ケイケイの映画日記
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2009年10月29日(木) 「パイレーツ・ロック」

わ〜、面白い!正確に言うと懐かしいかな?作品の時代(1966年)は、私はまだ幼稚園くらいで、私がラジオっ子になるには7〜8年後くらいになりますが、それでも時間きっかりにいずまい正して、ラジオの前に座った中高生時代が、目の前に現れたような気になります。洋楽が好きだった45歳前後以上の人は、必見の作品です。監督は「ラブ・アクチュアリー」のリチャード・カーティス。

民放局がなかった1966年のイギリス。BBSラジオ局はロック・ポップスを一日45分間しか流しませんでした。不満が国民の間に渦巻いていましたが、それを救ったのが24時間ロック・ポップばかりを流す、イギリス政府の管轄の及ばぬ海上に浮かぶ船のラジオ局”ラジオ・ロック”でした。ある日高校を中退になったカール(トム・スターリッジ)が、彼の母親とラジオ・ロックの経営者クエンティン(ビル・ナイ)が旧知の仲ということで、船に預けられることに。伯爵(フィリップ・シーモア・ホフマン)初め、個性的なDJや裏方たちに囲まれた、自由な生活を満喫するカール。しかし政府はロックは不道徳と決めつける大臣(ケネス・ブラナー)は、ラジオ・ロックを潰そうと懸命になっていました。

とにかく楽しいのなんの。本当に若い時を思い出しちゃう。実際はオープニングでかかったキンクスの「all day and all of the night」だって、私が知ったのはストングラーズがカバーしたのでしたが、キンクスのカバーつったら、ヴァン・ヘイレンの「 you really got me」は最高だったよなぁ〜と、スクリーンを観ながら、果てしなく芋づる式に青春時代が蘇るのね。知ってる曲知らない曲入り混ぜながら、上映中ずーとロックとポップスの洪水でゴキゲンな気分です。

今では遠く日本の子供たちの教科書にビートルズが載る時代ですが、確かに昔はロックというと、アナーキーで不良性感度満点、ドラッグにアルコールにグルーピーのお姉ちゃんとの乱交パーティ、ってな具合で、大英帝国のお偉いさんたちには、目をつけられても仕方無かったかもなぁ。とこれは私のような年寄りならわかることで、この辺は映画的には、当時を知らない若い人にはやや解りづらかったかも?でも不問

キャラの立っている個性豊かなDJたちがすごくいいです。髭面メタボながら、ワイルドな大人の男の余裕を感じさせるホフマンが私は一番好きだなぁ。紫のスーツ着て、キザで濃厚なフェロモンをまき散らす出戻りDJリス・エヴァンスとの、海上変形チキンレースもとっても良かった。男が腰ぬけと言われて、引き下がっちゃいけません。女も見てないのに意地張って、何て可愛いんでしょ。

可愛いと言えば、とにかく船上生活は下ネタまみれ。未経験のカールの初体験に総出で協力するとこなんかとっても楽しそうで、男の子の初体験を描くと、明るくっていいですよねぇ。でもそれだけじゃあーない!音楽に対しての熱い思いも描けていて、やんちゃなだけじゃない、ロックな男の心意気もちゃんと描けています。

間に挿入される老若のリスナーの描き方も、これまた楽しくって。私もあんなだったなぁと思いだす場面多し。DJに憧れる様子もとっても理解出来る。今は花形DJっているんでしょうか?私は中高、とにかく渋谷陽一が大好きで大好きで大好きで。同時代に大貫憲章や伊藤正則もいましたが、お茶目でバカっぽくやんちゃな彼らより、渋谷陽一はこの二人と同じ年とは思えぬ落ち着きとインテリジェンスがあってね、(今も昔はインテリ男に弱い)今じゃネットで簡単に顔も拝めるけど、昔はそういう訳にもいかず、渋谷陽一はアウストラロピテクスに似ているという噂が流れたこともありますが、北京原人だって、渋谷陽一ならいいわ!ってなもんですよ。創刊直後の「『ロッキン・オン』下さい」と本屋に行って、しばらくして手渡されたのが『ロッキン・F』でがっくりきたり、対していいとも思わないパリス(ヒルトンじゃないよ)のアルバム買ったり、本当はディープ・パープルの方が好きだったのに、必死でツェッペリンが上なのだと思いこもうとしたり(でも今は断然ツェッペリンがすごいと思うのだから、不思議)、本当に渋谷陽一命でした。だから映画が「タイタニック」化したその後の展開は、本当にものすごくわかる。ある意味リスナーとDJの、幸せな時代だったのでしょうね。

流れる音楽は、ロックというよりポップスが多かったかな?版権の関係でビートルズやツェッペリンはダメだと思っていましたが、クリームやヴァニラ・ファッジなんかは期待していたけど、流れなかったなぁ。でも不問。私の青春時代は、映画から10年後くらいですが、当時はいわゆる新御三家と言われる、郷ひろみや西条秀樹が人気で、その次がユーミンなどのニューミュージックで、ハードロック組は少数派でした。軽音楽部に走らず、ひたすら聞き手にまわる私のような子は地味目の子が多かったような。特にプログレ好きは哲学的文学少女が多かったです。だから「政治家って何にもわかってないんだよ」という劇中のセリフは、今も昔もいっしょなのよね。

この作品、正直言って、映画的には一味足りないような気がしないでもないんですが、でも不問。若い頃は復活のGSカーニバルに熱狂する私より年長の女性たちを見て、何が面白いんだろう?と、皮肉っぽく観ていた私ですが、GSがロックに変わっただけで、私も全くいっしょ。笑って下さいまし。青春時代洋楽まみれで、私は幸せだったんだなぁと、つくづく思わせてくれた作品です。さぁ今からクィーン聞こうっと!


2009年10月24日(土) 「ひだるか」

う〜ん・・・。困りました。お友達のとめさんに誘われ、港健二郎監督の「ひだるか」の自主上映に行きました。港監督とは、一度お目にかかったとこもあり、お友達各位の日記のコメントを拝見しても、そのお人柄の良さが伺える方です。しかし映画の出来と監督の人間性とはまた別モノ。残念ながら楽しめませんでした。辛辣に書いてしまうと思います、監督ごめんなさい!今回ネタバレです。

福岡の地方局の花形アナウンサーの陽子(岡本美沙)。不況で外資系資本により、テレビ局が乗っ取られそうになる最中、労組は二つに分裂する危機に直面します。この状況が、「三井三池争議」と共通するものを感じる陽子。争議には当時、陽子の父も関係していました。陽子は争議のことを、もっと知りたいと思い始めます。

物語の核は、三池三井争議の内容が、どんなものであったかということ、それに主人公陽子の成長物語を絡ませて描きたいのだとはわかりました。しかし如何せん、三井三池争議まで辿りつくのに、時間がかかり過ぎ。

それまではヒロインの魅力で引っ張らなければならないはずが、主演の岡本美沙に魅力が薄すぎるのです。アナウンサーというのにカツゼツが悪く、終始仏頂面で、表情は可愛げのない気の強さだけが常に強調されます。演技も他の無名の俳優たちが、それなりに役をこなしているのに対し、一人浮きまくるほどヘタクソです。実際のご本人が本日来場されていましたが、笑顔の柔らかな素敵な女性で、何故このチャーミングな笑顔がスクリーンで映らなかったのでしょうか?ちなみに音楽も担当されていますので、主演は別のプロの俳優を使った方が、ご本人のためにも良かったかと思います。

