ケイケイの映画日記
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2009年11月29日(日) 「今、このままがいい」




2009年大阪韓国映画週間と題されて、28日と29日だけ私のホームグラウンドの布施ラインシネマで、未公開作品が上映されました。三本上映されましたが、私は時間の関係で二本目の「今、このままがいい」だけを鑑賞。いやもうびっくり。普通はトンデモに転んでもおかしくないオチなんですが、もうびゃーびゃー泣いてしまって。恐るべし韓国映画、底力を観た思いでした。

済州島で生まれ育った姉ミョンジュ(コン・ヒョジン)と妹ミョンウン(シン・ミナ)。二人は異父姉妹。ミョンジュは若くしてシングルマザーとなり、母親と島に残り鮮魚店を営み、伯母、娘と住んでいます。ミョンウンの方は学業優秀で、今はソウルに住みバリバリ仕事をこなしています。母の死を契機に久しぶりに会う姉妹。これを契機に父親を知らないミョンウンは、父の記憶が残るミョンジュを引き連れ、全州まで父親探しの旅に出ます。

対照的な姉妹の描き方が上手いです。姉は学がなく無邪気で奔放、しかし情には厚くいつも笑っているような女性です。対する妹は学があり仕事のキャリアもあるが、いつも無愛想で冷たい印象です。一見私生児を生み学校へもいかなかった姉をバカにしているようなミョンウンですが、回想場面で、「世間の人がうちの事、なんて言ってるか知ってる?”父なし子の家”よ!」と叫びます。ここに彼女の辛さが集約されています。

姉ミョンジュの父親は婚姻関係中の死亡ですが、自分は私生児で父は自分が生まれているのを知っているのに、会いにも来ない。顔さえ見た事が無い父の記憶を、実の娘でない姉は持っている。その姉がまた私生児を生む。私の哀しみをわからないのだ、だからこの姉はこんなふしだらなことをする・・・。ミョンウンが真面目すぎるほど真面目で融通が利かず、女性らしい柔らかさに欠けるのは、彼女の眼に映る母や姉の「ふしだらさ」が自分にも流れているという嫌悪感でしょう。自分の身を守る術なのです。

しかし女性がシングルマザーの道を選ぶと言うのは、どこの国も並大抵の決意ではないでしょう。ちゃらんぽらんに見えるミョンジュとて、一大決心があったはず。そして私の目には、良い母ちゃんに彼女は見えます。その部分がミョンウンにはわからないのでしょう。

それは何故か?ミョンウンが両親、取り分け父に対して複雑な愛憎を抱いているからに他なりません。対するミョンジュは、ミョンウンの父親の優しかった思い出があり、同じシングルマザーで二人の子を育てた母の気持ちが、自分も同じ立場になって理解出来るのでしょう。「普通でない家庭なんて、いくらでもあるわ」。ミョンジュの善良な屈託のなさは、いい加減なのではなく、自分の出自や今の境遇を、彼女が受け止め受け入れているからに他なりません。

全州への旅は、大げんかありアクシデントありで、さながら珍道中の趣ですが、個性の違う微妙な関係の姉妹の葛藤と情と歩み寄りを、丁寧な語り口で情感豊かに描いています。私なんぞ何度泣いたことが。しかしここでミョンウンの父親の秘密が明らかになると、口あんぐり。Z級のオチなのです。確かに伏線は張っていました。しかしこちとら、姉妹の心の変遷にすっかり感情移入しており、Z級がわかっても涙が止まらない。もう狐につままれた気分でした。

秘密は姉にとっても傷つく事柄でした。しかしこの姉は、そのことも大らかな気持ちで受け入れていたのです。真実がわかり泣きじゃくる妹が、姉に心も体も抱いてもらうシーンで、また泣く私。ラストは、家庭の在り方に価値観が統一されていると思っていた韓国でも、様々な形態が認められつつあるのだと、感じました。

シン・ミナは綺麗になっていてびっくり。韓国人気質とは異質のクールビューティーを好演すれば、コン・ヒョジョンは全身からケンチャナヨ精神を発散するミョンジュを、能天気とは紙一重の大きさで演じて、秀逸でした。

