアンジェイの父と母など、それぞれの家族がひたすら夫・息子・兄弟の帰りを待ちます。しかし1943年、ドイツがソ連領のカティンの森で、数千人のポーランド人将校の遺体を発見したと発表し、ソ連の仕業と発表しますが、ソ連は否定、ドイツ軍の犯罪とします。
恥ずかしながらこの事については、全く知りませんでした。事実はソ連の犯行であったのですが、長くソ連の支配下に置かれていたポーランドでは、この事を論議する事は厳しく禁じられていたそうです。ワイダの父は実はこの時の犠牲者で、母も父の帰りを待ちながら非業の死を遂げたとか。登場人物全てに監督の強い意思が込められているからでしょう、こちらにもその怒り、無念さ、祈りが、ひしひし伝わります。
収容所に集められた技術者達に将校が、「君たちは国を再建するのに必要な力だ。必ず生きていてくれ」と語る姿が強く印象的でした。軍人達も職業軍人は少なかったのでしょう。ドイツ軍には教育者や文化人を拉致され、残るは女子供ばかり。国を再建するための力を根こそぎ持っていく事に強い怒りを感じました。しかしこれは他の侵略された国もいっしょだったはず。ワイダは自分の背景だけではなく、未だになくならない戦争に対して、それがどんなに非人道的な、国民の誇りを奪い去ってしまうことであるか、知らしめたかったのではないでしょうか?
出てくる登場人物たちに共通しているのは、強い国への愛です。例え辛酸を舐めようとも、ポーランド人としての誇りを守る者、親ソ連側に付くのも、まずは生きて国を変えようとする者、レジスタンスに入る若者など、どれもこれも核にあるのは国への愛です。それが一つになれないもどかしさを感じます。
ラストはどういう風に軍人たちが虐殺されていたかを描いていますが、これが圧巻の演出。故郷で家族が待っている男たちを、機械的に次々射殺して行くのです。まるで家畜の屠殺のような場面を延々BGMなしで映しています。そして映画は終わります。エンディングも一切のBGMなしで、スタッフや出演者の名前が流れるのは、この惨さを脳裏に焼き付ける為の、監督の思惑なのでしょう。
私は83歳のワイダがこの作品を作ったのは、けっして自分の私怨ではないと思います。自分の年齢と真摯に向き合った時、今の世の中に向けて作るのは自分のバックグラウンドだと、気持ちを整理して作った作品ではないかと思います。観た後、戦争に対しての怒りと共に、監督への敬意も湧く作品でした。今回短いですが、この作品から受けた感情を、文章や言葉にすることは本当に難しいです。私の拙い文章より、是非劇場でご自分で確かめていただきたい作品です。
2010年02月21日(日) |
「恋するベーカリー」 |
あ〜、面白かった!熟年離婚した夫婦の心の機微を繊細に描きながら、臆面もない赤裸々な性愛表現もユーモアたっぷり描いていて、とっても楽しかったです。主演はここ数年またまた絶好調のメリル・ストリープ。監督はナンシー・メイヤーズ。
辣腕弁護士のジェイク(アレック・ボールドウィン)と離婚して10年のジェーン(ストリープ)。三人の子供たちを無事育て上げ、経営するベーカリーも順調と、頑張ってきました。末っ子の大学卒業式に同席する予定の元夫婦は、前夜ふとしたはずみからベッドイン。離婚原因になった妻とは上手くいっていないジェイクは、ここぞとばかり再びジェーンに求愛。困惑する彼女には、バツイチの誠実な建築家アダム(スティーブ・マーティン)も気があるようです。さてジュリーの心はどちらに?