ヒロインも長く福岡に住んでいる割には、かの地に対して愛着が感じられません。優秀なアナであるとも感じさせるシーンはなし。これはまずいんじゃないでしょうか?大牟田での祭りの様子は映されますが、福岡らしさが画面には香ってきません。ここもバツ。

陽子は上司(四方堂亘)と恋仲ですが、何故八年間も秘密の恋とする必要が?二人の情事の場面が出てきますが、あの描き方では観客は不倫だと勘違いします。独身同士の恋なら、情事の場面は要りません。ピロートーク的に仕事の裏話を男女が色っぽく語るのならば、バスロープがごつ過ぎです。まるでコートを着てベッドに横たわっているようでした。

父親(入川保則)がガンで余命いくばくもないのに、手紙でその事を伝える母(星由里子)。このご時世に、一人娘にそんな大事なことを手紙で書く母親がどこにいる?ここは当然ガンが発覚した時点で電話です。父親には故郷の三池に思い出したくない理由があるらしいと、母親から語られるのですから、父が九州に娘が赴任するのに良い顔をしないのは、それなりに納得出来るのですが、それが長きに渡って娘との確執になる原因とするには、あれだけの描き方では納得し難いです。

自分がどうしてアナウンサーを目指したのか、原点回帰のため、当時の恋人に会うヒロイン。大学校内から元彼が出てきたので、大学の助手か講師になっているのかと思っていたら、外交官だと語られます。ここも違和感。途中のタクシーの中での会話なのですが、外交官である元彼が訪れたフィリピンの話になり、「知ってるわ、ピープルパワーね」という「だけ」の陽子のセリフには、絶句。いやしくも12年ジャーナリズムに身を置くキャリアのある女性が発する言葉ではなく、女子大生の発言です。知っていて当たり前のことです。語るならもっとピーブルパワーを掘り下げてヒロインに語らせるべきです。元彼にも未練たっぷりによりを戻そうと語らせるのではなく、もう既に結婚していて子供もいて、仕事でも実績を残している姿を見せて、陽子を発奮させるべきでは?ただ飲んでしゃべって元気が出たわ、では、30半ばの女性として非常に幼い気がします。

申し訳ないですが、いちいち語り口が拙いなと感じながら、ヒロインに感情移入出来ないまま、核心の三池三井争議に作品は突入。しかし残念ながら、私にはこの争議が如何に大変なものであったか、理解出来ませんでした。この描き方は争議の内容が頭に入った人には心に響くかもしれませんが、私はこの争議については予備知識がありません。ここは時間を割いて、争議の様子、それを支える家族の様子を回想シーンも交えながら、丹念に描く方が良かったと思います。時間の関係なら、前半を半分カットしてもお話は成立するはずです。

それとセリフの一つ一つに、言霊というか、あまり感情がこもっていないのが気にかかりました。気の利いたセリフがあるかどうか、これは作品の印象を左右します。

極めつけは、自分の担当する番組の本番中で、勝手に番組に全く関係ない労組内での内情を発言をするヒロインにまた絶句。番組は彼女一人のものではなく、たくさんの人の手がかかって作られているはず。こんな勝手が許されて良いわけはありません。第一私がイチ視聴者なら、ヒロインに反感を持つ行動です。これが正当化されて描かれている点が、気になります。ヒロインは、アレコレ時間をかけて自分を探しをしながら、いったいどこが成長したのか、私にはわかりませんでした。父親との確執は解けたかも知れませんが、それはあくまでプライベートの話。仕事面の成長があれでは、幼すぎます。上司から同僚深町に乗り換えるシーンも不必要。今彼・元彼・未来彼。男なしじゃ、いられないの?

全体に観客に向けてというより、どの描写も作り手の自己完結が過ぎて、観客は置いてけぼりと感じ、不満の残る内容でした。しかし有名どころのキャストは上記以外に、佐藤充、沢田亜矢子など、自主上映の作品としては豪華といえ、これは監督の人徳のあらわれでもあるのでしょう。次回作は是非その人徳が生かされる作品でありますよう、祈っていますので、頑張って下さい。応援しています。


2009年10月22日(木) 「悪名」(大阪ミナミ映画祭)

大阪ミナミ映画祭で観てきました。この映画祭は今回で五回目。
何でも日本で一番初めて映画が上映されたのが、現在の高島屋前の丸井だそうです。大阪に所縁のある作品や人物が上映されるのが特徴です。私が観たのは、サテライト大阪と言って、競輪の場外車券場での上映でした。入場券500円なのに、ペットボトルのお茶とお菓子までいただき恐縮していると、特別こしらえの会場では懐かしのポップスや歌謡曲まで生演奏。椅子は120席くらいでしたが、オールドファンを中心に7分くらいの入りでしょうか?皆さんとても楽しそうで私まですっかり嬉しくなり、新作の「エスター」をぶっちぎって、こっちにして正解でした。

終戦直後の大阪の河内。朝吉(勝新太郎)とモートルの貞(田宮二郎)は、松島遊郭で働く遊女・琴糸(水谷良重)を足抜けさせるため、奮闘します。

今回初めて知ったのですが、この作品は私が生まれた年に制作されています。勝新と言えば「座頭市」が浮かぶ方も多いでしょうが、少々むさくるしい市より、私は男気と可愛さがいっぱいの朝吉の方が断然好きです。大昔に幾度となくテレビで観た作品ですが、今回自主上映と言う形で念願のスクリーンで拝見。笑うところは笑い、しんみりするところは会場にその空気が漂いという、ノリの良い大阪のオールドファンと、「悪名」の世界を堪能しました。

まず感心したのが、勝新の大阪弁が完璧なこと。イントネーションから微妙なセリフ回しまで本当に上手いです。この作品のおかげで大阪の河内はがらが悪いと世間から言われるようになったそうですが、なるほど、男が喧嘩の時発する言葉は、大阪弁が最強やなと、しみじみ思いました。

その喧嘩なんですが、近頃のアクション映画とは違い、無手勝流の本当の男同士の喧嘩と言う感じで、非常にリアリティがあります。朝吉の腕っ節の強さに惚れ惚れしながら、やっぱり男は喧嘩の一つも出来んとあかんわと痛感します。

貞のお茶目な一本気さも、さっぱりしているのは江戸っ子だけじゃないぞと、にんまり。制作当時、伸び悩んでいた勝新と、新進俳優であった田宮二郎だったそうですが、二人とも若さと勢いが溢れていて、なるほどこれはブレイクしたはずだわと納得。今なら阿部寛が絶対に昔の田宮二郎の役が似合うと思うんですが、いかが?