日本ではDVD化もしていません。でもどなたが観ても普遍性を感じる良い作品なので、ネタバレなしで書きました。どこかでご覧になる機会があれば、お勧めしまう。


2009年11月23日(月) 「イングロリアス・バスターズ」




実は私はタランティーノがちょっと苦手。あのなが〜い会話が面白い時もあるんですが、だいたいが退屈なのだな。今回も前評判は高かったですが、私的にはダメかも?と危惧していましたが、まずまず面白かったです。

プロットは五つに分かれ、最後にそれが結びつくというもの。軸はユダヤ女性の復讐劇と、「イングロリアス・バスターズ」と呼ばれる、ナチス狩りの集団の活躍です。

私の苦手な長い会話なんですが、今回そういう観客を気にかけてか、適当な尺でカット、会話にも妙味を感じます。何故かと言うと、アメリカ映画は舞台がフランスであれドイツであれ日本であれ、登場人物は絶対英語をしゃべりますが、この作品、役者にドイツ語フランス語を喋らせ、果てはイタリア語まで話させます。それが丁々発止の狐と狸の化かし合いに絡み、絶妙の緊迫感を生んでいます。

一つ一つのエピソードも、先が読めない展開です。こういう前フリがあるから、きっとこうなのだろうと思うと裏切られます。それが???ではなく、!!!という感じなので、その積み重ねで、気分がとっても盛り上がる。情けはかけても情緒には流れず、非情さを浮き彫りにするので、やっぱりこれが戦争と言うものなんだなと、ため息をつきながら思います。予告編ではユーモア満載風ですが、実際バカっぽいブラピは良いスパイスですが、ずっと緊張感が持続する作りです。

私が一番心に残った場面は、惨殺されたユダヤの一家から一人逃げ切った少女ショシャナ(メアリー・ロラン)が、殺した張本人ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)と対面する場面。ショシャナがわからないランダに対し、平静を装いながら愛想のない笑顔を向けるショシャナ。しかしロランとヴァルツの好演によって、怒り・困惑・嘔吐しそうな、ショシャナの心の隅々まで手に取るようにわかるのです。ミルクを背筋を凍らすアイテムで使うなど、タラの演出に円熟味も感じます。

クライマックスに使う映画館の使い方もとっても上手いです。高らかな笑い声を残すショシャナですが、怨念に満ちたその姿は亡霊そのもの。強烈な哀しさをも感じるのです。ここは映画史に残るかもしれない名シーンでした。フィクションなのでやりたい放題ですが、誠実そうなドイツ軍青年も、一皮むけばヒトラーと同じと表現しながら、バスターズもナチスの兵士の頭の皮をはぐなど、かなり凄惨です。ナチスは悪と痛烈に描きながらも、大義名分のための蛮行にも言級している気がしました。この辺は今の戦争事情に通じることかも。

バカっぽく抜けた役をやると、ブラピは本当にチャーミング。彼以外が演じれば、タダのバカだとしか思えない役だったかも。ダイアン・クルーガーは、いつの間にか貫録ついちゃって、見違えました。ヴァルツも数々の言語を操り、ランダの冷酷さと狡猾さを余すところなく表現して、強い印象を残します。でも私が一番好きだったのはショシャナを演じたメアリー・ロラン。清楚で芯の強さを感じさせる気高い美貌の持ち主で、心の中に真っ黒な闇を抱えながら生きるショシャナを、本当に繊細な演技で魅了してくれました。劇場での華やかな姿より、化粧気のない日常の姿の方が美しい人です。

タラはちょっと・・・と言う方にも、比較的に受け入れやすい作品だと思います。二時間半の長尺ですが、私はあっと言う間でした。


2009年11月19日(木) 「ゼロの焦点」




松本清張生誕100年記念作。私は原作も元作も未見ですが、ストーリーはだいたい知っています。多分ドラマ化された折、観たのだと思います。昭和32年が舞台ですから、どう今の世の中と照らし合わせて訴えかけるのか?というのがポイントになると思います。サスペンス部分は弱いのですが、私的には作り手の思いが受け取れる、なかなか感慨深い作品に仕上がっていました。監督は犬童一心。