結婚19年で離婚したこの夫婦の描き方が絶妙です。昨今離婚も当たり前の時代ではありますが、バツ2の亡くなった私の母曰く、「結婚の時の二倍エネルギーがいるのが離婚」の言葉は、今も昔も変わらないのでは?ついでに言うと、アメリカでも。ジュリーのように仕事も成功し子供たちも健やかに育った人でさえ、痛手を癒すのに10年かかると繰り返し描写される繊細さに、まずは感心。
元夫婦の久しぶりのベッドインはすごくわかる。子も成した長年馴染んだ相手ですもの、はずみでのワンナイトラブとは全く違うでしょう。痛手がやっと癒えた頃、またまた元夫が求愛してきたのですから、ジュリーの困惑ぶりは当たり前です。そして今回はジェイクが既婚者ということもあり、形としては不倫、今度は自分が愛人となるのです。寝取られた男を寝取り返しただけで、ざまぁみろ!というところですが、元妻というプライドが絡むので、事は複雑(原題は「IT'S COMPLICATED」=「それは難しい」)。この辺の女心も、ストリープがやはり抜群の上手さで演じているので、観ているこちらも切なくなります。
「君はまだジェイクのことを完全にふっきれていないのではないか?」とジュリーに語るアダム。彼もまた妻に不倫されての離婚だから、理屈ではない感情がわかるのでしょう。ジェイクの妻が、ジュリーを熱く見つめる夫の視線を哀しげに観ていたり、ジェイクが妻の連れ子に手を焼くも、責任の重さを改めて感じるシーンがあったり、不妊治療の患者が押し並べて年の差カップルだったり、略奪婚の行く末も大変なのだと描いています。
50代というのは子育てもある程度終わり、時間的には余裕も出てくる頃です。ジュリー自身も良き悪友や仕事に恵まれ、子供たちには定期的に会えてと、孤独ではありません。しかしそこはかとない寂しさは常にある。孤独と一口に言うけれど、本当の孤独を知る人は少ないでしょう。しかしジュリーの託つ寂しさは、いつか私にも来るのだと言う思いは、万人のものだと思います。その気持ちが、いい歳をして恋に右往左往する中年たちを、愛しく感じさせるのでしょう。
一つだけ納得出来ないのは子供たちの描き方。微妙な距離感を持って父親と接する描写は秀逸なのですが、親に対しての反応が全て三人いっしょだというのは、これいかに?私も子供は三人、それも男ばっかりですが、同じ両親から生まれても、子供はみんな別の個性・考え方を持っているはず。三人いっしょにベッドで悶々とするシーンは、親の離婚で彼らはアダルトチルドレン風になってしまったと、心の傷を表現しているのかもしれませんが、諍いの絶えない家庭に育った私としては、少々気持ち悪く感じました。もう大人なんだからね、もっと親を思いやりなさいね。
ストリープはもちろんですが、中年男優二人がとてもいいです。ボールドウィンはメタボの身体を惜しげもなく(?)披露して、抱腹絶倒のシーンを演じています。強引で少々傲慢ながらチャーミングです。「母のように甘えられるのが妻」という固定観念は、アメリカの男も同じなんだなぁと、しばし感慨にふけりました。マーティンはいつもより大人しい彼でしたが、誠実で聡明、そして繊細な感覚の持ち主であるアダムを、好感度抜群で演じていて、彼のお陰で元夫婦がしっかり浮かび上がったと思います。ちなみにアレック&マーティンは今年のオスカーの司会者に予定されています。この映画が好評だったからなんですね。
ラストの温かさが素敵。こんな大変な思いをするのに、人は誰かを愛する事を、生涯続けるんですねぇ。煩悩上等、中高年も張り切っていきまっしょい!
2010年02月17日(水) |
「映画に愛をこめて アメリカの夜」(午前十時の映画祭) |
各地でスタートしている「午前十時の映画祭」、私はこの作品からスタートです。実は上映予定の50本をほとんど観ているものの、大半はテレビかレンタルなので、個人的には本当にこの映画祭を楽しみにしていました。この作品も確か公開時私は中学生で、当時は女の子独りで映画館なんて行く勇気がなく、親にも怒られるので(そんな時代だったんですよぉ。シネコンは味気ないけど、女の子一人でも安全に映画が観られるというメリットは素晴らしい)、焦がれながらパスした作品。二度ほどテレビとレンタルで観ています。その時も大変面白く観たのですが、今回私が年を取ったためか、こんなに愛らしい作品だったのか!を痛感。本当に映画への愛が溢れていました。監督はフランソワ・トリュフォー。アカデミー賞外国語映画賞受賞作。
フランス人監督のフェラン(トリュフォー)は、ニースで「パメラを紹介します」という映画を撮影中。主演はハリウッドからジュリー(ジャクリーン・ビセット)を招いていますが、彼女はノイローゼ気味で本当に撮影出来るか、監督とプロデューサーはやきもき。そうこうしているうちに、次々難題が押し寄せてきます。映画は無事完成するのか?