男が男らしさを発揮すれば、女の方も艶と愛らしさがいっぱい。艶の方は朝吉を騙して駆け落ちする人妻の中田康子の、色っぽさときっぷの良さが絶品です。清楚で陰のある憂いを漂わせる水谷良重と、初々しく伸びやかな愛らしさがいっぱいの中村玉緒は同年代ですが、同じ水商売についても、体を売る水谷良重の陰と、酌だけの中村玉緒の陽が、鮮やかにコントラストされているのがもの哀しいです。

特に特筆すべきは中村玉緒の花がほころんだような愛らしさです。もう本当にこんな可愛い子がいようか?と思うほど、女の私でもデレデレしてしまいそうなほど、本当に可愛い!バラエティの彼女しか知らない若い方に、是非ともこの頃の中村玉緒を観て欲しいですね。

この50年弱で、人間のDNAって変化したのか?と思うほど、男は男らしく女は女らしくの世界です。琴糸の気持ちも考えず、夫婦の契りを交わした玉緒を紹介するなど、とうへんぼくな朝吉ですが、空気が読めたり気配りが出来過ぎる人より、私は男はこれくらい鈍感(無神経にあらず)な方が好きです。そんなことより大事なのは、命懸けで女を守るということですから。
半世紀で、人権問題など、格段に進歩したところもある世相ですが、その代わり、何か大事なものを失ったとも感じました。

男の強さと負けん気と、女の可愛げが、若々しく充満している作品です。愛嬌もユーモアもたっぷり。ラストの朝吉の「わいが死んでも、わいのど根性は生きとるわ!」のセリフに、拍手喝采。私は大阪の女なのでね、大阪の男が素敵に描かれていると、やっぱり嬉しいです。

映画祭はあと二日。皆さま奮ってご参加下さい。
大阪ミナミ映画祭(HPです)
実行委員の皆さま、楽しい時間をどうもありがとうございました。来年も是非参加させていただきます。







2009年10月19日(月) 「悪夢のエレベーター」




タレント兼バラエティーの放送作家の、堀部圭亮の初監督作品。実は「アフタースクール」系の、後で色々わかります的ドンデン返し作品です。なのでちょっとだけしか書けません。堀部監督、なかなかの出来で頑張ってます。

マンションのエレベーターに突然閉じ込められてしまった男女四人。出所したばかりのコソ泥(内野聖陽)、ジャージ姿のマンション住人(モト冬樹)、イケメンの青年(斎藤工)、そしてゴスロリ少女(佐津川愛美)。彼らはエレベーターから脱出出来るのか?

「アフタースクール」系以外は、もう何も予備知識なく観ました。コメディだと思っていたので、冒頭の内野聖陽の人生ドン詰まり感満載の独白に???。そこから一転、場面はエレベーターに。

確かにブラックコメディでした。「アフタースクール」のように、綿密に練り上げたのとは違い、あちこち無理がありましたが、まぁこのくらいは許容範囲かな?とある職業が重要なポイントなんですが、幾らなんでもこれほど杜撰じゃないだろうと思いますが、この職業の胡散臭さがある程度は払拭してくれますから。ただところどころ、伏線は散りばめていますが、全部がピッタリというわけではありません。その辺はオチも含めて「SAW」の方が近いかも。

仮面の下に見え隠れする真実が、切ないです。モト冬樹の表情が良かったなぁ。佐津川愛美の熱演&怪演も愉快。斎藤工のハンサムぶりも見どころかな?何故かポスターを観た時、私は内野聖陽を寺島進だと思い込んでおりました。この衣装、寺島進に似合いそうでしょ?暑苦しさを逆手に取ったプロットもあり、演技は確かな人なんだと再確認。

しかし他のキャストの背景がわかりやすいのに、この人だけ何でここにいて、こんなことしてんの?が、あまりわからないので、独白もイマイチ凄味と孤独感が足りませんでした。

管理人で不快感を増したり、コメディっぽさで笑いをとったり、生の大切さを教えたり、人生の不条理感を出したり、ホラー色満開のオチにしたりとてんこ盛りなのに、それなりに上手く整理はついています。しかしあれもこれもと、手を広げ過ぎた分、全部が小さくまとまった感がありました。私は変にドラマ的深みを求めず、不条理で押し通した方がもっと面白かったと思います。

とはいえ、監督第一作でこの出来は、今後相当期待出来ます。あんまり満点のスタートダッシュより、少々粗がある方が初々しいというものです。堀部監督、次も観るから頑張ってね!


2009年10月17日(土) 「クヒオ大佐」




う〜ん・・・。出来は超微妙。決して駄作ではないと思います。しかし期待した内容じゃなかったんだなぁ。私はもっと爆笑出来る作品かと思ってたんすが、映画は変にほろ苦い方向に行こう行こうとします。もうちょっと笑いたかったなぁ。

ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐(堺雅人)。彼は父はカメハメハ大王の末裔で、母はエリザベス女王の妹の夫のいとこ。米軍パイロットで、今は日本に駐留しています。が、これは全部嘘。クヒオは結婚詐欺師で、婚期を逸した弁当屋の女社長しのぶ(松雪泰子)や、博物館学芸員の春(浦島ひかり)を手玉に取り、次のターゲットは銀座の一流店のナンバー1ホステス未知子(中村優子)に狙いを定めますが・・・。

まず堺雅人。あの付け鼻は必要あったんでしょうか?実際のクヒオは、髪を金髪にして目に青のコンタクトを入れても、なお隠せぬ貧乏臭くて貧相な背の低い男性でした。私は実際の写真を見た事があり、何故こんな男に女たちは騙されて、総額一億円みついんだんだ?と絶句した記憶があります。私は付け鼻するって聞いたから、取り外しが出来るんだと思ってました。堺雅人の顔にず〜とあんなのがついてても、何にも面白くないじゃん。

女たちを手玉に取る方法は、しのぶや春の純情さが出ていて、まぁそれなりには納得。軽いジョークっぽいノリで笑わせてはくれますが、女心の純情はもっと執念深く怖いもんですが、その辺もサラっと描くので、同情はありますが、何故こんな知雑な手口にはまってしまうのか?という点では納得しかねる感じ。

イイ味出してるしのぶの弟(新井浩文)が、「姉貴はバカじゃない」と言いますが、その賢くて健気で働き者のしのぶが、何故クヒオに騙されたのかが、私はセリフ以外で納得したかったわけですよ。そこをきちんと描けば、どーんと彼女たちに共感出来たはず。

女騙すのだから、セックスはつきものですが、それも中途半端。さっきお友達の日記で話してたんですが、何で監督はあんなしまりのない堺雅人の裸出したの?堺雅人をクヒオに選んだのは、もっとファンタスティックな味を求めてでしょ?それにしちゃ、あの弛んだ体、遊び人っぽい乳首、意外と大きいお尻など、体全部が年齢より中年男してて生臭い。この生臭さは、本物のクヒオのような貧相な男が晒してこそ、哀愁があるんじゃないですか?彼の持ち味って、オスの匂いが少ないところだと思います。全然ないのじゃなくて、少ないの。だから恋愛はするし、キスはしてもいいんだけど、エッチそのものは見せてほしく無いなぁ。

それに比べ、未知子さんはエライ。ほほ〜、銀座の一流どころさんは、こうやって男騙くらかして金を引き出すのかと、その鮮やかなお手並みにクヒオより感心。絶妙の曖昧さで男を煙に巻くのですね。気のある男なら、一発だわなぁ。私は結婚が早くて、男なんか騙したこともなく、オトそうと思って狙ったこともなく、全然自慢出来る男遍歴がないんでね、もう未知子さんにわくわくしちゃって。20歳若かったら、この妙技、使ってみたかったなぁ。