ストーリーらしいストーリーはなく、一本の映画が仕上がるまでの苦労を、ユーモアとキュートさ溢れる中、時々映画人たちの本音を織り込んで描いています。
契約書に縛られ自由に撮影出来ず、夫婦役の大物俳優(ジャン・ピエール・オーモンとヴァレンティナ・コルテーゼ)はかつて恋仲だったからと周囲は気を使い、子供がそのまま大人になったような主演のアルフォンス(ジャン・ピエール・レオ)に手を焼き、秘書役女優は妊娠を隠していたり、セリフを覚えられない大女優には怒る事も出来ずと、もうエトセトラ・エトセトラ。この他裏方スタッフの人間関係や恋のさや当ても描かれます。
下からも上からも突き上げられるフェランが、悪夢に苛まれるシーンが印象的。私の初めてのトリュフォーは、中三の時劇場で観た「アデルの恋の物語」だったので、こんなに痛くて辛辣な恋心を描く人が、実際は自分が胃に穴が開く思いをして作ってんのかぁ〜と、初見当時少々びっくりしました。しかし今回、こんな目に合わされてるんだから、映画の中でくらい痛めつけないと、やってられないよなぁとクスクス笑ってしまいました。
出演者の内情だけではなく、撮影風景も映されます。スタントマンによる事故死シーン、窓枠だけの家、泡だらけで作る雪のシーン、演技をしてくれない猫に困り果て・・・、とこちらもエトセトラ・エトセトラ。冒頭のシーンは雑踏で、大量のエキストラにも振付や演技指導があり、今なら遠目にしてCGかな?と思うと、なんて贅沢な作りかしらと、ため息も出ます。
映画作りは皆が家族のようになった時終わると語るコルテーゼ。裏方出演者入り乱れて、あっちでこそこそ、こっちでいちゃいちゃと出来あがってしまうのも、何か魔法にでもかかってしまうのだろうと、納得出来ます。それほど魅惑的な現場なのだと、観ていて感じるから。
私の大好きなビセットはイギリス人ですが、フランス語が堪能なためのキャステイングだったのでしょう。この人は不思議な人で、すんごい美人なのに、どんな男性との組み合わせでも相手を凹ませません。今回もオーモン、レオ、デヴィッド・マーカムと、様々なタイプの違う男性と組みますが、どの人とも不釣り合い感がなく、自分も美しく観えると言う離れ業を見せてくれます。案外トリュフォーは、ビセットのそういう控えめさが気に入ってのキャスティングだったのかなぁと、今回思いました。本当に綺麗でね、とっても満足でした。それとワーカホリックのクールビューティな秘書役で、とっても印象深かったナタリー・バイですが、今回はクールより一生懸命キャリアの階段を踏みしめているファイト溢れるチャーミングな女性に観えて、あぁ私、年取ったなぁと痛感しました、はい。
題名の由来は有名で、アメリカ映画は夜のシーンをカメラにフィルターをかけて、昼間に撮ることからきています。映画は虚飾であるということです。しかしその虚飾が、作り手の人生の全てで、観客の人生の娯楽や支えであることは紛れもないことなのです。この映画がたくさんの映画好きから支持され続けているのは、作り手と観客が夢中で映画を楽しむ、その一体感を味わえるからではないでしょうか?その時両方からの映画への愛が、この作品に注がれ続けているんだと思います。映画って本当に素晴らしい!
う〜ん、困ったなぁ。語り口や画の美しさなんて、さすがアルモドヴァル!というくらい堪能出来ますし、ペネロペの美しさも圧巻。でも私の期待したアルモドヴァルじゃなかったです。少々不満の残る作品です。
2008年のマドリード。新進の映画監督だったマテオ(ルイス・オマール)は。ある事がきっかけで14年前に視力を失い、今はハリー・ケインと名乗り、過去を封印して脚本家として生きています。仕事のパートナーであるジュディット(ブランカ・ポルテージョ)とその息子ディエゴ(タマル・ノバス)の助けを借りながら、平穏に暮らしていた彼の元に、ライ・Xと名乗る男が現れ、マテオに仕事を依頼します。その男の来訪により、マテオはかつて自分の撮った映画の主演女優だったレナ(ペネロペ・クルス)との、狂おしい愛の記憶が蘇ります。
過去と現在が交錯して描かれ、ミステリアスなマテオの過去が、レナが何者なのかを軸に描かれます。このプロセスは大変上手い語り口で、ぐんぐん作品に引き込まれます。マテオを演ずるオマールが謎めいた盲目の紳士を、ラテン男というよりフランス男のような優雅さと色気で演じるのが、大変よろしいです。
ペネロペの美しさも特筆もの。いつもセクシーで綺麗な彼女ですが、今作では七変化のように様々な美しさを披露していて、さすが監督のミューズであるペネロペを知り尽くしているなぁと、監督と女優の素敵な信頼関係も楽しめます。
映像も本当に綺麗でね、アルモドヴァル作品は、どれもこれも色彩が美しいのが特徴ですが、ファッションから調度品、風景に至るまで、これはため息ものです。その他出てくる女性は老いも若きもピンヒールを履くなど、監督の美意識全開の美術は文句なく楽しめます。
と、いいところもいっぱいあるんだけどね、どうもイマイチなんだなぁ。何故かというと、ヒロインに感情移入が出来ないのです。
レナはエルネスト(ホセ・ルイス・ゴメス)という、富豪の老人の愛人なわけですが、直接愛人になった理由は、父親の入院費のため。レナの母親の二人を見送る時の長いショットは、これから娘は親のためにあの老人の愛人になるのだという、親としての深い切なさと申し訳なさが漂っていました。これがあったので、心理描写に繊細な演出を期待したのがいけなかったのね。
老いたエルネストのレナへの執拗な執着はそこそこ描かれていますが、正直こんなもんか?程度。あれくらい普通じゃないかなぁ、金がありゃ。愛人なので変形不倫なわけですが、私から見ればエルネストはモンスター的気持ち悪さより、孫みたな年の女に入れ上げる愚かで可愛い爺さんに観えたので、レナの嫌い様の方が納得行きません。だいたい恩人だろ?そういうのを忘れさせるほど、ひどい男には私には観えませんでした。確かに裏切りを知ってからのエルネストは常軌を逸しますが、それまでのプロセスに納得いかない訳です。エルネストを嫌うレナではなく、豪華な暮らしの中の籠の鳥的レナの閉塞感の方に、もっと焦点を当てた方が個人的には良かったと思います。
マテオとの「純愛」も、マテオはともかくレナの方は、エルネストからの逃避目的に観えてしまいました。外見の美しさは絶品なのですが、中身が少々幼稚でお人形さん感覚なのです。ペネロペを美しく撮る事に一生懸命で、レナのキャラの造形が雑に感じました。
ジュディット親子の件とレストランの告白も、取ってつけたように感じてしまいました。ディエゴとの関係は潔いけど衝撃もなく、私は別になくても良かったと思います。やっぱ母親を描かせる方が上手なのかな?>アルモドヴァル。
ディエゴが語った吸血鬼映画のストーリーはとても面白そうで、次回作ってもらいたいくらい。その他レナの高級娼婦の時の源氏名のセブリーヌは、「昼顔」のドヌーブの役名だったり、劇中イングリット・バーグマンの作品が意味深に映ったり、映画製作の模様も随所に描かれています。私が好きだったシーンは、盲目のマテオが「今日はジャンヌ・モローの声が聞きたい」と、DVDで「死刑台のエレベーター」を盲目の目で観たがるシーンです。これが伏線となって、マテオは再生するわけですが、視力を失っても映画への愛は不変だと描かれていて、お遊び的演出と共に、アルモドヴァルの映画への愛を実感できたのは嬉しかったです。