彼の生い立ちも語られますが、同情は出来るものの、如何にもなお安い設定で、このため彼が結婚詐欺を働いたという理由づけは、ちょっと苦しいです。落ちのシーンも、別にいらなかったんじゃないかなぁ。某新聞の宣伝記事で、クヒオがアメリカ軍人という設定から、アメリカにいつまでも言い返せない日本をも描いていると書いてありましたが、そんな余計なことしなくていいから、もっと日本の男女の哀歓を掘り下げて描いて欲しかったです。

まぁそれでも現在絶好調の堺雅人ですからね、ややミスキャスト気味と言えど、それなりには楽しめました。松雪泰子ってね、普通の女性より手がすごく大きいんです。とっても働き者の手をしているんですね。彼女の手が映るたび、しのぶの人生が重なり、私は良いキャスティングだったと思います。売り出し中の浦島ひかり嬢も念願叶って見られたし。何となく昭和の香りもする子で、確かに皆さんが騒ぐのも納得出来る若々しい存在感でした。新井浩文は、今回完全に堺雅人を食う演技。姉ちゃん思いだけど性悪の弟を、ふてぶてしく演じて二重丸。しかしなんといっても未知子さん!中村優子!すごい美人じゃないけれど、トータルバランスが取れた容姿に、エレガントな物憂げな物腰。謎の多い微笑み。しかし心の中は毒がいっぱい、はすっぱがいっぱいで、見事な女っぷりでした。私がこの作品で萌えたキャラは、未知子さんです。演じる中村優子は本当に何でも出来る人で、地味な人ですが、もっとブレイクしてほしいなぁ。





2009年10月14日(水) 「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」




連休最終日に観ました。原作は高校生の時に読んだきりで、あまり覚えていなかったのですが、映画が進むうち、あぁ確かに悲惨なはずなのに、こんなおかし味のある雰囲気だったなと、思い出しました。しっかりと作り込んだ終戦直後の風景の中、放蕩者の夫としっかり者の妻の「別れぬ理由」を、ユーモアをたたえながら、しっとりと描いていた秀作です。

終戦直後の東京。作家の大谷(浅野忠信)は、ありあまる才能がありながら、酒と女に身をやつし家庭は顧みないので、妻佐知(松たか子)と幼い息子は貧乏暮らしです。馴染みの椿屋から金を持ちだした大谷の借金を返す為、佐知は椿屋で働くことに。気立てが良く器量良しの佐知は、あっと言う間に店の人気者に。佐知に恋する常連客の岡田(妻夫木聡)や、かつて佐知が憧れていた弁護士の辻(堤真一)が妻の前に現れて、嫉妬する大谷。どんどん魅力的になっていく妻が不貞を働いているのかと、邪推します。

と、こういうストーリーなので、まんま原作者の太宰の私小説って感じですが。心中未遂までするしね。

美術が素晴らしいと聞いて、とても楽しみにしていましたが、なるほど本当にセットから人物まで、しっかりと作っていました。もちろん私も終戦直後など知りませんが、子供の頃、テレビで観ていた昔の邦画の風景が、色つきで再現されていました(モノクロ作品が多かった)。脇役から子供まで、妙なイケメンや美女もおらず、当時の雰囲気がよく再現されていました。

大谷は自堕落で無頼な男ではありますが、妻に暴力をふるったり蔑んだ物言いをするわけでもなく、極めて紳士的ですらあります。普通なら家に金も入れず、女とほっつき歩いて深い仲になる夫など、顔を観れば喧嘩になるはずですが、この妻の方も鷹揚に構えています。ある意味お似合い。

大谷は「私は未だにあの人(妻)がよくわかりません」と語ります。椿屋では客あしらいも上手く、明るく可愛い「椿屋のさっちゃん」、椿屋の主人夫婦(伊武雅刀・室井滋)の前では、夫に尽くす健気な人妻。しかし確かに大谷の前では、謎めいて見えます。一円のお金もないのに何とかしてしまう性根の座り方は、極道の女も真っ青だし、夫に不貞を邪推され涙ぐむ様子を、大谷が「またそんな商売女の様な真似を・・・」と言った時は、私も全く同じ事を感じていたので、思わずクスクス。

普通なら夫のために酌婦のような真似をさせられている、とっても可哀想な妻で、何てこと言う夫だ!と憤慨するはずですが、佐知には可哀想と言う言葉は似合いません。大谷は妻の得体の知れない器の大きさに、怖れを抱いていたのかも。それは今は自分に善として向いていますが、いつ悪になってしまうかわからないと思っているのかも。

大谷は佐知がいるので、「安心して浮気」しているのでしょう。いつでも自分には帰れる家があるのですから。心中未遂の相手秋子(広末涼子)は、勝ち誇ったような目で佐知を観ます。それは「私が最後の女に選ばれたのよ」という意味なのでしょうが、大谷にとっては、佐知以外の女性なら、誰でもよかったのだと思います。彼にとっては、佐知こそが「生」であって、自分が死んでも、生きていて欲しい女性であったのだと思います。

原作を読んだ時も、佐知が子供をおぶる姿が目に焼きつくほど出てきて、それはこの作品もいっしょです。なのに驚くほど子供の存在感が希薄なところも一緒。子供がいようがいまいが、夫と妻は父と母以前に、男と女でありたいという、太宰の心の表れのように感じました。子供にもらったサクランボを夫婦で食べるラストには、「桜桃」の出だし、「子供より、親が大事と思いたい」という強がりの文章が浮かびました。

松たか子が絶品。楚々として愛らしいのに、豪気で大胆な佐知を、おっとりとしてユーモアたっぷりに演じています。そんな彼女ですから、「夫に心中された妻は、それからどうやって生きればいいの?」と涙ぐむシーンや、パンパンから真っ赤な口紅を買うシーンが、本当に切なくて。私が苦手な浅野も相変わらず大根ですが、自分ばかりが可愛い大谷を演じて、今回はそこそこでした。嫣然とした広末にもちょっと感激しましたが、考えれば彼女、もう30なんですよね。

「人非人でいいのよ」と、温かく夫を包む佐知。大谷に太宰を重ねると、本当に妻にとってはこれ以降も「ひとでなし」ですが、太宰は佐知に妻の理想を見出していたかも知れません。


2009年10月12日(月) 「さまよう刃」


東野圭吾原作の映画化。重厚さは充分にあるのですが、全体的に演出が平板で、終盤まで盛り上がりに欠けました。しかし題材に少年犯罪を扱って、それなりの見応えはあり、水準作ではあると思います。

中学生の娘エマと二人暮らしの長峰(寺尾聡)。妻は二年前ガンで亡くなり、娘の成長だけが長峰の生きがいでした。しかしエマは未成年の不良少年たちに理不尽に連れ去られ、凌辱されたあげく、河川敷で死体となって発見されます。悲嘆にくれる長峰の元に、犯人の名前を告げる留守番電話が入り、長峰はその一人であるアツヤを殺害します。アツヤ殺害を自供する手紙を警察に出した長峰は、もう一人の主犯・菅野カイジを探します。菅野保護と長峰にこれ以上罪を犯させないため、警察は長峰逮捕に懸命に動きます。

昨今叫ばれるのが、少年犯罪での被害者と加害者の人権の比重の問題です。未成年であるため、将来の構成目的のため、名前も出ず量刑も軽い。加害者なのに重く人権が守られている。対する被害者及びその家族の気持ちは無視に近く、おかしいのじゃないか?と言う事です。

このことに関しては、私自身も法の在り方に疑問があり、この作品のやり切れない長峰の心中には100%以上共感してしまいます。この気持ちは捜査する警察側の人間も同じで、織部刑事(竹ノ内豊)は、レイプ殺人を犯した菅野を保護し、その心中を理解出来る長峰を逮捕しなければならない、その矛盾に葛藤する姿も描かれてます。

それと密告者なのですが、犯人グループの一味なのです。しかしこのクソガキ(暴言・でもこれで充分)が密告したと、警察では推定で事を進めますが、そんなことしなくったって、こんなチンタラのらくらした輩、日本の警察なら、一回の取り調べで一発で白状させることが出来る筈。あののんびりした取り調べは、いったい何なんだ?と憤慨しておりましたら、どうも原作はこのクソガキが密告したんじゃないそうで。

他にも長峰はライフルを手渡されるんですが、ライフルってちょっと扱い方を聞いただけで、素人にも的を撃てるもんなんですか?ここも謎でしたが、これも原作では長峰は学生時代射撃部だったという設定とか。何でこんな無理な変更したのか?

問いかけや描く内容は良いのですが、如何せん上滑りとまでは言いませんが、展開のテンポが遅く、描き方もここをもうちょっと作りこんだら涙腺決壊なのに、と思うところで次のシーンに行くという、何と言うか、薄味な作り。問題定義の底が浅い気がします。不良少年たちへの憤りは持続するのですが、長峰への共感は増さなければいけないはず。だって共感が増して初めて、観客は法の矛盾への怒りを増大させるわけでしょ?ずっと同じペースで、盛り上がりに欠けます。かといって退屈なわけではなく、気持ち60%のまま、ずっと最後まで行きます。

ラストの長峰の行動を、「グラントリノ」と重ねる感想を多数目にしましたが、うーん、根本的に違うと思う。イーストウッドの場合は、チンピラを逮捕させるのが目的でしたが、菅野の場合は、保護された後、レイプ事件と殺人で立件されるはず。イーストウッドと長峰は結果は同じでも、そこへいく過程も感情も、異質のものだと思います。

と、散々書きましたが、面白くないかと言えばそうではなし。印象に残るセリフや見せ場もあり、退屈はさせませんでした。特に良かったのは刑事役の伊東四朗と、ペンションオーナーの山谷初男。伊東四朗は、織部が託つ葛藤を、いやというほど潜り抜けて、今の彼がいるのでしょう。そしてたどり着いた結論が、「警察は法を順守する」ということなのです。しか決して冷徹なわけではなく、被害者にかける温情と自分の仕事に対しての区分けがきちんと出来ているのです。そういう老刑事の心境を、淡々と冷静なセリフ回しや表情で表現していて、お見事でした。唐突な行動に出る山谷初男も、彼が演じる事で、何となく説得感が出るから不思議。脇役とはかくあるべきですな。

号泣する気で観たので、そこんとこは肩透かしでしたが、誠実には作ってあります。ただ丁寧さが足りないです。社会派娯楽作としては、本当にそこそこ、観て損はないくらいの出来ではあります。


2009年10月11日(日) 「私の中のあなた」

生と死の尊厳を真摯に見つめた、あざとさのない難病もの。死の迫る少女の痛々しさを描きながら、平行して母親の業も描いていました。お友達によると、監督のニック・カサベテスには心臓病のお子さんがおられるそうで、こっちは裏テーマかも。半分くらいからずっと泣きっぱなしでした。姉役のソフィア・ヴァジリーヴァとキャメロン・ディアス、とっても頑張ってます!

11歳のアナ(アビゲイル・ブレスリン)は、2歳の時白血病を発症した姉ケイト(ソフィア・ヴァジリーバ)の命を助けるため、遺伝子操作から生まれた女の子。しかし生まれた時から、健康な体を傷つけられ続けたアナは、もう臓器提供はしたくないと、勝率91%という辣腕弁護士キャンベル(アレック・ボールドウィン)を雇い、ブライアン(ジェイソン・パトリック)とサラ(キャメロン・ディアス)の両親を訴えます。

まず冒頭、自分が遺伝子操作で姉のために生まれてきたアナの、何とも言えない寂しさのこもる独白が流れます。「ガタカ」で描かれていたことが、本当に行えるようになったのだなぁと思いつつ、生の誕生という神の領域に、人間の関与はどこまで許されるのかという疑問に、一つの答えを出しているように感じます。しかしラストのアナ自身の独白では、全く別の答えが出てきます。

猛々しいまでに子供を愛するサラは、母親以外の人には、どう見えるのでしょうか?予告でも流れていましたが、抗がん剤の副作用のため毛が抜け落ち、外に出るのを嫌がるケイトに、自らもバリカンで坊主頭にしてしまい、娘を連れだすサラ。一見母心の美談に描いていますが、この有無を言わさぬ強引な「母性」に、家族みんなは抑圧されています。そのことにサラだけが気付きません。

少し距離を置いて妻と娘に接する父。何度も妻に助言をしたでしょう。しかし聞き入れぬ妻。子供が死んでしまうことを受け入れられない妻の気持ちが、同じ親なればこそ痛いほど理解出来るのでしょう。やはり子供は母親のものなのかと、誠実な寂しさを漂わす父。

寂しいのは弟ジェシーや妹のアナとて同じです。しかしアナは多大な犠牲を払っても、自分の存在で姉が生命を得ているという自負もあるでしょうが、ジェシーの場合は行き場のない寂しさを、夜の街をさ迷い歩くということで、解消しています。不良になることも出来たでしょう。しかし難病の姉を中心に回っているこの家では、他の子供が曲がる事なんて御法度です。彼らも母を理解しているのです。病気の子を盲愛する母親と、寂しさを託ちながら、二人を愛する家族という図式を丁寧に丹念に描いて、胸に沁みます。

母親の理想の在り方としては、多分間違っていることも多いだろうサラ。客観的に観てはそう思えても、私はサラの気持ちが本当に痛いほどわかります。ガンであった私の母が、もう今日明日には亡くなると言う時、妹と交代で私は母に付き添っていました。その日は次男の4歳の誕生日。眠り続ける母の病室から出た私は、電話口から二人の息子の面倒をみてくれている姑と兄嫁に礼を言い、夫に頼んであったプレゼントとケーキの確認をしました。

病室に戻り昏々と眠る母を観て、私は初めて自分が何てひどい娘かいうことに気付き、涙しました。健康に育っている次男には、来年も再来年も誕生日は来ます。それに引きかえ、自分を生んでくれた人は、今亡くなるかもしれないのに、私は幼い息子が、私のいない誕生日に寂しい思いをすることが心配だったのです。これが逆だったら、私は母の誕生日なんて、意識外だったことでしょう。母だって同じ思いを抱いて、私を育ててくれたはずなのに。母が亡くなったのは、その翌日です。