というように、内容が悪いと言うより、個人的に残念だった作品です。私は円熟した彼より、昔のパワー溢れた変態チック全開の彼の方が好きですが、でもまた次も絶対観ますよ、アルモドヴァル。
2010年02月09日(火) |
「インビクタス 負けざる者たち」 |
今や現役では世界一の大監督イーストウッドの作品。彼にしては「普通の感動作」として、映画好きさんたちからは、イマイチ物足らないという感想を、ちらほら目にしていました。なるほど、びっくりするほど「普通」でした。でも私は長男と三男がラグビーをしているせいか、それでも全然OK。私も大いに普通に素直に楽しみました。
1990年の南アフリカ。アパルトヘイトと闘い27年間投獄されたいたネルソン・マンデラ(モーガン・フリーマン)が、ついに釈放されます。その後1994年初の全国民総選挙によりマンデラは大統領に就任。しかしアパルトヘイト廃止後も、黒人と白人の対立は続き、緊迫した情勢でした。そこでマンデラは翌95年に地元で開催されるラグビーのワールドカップを利用して、国民の心を統一しようと考えます。そしてチームのキャプテン・フランソワ(マット・デイモン)を官邸に招き、協力を要請します。
高2の息子から聞くと、今の南アフリカチームはすごく強くて、オールブラックスより上なんだとか。しかし当時はアパルトヘイトのせいで、世界中からは対外試合から締め出され、本当に弱小チームと化していました。映画は撤廃後すぐから始まり、見事なボカ(チームの通称)の負けっぷりを見せています。
ラグビーというのは発祥はイギリスで、南アフリカに持ち込んだのも白人です。なので黒人選手もチェスター独りで、他は全部白人。南アフリカの黒人にとっても、ラグビーは「アフリカーナ(南アフリカの白人)のスポーツ」であったと思います。
そんなラグビーを使って国民の心を一つにしようと考えるなど、マンデラの良い意味での知恵者、アイデアマンぶりが好感を持って描かれます。元のSPたちは当然黒人でまとめると思っていたのに、増員には白人を登用。「大衆の面前で黒人大統領を白人が守るのを示す事に意義がある」と言われると、彼の信奉者であるSPたちは、何も言えません。
この作品では、政権がマンデラに移り、今までの立場が逆転し、今度は自分達が迫害・暴力・多大な差別に晒されるのではないか?という、白人たちの恐怖心も描かれています。しかし実際には経済的格差はものすごく、権力者の立場にいるのは、少数派である白人ばかりです。白人が想像するような政策を取っては、暴力が暴力を生むだけの繰り返しで、国は変わらないとマンデラにはわかっていたのでしょう。
「獄中でたくさん本を読み、白人が何を考え何を思うか熟知した」というマンデラ。相手を知り相手の懐に飛び込んで行き、懐柔させる。それが真の正しい変換であると確信し、新しい国には白人の力が必要だと、黒人たちに説いて回るマンデラ。「刑務所で27年たっぷり休んだよ」と全く休みを取らず、南アフリカのため国内外を飛び回る様子と並行して、あんた秀吉ですか?と思うような「人たらし」ぶりを発揮するマンデラに、観ている私も素直に惹きつけられます。
後半からはラグビーの試合をメインにしていて、この撮り方が非常に上手です。試合中継のように遠くのアングルではなく、ローアングルから至近で撮っているので、臨場感たっぷり。選手たちもオーディションで経験者を使っているので、体型も全くいっしょ。本当にあんなにバチコ〜ン!と、ぶつかる音がするんですよ。
私も最初は息子たちに「怪我しないように頑張っておいで」と送りだしていたんですが、試合で応援するほどに、こんなに引っ張り回され蹴っ飛ばされ、あげく血を流して傷だらけで帰ってくるわけですよ。それなのに負けてどうすんのか!と思うようになり、「今日は骨折っても血だらけになってもええから、勝ってこい!」と送り出すようになりました。まぁそんな気持ちにさせる「紳士のする乱暴者のスポーツ」なわけですよ、ラグビーって。そういう熱く興奮させる様子を上手く撮っていました。飛行機の演出もナイス。