そんな母親の業を身を持って感じたことのある私は、何故彼女がアナに一言の感謝も言わないのかも、わかるのです。いくら姉のために生んだといえ、お腹を痛めた健康体の我が子が、手術台に何度も上ることに心を痛めない母がいるのでしょか?出産までの経過がどんな理由にせよ、生めば同じ可愛い我が子です。アナに感謝や詫びの言葉を口にすれば、もうアナにはドナーは頼めなくなってしまう。弱い者のため家族が協力するのは当たり前のこと。強引にそう思い込まなければ、こんなことは続けられなかったと思います。母とは良き母であればあるほど、家族全員を黙らせてしまう、こんなにも圧倒的で哀しいのかと、痛感させられます。

ケイトが家族に犠牲を強いて闘病生活を続けることに、辛さを感じているのもよく描けています。そして当たり前のことですが、闘病というのは、やはり本人が一番辛いのだということも、彼女を通して理解出来ます。二歳の時の発病なので、人生のほとんどが病気だったケイト。ですが全てが病との闘いであったわけではありません。闘病生活一辺倒だけではなく、楽しい事や思春期の少女らしいロマンスや容姿の葛藤など、年齢にふさわしいケイトの人生があることをきちんと描く事で、暗くなりがちな内容を、爽やかなものにしています。




ケイトを演じるソフィアですが、最初はダコタ・ファニングが予定されていたとか。ダコタが坊主頭がNGで断り、ソフィアに回ってきたとか。結果は大正解。抗がん剤の副作用で、頭髪どころかまゆ毛やまつ毛まで抜け落ちる姿がほとんどですが、体当たりの演技で、とても好感が持てます。若手女優としてこの頑張りは、私は称賛に値すると思います。

当初は危惧していたキャメロンの母親ですが、ふたを開けてみれば、全編ほとんどノーメイクの大熱演で、闘病の娘より母親役の彼女に泣かされました。近年美貌の劣化が囁かれるキャメロンですが、これくらいの演技が出来れば、まだまだ安泰かと思われます。

他のキャストも全て良かったですが、私が心に残ったのは、娘を交通事故で亡くしたばかりの裁判官役のジョーン・キューザック。まだ娘を亡くした哀しみから完全に立ち直れず、時には動揺して涙する姿の人間らしい素直さが、とても胸を打ちます。哀しい時はいくらでも泣いていいのよ。強くある必要は、私はないと思います。

彼女の語る「死は恥ずべき事ではない」という言葉は、とても重いです。病には頑張れという言葉に共に、勝つのだという言葉も添えられます。若い死は負けなのでしょうか?病を得ると何故こうなったのか、人生を振り返り反省するとともに、その意味を見つめたり、プラス思考で奇跡を起こそうとしたり、様々です。この作品の中でも、そういったシーンがでてきますが、良かれと思って口出しするのは、皆普段は疎遠の親戚です。その無力さや白々しさは、壮絶な体験を経た家族へは、何の慰めにもならないと、監督は断罪しているように感じました。これは監督の経験なのかも。

裁判にはある秘密が隠されていました。私は早々に多分そうではないかとわかり、母を思う子の愛にも泣かされました。ケイトは母も自分も、そして家族も、病から解放されたかったのでしょう。子供とは親が思う以上に成長するものです。それがわからないのもまた、親の性だとこの作品は優しく教えてもくれます。難病の子供を抱えて、仕事のキャリアも捨て、人生の全てをケイトに捧げたサラ。しかしこれだけは言えるのは、ケイトを生まなかった人生より、難病のケイトを得たサラの人生の方が、何十倍も幸せだったと、私は思います。人生に何を求めるかは人それぞれ。豊かでもなく、充実してもいなく、価値もなくてもいい。ただ生きている、それが幸せなんだと、気付かせてくれる作品です。


2009年10月08日(木) 「空気人形」




台風迫る中、心斎橋まで出向いて観てきました。でも夫には黙っています。
どんな映画や?と聞かれて、「ダッチワイフが心を持って、ピノキオ化する話」などと言うと、台風の中、何でそんな映画!と言われそうだからです。だって監督は是枝ですから・・・、と言ったところで、是枝?誰それ?どちらさん?の世界の我が夫。まぁ普通はそうなんでしょうねぇ。一部哲学臭い部分に白けましたが、何と言ってもペ・ドゥナ!彼女の素晴らしさが全部帳消しにしてくれる作品です。

下町の古びたアパートに住む中年男の秀雄(板尾創路)は、空気人形のダッチワイフ(ペ・ドゥナ)をこよなく愛していました。ある日、秀雄が仕事に出かけた後、空気人形は心を持ち人間化してしまいます。初めて外に出て、世間を観て回る空気人形。レンタルビデオ屋が目に留まり、彼女は昼間はそこでアルバイトすることに。そして店員の順一(ARATA)に恋してしまいます。

「空っぽ」という言葉がキーワードになって、心を持った空気人形を通じて、人生の空虚や孤独を描いています。冒頭二人分の食事を前にして、一日の出来事を妻に語るような秀雄を挿入。そこから生々しい人形とのセックスシーンがあり、これはファンタジーで終わらせる気はないのだなと、最初に「覚悟」できます。行為後、空気人形の中の人口膣を洗う秀雄。私はこういう仕様になっているとは知らなかったので、何とも侘しい気がしましたが、それはこちらの感じ方で、秀雄自身は妙に達観しているように見えます。

街を歩き、働き、恋をすることで、自分は何故生まれたのか?私は誰かの代用品なのか?昼は順一に恋する乙女。夜は秀雄の性欲処理に使われる空気人形。心を持った事で、哀しさや切なさを経験する様子が、詩的な静かさで流れていきます。

彼女を取り巻くゴミ屋敷に住む過食症の女(星野真理)、犯罪マニアの老婦人(富士純子)、病気を持った元高校教師(高橋昌也)、二人暮らしの父娘、とうの立った受付嬢(余貴美子)、ストレスの溜まった浪人生(柄本祐)、一人暮らしの店長(若松了)、などの、それぞれ人との距離の取り方の不器用な、心に虚しさを託つ人々を配置して、人生においての空気人形の思いの普遍性を浮かび上がらせています。が・・・。

この周辺の人々が、私には類型的であまり面白みがなかったです。如何にもいそうですが、私の周りには一人も似たような人さえいません。リアルなようでリアリティがない。想像の産物でいいいのだけれど、空気人形との絡め方も上手く機能しているとは言えません。だいたい一人暮らしの人ばっかりなんですよね。家庭がなく一人暮らしだから孤独や空虚を感じるとは限らないはずです。

この辺詩の引用があったり、作り手の説教臭さと言うか、ほら、こうやって人生は回ってるんだよ、という哲学的な部分に押しつけがましさを感じて、ちょっと白けました。まぁねこの辺はこちとら嫁業・母親業が長く、自分の代用品なんかあってたまるかのプライドで、脇目もふらず(最近はふってますが)突っ走ってきたので、こういう想像だけの描き方では、ピンと来ないというのが本音です。

しかしそういう不満をうっちゃって、素晴らしいものを観た!という思いにさせてくれたのが、ペ・ドゥナの尋常ならざる好演です。今年30歳の彼女ですが、この愛らしさは犯罪じゃないのか?というほど、「お人形さん」っぷりが絶品です。ヌードシーンもふんだんにあるのですが、ペ・ドゥナの長い手足を生かした美しい裸身は、アンドロイドそのもの。体臭を一切消した演技からは、セックスシーンでさえ透明感が溢れています。空気人形が自分で人口膣を洗う場面がありますが、色々な見方があるでしょうが、私は洗う事で彼女がバージンに戻るような気がしました。

セックスシーンより濃密だったのは、空気の抜けた彼女に、順一が空気を吹き込むシーン。体は人形なので、セックスでは快感を得られないはずの彼女ですが、愛する人の息で体が満たされる際の、恍惚とした空気人形の表情は、セックスそのものだったと思います。心も満たされるのですからね。清楚なエロティシズムの漂う場面でした。

自分を作った人形師(オダギリジョー)に会いに行く彼女。そこでの「生んでくれてありがとう」の言葉は、苦しきのみこと多かりきに見える空気人形の人生が、彼女なりに価値のあるものであると見出しているからでしょう。平凡な言葉ですが、彼女の口から聞くと、とても重い言葉です。

ラストは衝撃的でしたが、まぁこのラストしかないかな?彼女はただ愛する人に、自分と同じ幸福感を味わって欲しいと思っていただけだから。

ちょっと不満はありますが、素敵な作品であると思います。勝因は一にも二にもぺ・ドゥナ。グロテスクな場面、生々しい場面もたくさんあるのに、美しいものを観たと感じさせるのは、全て彼女のお陰です。最初は韓国から招いてまで、何故ペ・ドゥナ?と思いましたが、こんな大胆なシーンがふんだんにあれば、日本の若手女優は本人はやりたがっても、事務所がNGだわなぁ。日本の女優さんたちは、この作品を観て是非ペ・ドゥナの女優根性に嫉妬して下さい。女優の裸は、100のセリフよりずっと物語を語ってくれるものです。





2009年10月03日(土) 「ココ・アヴァン・シャネル」




随分巷の評価が低いので、パスしようと思っていましたが、TAOさんのお勧めにより鑑賞。いやびっくり。繊細に大胆にココ・シャネルがしっかり描かれており、何でこんなに評価が低いのか謎です。監督はアンヌ・フォンテーヌ。

母は亡くなり父には捨てられ、孤児院で育ったエイドリアン(マリー・ジラン)とガブルエル(オドレイ・トトゥ)姉妹。成長して昼間はお針子をしながら、夜は場末のキャバレーで二人で歌手としての成功を夢見ながら歌っており、その持ち歌から、ガブリエルハ”ココ”という愛称を得ます。キャバレーに客としてバルザン(ブノア・ポールヴォールド)という将校が現れ、ココを贔屓にし仕事を斡旋してくるのですが、エイドリアンは男爵との結婚を夢見て、歌手を辞めてしまい、ココの歌手への夢も断たれます。意を決して、バルサンの元に身を寄せるココ。そこは底辺で生きていた彼女の知らない上流階級で、様々な出来事と出会いが、彼女を待っていました。

可愛げなく誇り高い野良猫のようなココが、とっても素敵。シャネルと言う人は、男性に好かれることだけが重要だった女性のファッションを、自分の自己表現としてのファッショに変えた人です。苦しく息も出来ないようなコルセット、埃もいっしょに引きずりそうなスカート丈、鳥や花やフリルで、これでもかと過剰にデコラティブする帽子や服から、女性たちを解放した人。今でこそブランドとしてのシャネルは、オートクチュールの大御所ですが、当時はとってもアヴァンギャルドな存在だったはず。その若き日の姿が、小生意気で勝気な毒舌家であるのは、女性が男性に従順であるべきが当たり前の当時、観ていてとても小気味よいです。

押しかけ愛人のようにバルザンの元に身を寄せるココですが、バルザンからは愛人どころか、娼婦より少しましな扱いです。バルザンにしたら、可哀想な野良猫を拾って、気まぐれに置いているだけなのでしょう。使用人たちからの侮蔑、パーティーでの晒し者のような屈辱的な扱いに傷つつきながらも、堪えるココ。リアリストでもある彼女は、金もなくコネもない自分が成功するきっかけを掴むには、バルザンの元に踏みとどまるしかないと知っていたのでしょう。

そのご褒美のように、バルザンたち上流階級の暮らしから、あらゆるものを吸収し、自分の中で消化していくココ。その中で生まれたのが、紳士物のスーツを基本にしたファッションであったのは、彼女の並はずれた才気と性格を表わしていて、なるほどと納得。体当たりでのし上がろうとしつつ、自我の目覚めから、挫折や苦悩するココの姿も描かれ、彼女を単なる高級娼婦のようには描いていません。

個性とウィットに富む会話から、段々とココがバルザン邸で必要な人となっていく時出会ったのが、実業家のイギリス人ボーイ(アレッサンドロ・ニヴォラ)。物珍しいものとしててではなく、初めてココの個性を認め、エレガントだと褒めるボーイ。そうすると待ち受けているのは、バルザンとの三角関係ですが、これがやっぱりおフランス式大人の関係で、とても魅力的に描かれています。

初めは愛玩物のように振り回していたココに、いつかしバルザンは虜にされていました。バルザン邸に出入りする女優が、「彼はいい人よ」と語ります。出自により有り余る金と暇、家柄と何でも持ちながら、傲慢でも尊大でもないバルザン。自分の世界では理解し難いココを、彼なりに一生懸命理解しようとし守ろうとする姿は、一種父性的でもあります。

対するボーイは一見エレガントな優男ながら、背景にココと似たものがあり、野心家でもあります。それがココと言う当時としては破格の個性を持った女性を、理解出来たことに繋がります。一見不実にも思える彼の言動ですが、自ら愛人の子だと語らせ、彼を理解しやすくしています。

一人は求愛、一人は求婚。当時の価値観からしたら、二人とも自分の立ち場から考えれば、精一杯ココへの愛情を示します。シャネルは生涯独身でしたが、そこには妻になれない哀しさはなく、妻ではない自由を謳歌する姿がありました。しかし「私は一生結婚しないわ。でもその事をあなたといると、時々忘れるの」と涙する姿に、女心の痛みが表わされており、共感出来ます。こういうシーンがあるのとないのとでは、鑑賞後の感想は雲泥の差。繊細に手抜かりがないのに、感心します。

手始めは帽子のデザインから始まりますが、自分が何をしたいかわからないココ。まずは出来ることから一生懸命と言うことでしょう。とにかく働きたいという思いにも共感出来ます。当時は男性の庇護の元に暮らすのが幸せと考えられていたはずですが、きちんとお金も返し、男性は愛しても決してパトロンという立場にはさせないところも素敵です。

オドレイは今回本当に可愛くないのですが、細い体に男物風の衣装はギャルソンっぽく、豪華な衣装より数段似合っていました。目の下のクマや表情が年齢より上に見せる一瞬があり、そのままココの苦悩の深さを表わしていたのでしょう。「アメリ」の印象が強い彼女ですが、立派にフランス映画界を背負って立つ人になりつつあるようです。

パンツスーツだけではなく、パジャマ、ジャージの生地のポロシャツなど、働く女性たちは、シャネルから受けた恩恵は計り知れないなぁというのが、画面を観ていて思い知ります。ゴージャスやスウィートであるだけが命だった女性のファッションに、シックという言葉も組み込ませたのは、シャネルだったのですね。マスキュリンないでたちは、女性らしさを思いの外香らせるものです。まるでシャネルの生き方のようですね。