この試合の結果を知らない方もいらっしゃるでしょうから、結果は書きません。終了後フランソワの語る言葉が素直に胸を打ちます。この試合でアフリカーナはいなくなり、全ての南アフリカ国民は「サウスアフリカン」となるという件は、やはり感動的です。劇中にも登場する、有名なオールブラックスによるハカ。元はニュージーランドの先住民族の闘いの前の踊りで、試合前にこれを踊ることによって、オールブラックスは強いのではないかと、セリフに出てきます。気合いでもありますが、言い換えればこれは「祈り」です。どんなスポーツでも地元開催は有利と言われますが、それは国中の「祈り」が通じるからなのだと思います。
家族と上手くいかない、発展途上国を指導する人にありがちなマンデラの私生活の苦悩もチラッと演出。本当は白人の犬だと中傷されたり、あちこちで血で血を洗う抗争もあったはずです。しかし映画は、マンデラのカリスマ的な人柄と求心力に力点を置いて描いていて、それはそれで爽やかです。企画を持ち込んだのはフリーマンだそうで、彼はマンデラの友人。そういった事情で、イーストウッドもちょっと遠慮してか、いつもの深層心理をえぐるような描写はなかったですが、巨匠だってたまには素直な感動作が撮りたかったのさ、と私は思う事にします。
マンデラのいた獄中を訪ねたフランソワが、何故このような劣悪な環境にいて、マンデラは報復を考えず穏健な政策が取れるのか?と考えます。私もいっしょに考えました。それは「負けない心」を持ち続けたからでは?勝つのではなく「負けない」のです。それは容易ではありません。しかも持ち続けることはもっと大変。しかし勝たないまでも負けないでいることは、いつか陽の当たる場所に這い上がれる日が来るということです。繰り返される自分の人生の指導者は自分だという、マンデラの言葉は、万人に響く事でしょう。ちなみに今の南アフリカは、黒人選手でいっぱいだそうです。
2010年02月04日(木) |
「ずっとあなたを愛してる」 |
昨秋にこの作品のことを知り、ホントにホントに楽しみにしていました。初めの方で既に心が揺さぶられ始め、途中から涙が溢れて止まりません。帰りの電車でも思い出しては涙が出て、とっても恥ずかしくてね。私がお金も時間も作ってたくさん映画を観るのは、人の目に触れにくい、しかし作り手が強く気高い信念を持つ、この作品の様な映画に感動できる心を養うためなんだと思います、きっと。監督・脚本は、フランスの人気作家フィリップ・クローデル。厳しく繊細な、しかしとても温かい作品です。
6歳の子供を殺した罪で、15年刑務所に服役していたジュリエット(クリスティン・スコット・トーマス)。出所の日、迎えに来てくれたのは、年の離れた妹のレア(エルザ・ジルベルスタイン)。レアは渋る夫リュックを説得し、ジュリエットを我が家に迎え入れることにしたのです。ベトナムからの上の養女であるプチ・リスが最初にジュリエットに興味を示し、夫の父が暖かい包容力でジュリエットを受け入れました。徐々に頑なな心を開いていくジュリエットでしたが・・・。
冒頭、化粧気のないジュリエットは、50歳前後の「老婆」に見えます。何も期待せず、さりとて絶望もせず、ただ「生きながらえている」ように見えます。レアの家族に迎えられても、それは同じ。居心地の悪さに遠慮しつつも、さりとて馴染もうとするわけでもない。ひたすら虚無です。刑に服した理由を思えば、さもありなん。
レアの家族は夫はドイツとのハーフ、レアも英仏のハーフ。二人の養女はベトナムからです。人種も多様、血も繋がらないのに、この家庭は本当に普通の家庭です。子供たちは屈託なくはしゃぎまわり、祖父が孫娘にちょっかいを出せば、孫はいたずらで返し、両親はいらついて子供にあたるも、常に抱き締めキスをすることは忘れません。開放的で愛に溢れた家です。その中で、血の通い合う姉妹だけがぎこちない。
少しずつ会話していくうちに、姉の罪は妹のレアにとっても深い心の傷となったのがわかります。両親から姉はいなかったと思えと言われ続けてきたレア。姉に会うのは怖かったでしょう。しかし優しく聡明で美しかった姉に可愛がってもらった記憶は、怖さよりもずっと価値のあるものだったのです。
二人の姪、取り分け利発でおしゃまなプチ・リスに、レアの幼い頃を重ねるジュリエット。プチ・リスを寝かしつけた後、ぎこちなくプチ・リスにキスします。微笑みながら遠くから見守るレア。レアはしっかり姉と向き合うことで、心の傷を克服しようとしているのです。そう出来たのは、姉を信じていたからです。出所後は一人で、誰にも知られず生きて行こうと思っていたジュリエットもまた、心からレアを愛した記憶が、妹の申し出を受け入れた理由です。
ジュリエットに関心を示すレアの同僚のミシェル。彼はかつて、定期的に刑務所に講義に入った話をします。「人生の観方が変わった出来事だった。自分とはかけ離れていると思っていた彼らだが、本当は彼らと自分は、紙一重なのだと感じた」と語ります。監督のクローデルには、ミシェルと同じ体験があり、私はこの言葉は、監督が観客に向けた言葉だと思うのです。刑務所に限らず、物事には必ず光と影があり、片方だけ観てはいけないと。ジュリエットがある「告白」をする場面での友人たちの反応が、それを象徴しているように思えました。人を表面だけで判断するなかれ。
硬い甲羅に覆われていたようだったジュリエットが、本当に少しずつ、家族とも外の人々とも打ち解け始める様子が、とても自然に描かれます。その様子は雲に覆われていた冬の空が、段々春めいた空に変わって行く時のようです。重苦しい空気が、段々澄んでいく展開の中、ジュリエットの子殺しの理由が判明します。
それは取り立てて衝撃的なものではなく、予想通りでした。理由よりも「子を殺した」、その罪深さの方が、ジュリエットには重要なのです。「子供の死は何よりも辛い」と語る彼女。ジュリエットが自死を選ばなかったのは、罰を受けたかったからなのでしょう。彼女が当時の職業でなければ、私は息子を殺さなかったと思います。自分の全てを投げ打っても息子が救えないと思った時の絶望感は、如何ばかりだったかと思うのです。使命よりも哀しい感情が溢れるのは、「母なる証明」であるように、私には思えてなりません。
トーマスが素晴らしい。最後の最後に感情を爆発させるまで、ほとんど無表情か、曖昧な笑みを浮かべるだけなのに、空っぽのジュリエットの心が、少しずつ満たされる様子が、手に取るように伝わってきます。渾身の演技で、ジュリエットの厳しさを表現していました。彼女のベストアクトではないでしょうか?ジルベルスタインも、年の離れた妹が必死に姉を思う姿を、喜怒哀楽も愛らしく見える様な演技で、とても好感が持てました。二人のアンサンブルがとても良かったです。
子供を殺した母は、幸せになって良いのか?「私はここにいるわ」。15年苦しみ彷徨っていたジュリエットが、自分の居場所を見つけた今、それを決めるのは私たちでは無く、ジュリエット自身なのだと思います。「ずっとあなたを愛してる」のは、レアの姉への愛、ジュリエットの亡くした息子への愛、そして家族一人一人への思いなのです。家族とは血のつながりのあるなしではなく、どれだけ関わったか、どれだけ愛した記憶があるか、それが如何に長い人生において、生きる力になるかということが、力強く描かれた作品です。
2010年02月03日(水) |
「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」 |
珍しいスウェーデンのミステリー。大ベストセラーの映画化で、多分原作は長尺なのでしょう、駆け足で描く部分に少し物足らなさは感じますが、概ねソツなく作られています。「華麗なる一族」の血塗られた秘密、宗教、猟奇殺人などを絡めて、上手く社会派ミステリーに仕上げてあり、私は面白く観ました。