2009年10月01日(木) 「あの日、欲望の大地で」




キム・ベイシンガーとシャーリーズ・セロンが母娘を演じる、メロドロマの秀作。終盤まで本当に丹念に演出していたのに、ラスト近くバタバタして、ヒロインの行動の動機だけを語ってしまったのが、非常に惜しいです。それで全体のインパクトが若干弱まりましたが、「これは私に向けられている」と感じるプロットもあり、私は好きな作品です。

高級レストランのマネージャーのシルヴィア(シャーリーズ・セロン)。仕事の出来る彼女ですが、私生活は既婚者のシェフと不倫したり、行きずりの相手と情事を重ねたり、情緒不安定気味です。ある日、彼女の故郷の南米近くのニューメキシコからやったきた男が、「マリアーナ、あなたの娘を連れてきた」と言います。シルヴィアの本当の名前はマリアーナ。遠い昔、母ジーナ(キム・ベイシンガー)は不倫の最中にトレーラーの火事で、相手とともに死去。ふとしたことから、相手の息子サンティアゴと愛し合うようになった昔を、シルヴィアは思い出します。

イニャリトゥ作品の脚本でお馴染の、ギジェルモ・アリアガの初監督作品。私は何気にこの人の脚本作は全て観ていますが、全部時空いじり系。脚本も兼ねたこの作品も、多分そうだろうと予想していましたが、やっぱりそうでした。普通の脚本は書けないのか?という疑念も湧きますが、これも芸風(作家性ともいう)と思えば、受け入れられないこともありません。

淫蕩な母の血が自分に流れているのを自覚しているシルヴィア。そのことに嫌悪も恐れも抱いています。しかし誰にでも身を任せる彼女の様子は快楽とは程遠く、自分を痛めつけているだけです。実際の自傷行為の様子も挿入、決してふしだらではなく、心の自傷行為に思えます。

母ジーナは、淫蕩だったから不倫したんでしょうか?シルヴィアは四人兄弟。末の妹はまだ小さく夫婦仲も睦まじい、一見良妻賢母に見えるジーナ。彼女は二年前乳がんで乳房を摘出。この夫婦はセックスレス、というより、夫はEDだと描かれています。ジーナの不倫の鍵は、セックスレスによる肉体の渇きからではなく、セックスレスの理由ではないかと思います。乳房を失った自分では、セックス出来なくなった夫。女としての自分への絶望感からではないでしょうか?私はジーナの気持ちが理解できるのです。何故なら私も、もう子宮がないから。

ジーナは、40代後半の設定でしょうか?私の子宮筋腫が発覚したのは、43才の時です。女の40代はとても微妙な年齢で、口では「もうおばさんだから」と言いつつ、どこかしら女としての煩悩が消えない年齢です。そんな時に突き付けられた、女性しか得ない病。否応なしに、自分の「女」と対峙しなければいけません。女性の象徴である乳房や子宮がなくなったら、自分はどうなるのか?これからゆっくりと坂を下るように卒業するはずだった女と言う性。これが他の臓器であったなら、これほどに摘出には悩まないはずです。

幸い私の場合、夫に変化はありませんでした。しかし私の場合は、術式によりお腹に傷も無く、外見は全く以前のままです。しかしジーナは、生きている限り、乳房のなくなった自分と対峙するのです。夫は家族としての「妻」と言う自分は愛せても、女としての自分は愛せないのだ。絶望と哀しみに襲われていた時に、自分を女として観てくれたのが、不倫相手のニックだったのでしょう。失った乳房にキスをし、全裸になっても女として認めてくれるニックに、ジーナが家庭を忘れて溺れてしまったのは、ささやかに彼女に残されていた女と言う性が、一気に燃え上がったからでしょう。私にはわかる気がします。

怒りに任せて、夫の葬儀にも出席しないニックの妻に対して、ジーナの夫はニックの家族への憎悪を募らせても、一度も妻への怒りは言葉にしません。たった一度見せる夫の涙は、妻の不倫の理由がわかっていたのでしょう。夫として不甲斐ない自分を責めているようで、私は胸が締め付けられました。女性疾患を抱えた女性の多くは、この夫婦の哀しみを怖れているのです。

対するニックの家庭は、平凡などこにでもある家庭にように描かれていました。兄と弟であるサンティエゴの父への思いの違いで、ニックを浮かび上がらせています。同じ親の元に生まれても、兄弟によって微妙に親は違う人のように感じるものです。家庭的だったはずの父の全てを否定し、母の心を慮る兄に対して、父を恋しく思うサンティエゴ。サンティエゴが、何故父が不倫したのか、そのことを娘を通じて知りたいのは、自然なことだと感じました。

不審に思いつつ、サンティエゴを受け入れるマリアーナ。これも自然な演出で、彼女もサンティエゴと同じ理由かと思っていたのですが、マリアーナは、誰にも言えない罪を犯していました。そのことへの贖罪・逃避、それがいつしか幼い愛に変化していく過程を、本当に瑞々しく描いています。

マリアーナが出奔し、シルヴィアとなったのは、母から自分へ受け継がれている血を、娘も受け継ぐのが怖かったから、と彼女自らの口から語らせます。ラストまでこれで行きますが、それでは少し底が浅いです。多くの男に身を任せ、愛も快楽もないセックスに身を任せた彼女は、母の血を感じるはずはないのです。ジーナとニックのセックスには、愛も快楽もありました。彼女はその事を目の当たりにしています。

ジーナはどんなにニックとの逢瀬が生きがいとなっても、子供は捨てませんでした。子供がいたから、一度はニックと別れようともしたのです。しかしマリアーナは、子供を捨てた。彼女がそのことに気付き、母への思いを新たにする必要があると、私は思います。この辺の複雑な感情を、「淫蕩な血」とだけで始末をつけようとするのは、それ以外が完ぺきなだけに、非常に不満です。

ジーナの役にキム・ベイシンガーを持ってきたのは大正解。老いの兆しを見え隠れさせつつ、今でも豊かな美しさを誇る彼女が演じるからこそ、女でなくなる恐れと哀しみが、観客に深く届くのだと思います。シャーリーズ・セロンも、美しく撮られようとせず、荒んだシルヴィアの内面を表現することを一番に演じているのがわかります。ヌードも映していますが、決して美しくはなく、ここにも彼女の荒んだ日常が表現されていました。ただの美人女優で終わるものかという、セロンの気迫が伝わってくるようです。

そしてびっくりしたのが、若き日のマリアーナを演じたジェニファー・ローレンスが、あまりに上手かったこと。ティーンエイジャーなのに、笑うシーンもほとんどなく、自分の身にふりかかった不幸を受け入れながらやり切れない、そんなマリアーナを演じて出色でした。他にも娘のマリアを演じた、子役のテッサ・イアの瞳の強さも印象的でした。

生後二日目以来会っていない12歳の娘に、「ボーイフレンドは?」と尋ねるシルヴィア。そんなことしか言えない情けない母親です。しかし最初は反発しながらも、母に心を開こうとするマリア。父サンティアゴの確かな愛情を受けて育ったのがわかります。サンティアゴは、娘の血に流れるマリアーナの存在をも、ずっと愛し続けてきたはずです。シルヴィアがマリアーナに戻るには、サンティアゴと娘マリアの愛情が必要なはず。そう予感させる、密やかな幸福感に包まれたラストが、深い余韻を残す作品でした。


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