月刊誌「ミレニアム」に勤めるジャーナリストのミカエル(ミカエル・ブルムクヴィスト)。大物実業家の不正を追及していた彼ですが、逆に罠に嵌められて失脚。半年後には刑務所に三か月入らなければなりません。そんな時大財閥ヴァンケル・グループの前会長ヘンリックから、40年前に失踪した我が子のように可愛がっていた当時16歳の姪ハリエットの消息を探って欲しいというものです。引き受けたミカエルですが、早々に調査は行き詰まります。その時、一通の状況を打破するメールが届きます。送信者はリスベット(ノオミ・ラパス)。彼女は秘かにミカエルの調査を依頼したヘンリックにより、調査と称してハッキング。彼を知るうち、真の正義感を持つ誠実なミカエルに関心を持ち始めていたのです。
前半ダーっと、必要限度の物語の背景と関係図が描かれます。それなりに解りやすかったし、役名は覚え辛かったですが、馴染みのない俳優ばかりですが、男女年代別に分かれていて、誰がどんな役回りなのかはすぐ覚えられます。ただし、時間の関係でやや説明不足の点は否めず、想像力を駆使しなければいけないです。でも上手くまとめているとは思います。
対照的に、主役二人の描き込みはとっても上手。ミカエルは正義感の強いジャーナリストですが、あまり人との争いを好まず、この手の人にしては珍しい温厚で誠実な男性で、芯の強さも伝わってくるし、作品が進むに連れてより彼を好ましく思えてきます。
そして強烈な個性を放つリスベット。彼女のようなヒロインはかつて観たことがないです。小柄な細身の体、ショートカットの髪型に服は革ジャンにジーンズ。顔には無数のピアス。バイクを果敢に乗りまわす姿は、思春期の怒れる少年のようです。若い女性らしい笑顔も愛想も全くなし。しかし徐々に匂わす彼女の過去に思いを馳せると、傷ついた心を必死に自分自身で守ってきた彼女がおり、観る者を惹きつけます。
訳ありで保護観察中のリスベットを、いたぶり弄ぶ男性保護司。こんな蛮行が現在のスウェーデンであるなんてと驚愕し、怒りが湧きます。しかしリスベットの報復の仕方がまた強烈。胸はすくのですが、この並はずれた度胸と知恵は、今まで如何に彼女が不本意な人生を歩んで来たかも、忍ばせます。そしてこの事が、ハリエット事件の重要な伏線となり、原題の「 MEN WHO HATE WOMEN」(女を嫌う男たち)にも繋がっていきます。
リスベットに協力を要請するミカエル。人、特に男性に尊重される事がなかったであろうリスベットは、優しく接してくれるミカエルに戸惑います。徐々に不器用ながら彼に心を開くリスベットの様子が初々しい。
捜査は天才ハッカーのリスベットの明晰さと、長年培われたミカエルのジャーナリストの勘が相乗効果を呼ぶ展開です。特に感心したのは、写真のネガから、40年前のハリエットの心境をあぶり出したミカエルの眼力です。デジタル全盛の今ですが、長年のキャリアと言うアナクロな部分も必要不可欠なんだなと、痛感します。
この二人を観ていると、今までのミステリーの男女のパターンが逆転していることに気付きます。女性は守られるものではなく、女性が常にリードし、男性の窮地に駆けつけるのも女性。訳ありの過去を背負い、心をほぐしてくれた相手を「抱く」のは女性で、受け止めて「抱かれる」男性。しかし「心を抱く」のは男性の方。攻撃的→女性、受け身→男性なのです。福祉大国で知られるスウェーデンですが、実は昔から男性による女性への暴力が社会問題となっているそうで、原作者はその現状に一石投じたかったのかも知れません。
しかし、どうしようもない男たちを描く一方、主要人物に誠実なミカエルやヘンリックを配し、目配せも万全。ただの男性糾弾には終わっていません。
長兄を差し置いて、何故弟のヘンリックが財閥を継いだのか、宗教になぞらえて犠牲になった女性たちの人種などに思いが及ぶと、過去も含めた社会派としてのスケールの大きさも感じます。そして血の通った一族の全てを金の亡者として嫌い、ハリエット事件の犯人として「誰もが怪しい」と言うヘンリックに、普遍的なお金や血族にまつわる恐ろしさも感じます。性的暴行の場面や猟奇殺人の場面では、かなり際どく凄惨な場面も出てくるので、ショッキングですが、観た後はそんな場面より内容の方が強く印象に残る、出来の良いミステリーでした。
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