結婚早々の鵜原禎子(広末涼子)は、夫の憲一(西島秀俊)が、出張先の金沢から失踪してしまい、金沢まで憲一の足取りを求めて出向きます。そこには夫が懇意にしていた室田儀作(鹿賀丈史)佐知子(中谷美紀)夫妻、室田の会社の受付嬢田沼久子(木村多江)がおり、自分の夫の知らない世界ばかりを観る禎子は、混乱します。

憲一と禎子は見合い結婚して間がありません。自分の知らない夫の顔が覗く度、打ちひしがれ妻としての寂寥感に捉われる禎子。私は愛されてはいなかったのか?例え見合いだとしても、純粋に愛を求めて結婚した禎子には、非常に辛いことです。連れ合いの本当の素顔を知らないと言うのは、案外現代でも通じる話ではないかと思います。この辺りの禎子の心の描写が丁寧で分かりやすいです。

弟が失踪しても気楽な様子の義兄(杉本哲太)、字が読めないのに英語は堪能な久子、日本初の女性市長の誕生に奔走する佐知子は、何故か人前には決して出たがらない。サスペンスとしては時代背景を考えれば、すぐにピンとくる筋です。しかし戦争の傷跡がまだまだ人々の心に深く残っていると感じさせる描写の数々が、その弱さを補い作品に深みを与えています。

女性と睦み合う時、必ず映る憲一の背中の傷跡は、戦争の時受けたものです。陶酔する女性たちを映しながら、顔の見えない憲一の心は、いつ何時も決して女性のような恍惚感はないのだと思わせます。戦争で少数の生き残りである憲一。自分は生きていていいのか?何故自分は生き残ったのか?常にこの気持ちを自分に問いかけていたのでしょう。「生まれ変わりたかった」と言う彼の言葉は、掛け値のない本音として、心に響くのです。

佐知子の過去は胸を張る類のものではありませんが、あの時代、懸命に生きた証として、私は恥ずべきものではないと思います。彼女が「みんな学校へ行けて、女が私たちのような仕事をしなくても良い時代が、きっと来るよ」という過去の言葉通り、彼女は新しい時代を夢見て、奔走するわけです。しかし自分を犠牲にして生きた過去が、佐知子を追い詰める。

学がなく、愛する人との生活のみに生き甲斐を見出していた久子も、この幸せは束の間の幻だと自分に言い聞かせます。それも過去のせい。戦争がなければ、この人達は過去の自分に追い詰められる事はなかったのです。

ただ一人、戦争の傷跡を感じさせず生きている禎子。憲一が彼女を妻にした理由は、「負のない」伸び伸びとした健やかさに魅かれたからでしょう。わかるような気がします。

中堅演技派として、確固たる地位を築いている中谷美紀と木村多江は素晴らしかったです。同じ過去を背負いながら、どうして違う生きざまになったのか、生い立ちから性格の違いまで、少ないシーンで上手く表現しています。女性に生まれた哀しみを、迫真の演技で表現出来ていました。常に能面のような無表情で、憲一の戦後は余生だったのだなと感じさせる、西島秀俊も秀逸でした。

が、如何せん禎子を演じる広末が、甘ったるく舌足らずなセリフを言う度、この人はホントに禎子という女性を、理解しているのだろうか?と疑問に感じます。ただ可愛いだけの世間知らずで、知性と芯の強さが感じられません。謎ときも彼女が中心になって解かれるのですが、そんな聡明さは、広末演じる禎子からは感じられません。私はいつもはこの人の擁護に回る方ですが、今回だけはダメでした。

私がこの作品から受けとったメッセージは、あの戦争がなかったら、という反戦ではありません。もちろんそれもありますが、未来に希望を持つと言うことが、如何に大事かということを、痛感しました。今の繁栄の礎を築いてくれたのは、多くの哀しい過去を背負った憲一や佐知子、久子の様な人たちなのです。何度も言葉にされる「生まれ変わりたい」「新しい時代」と言う言葉。自分達の抱く哀しみを、後世に残したく無いと頑張ったこの人達に、私たちは報いているのか?この思いを決して無にしてはいけないというのが、作り手のメッセージではなかったかと思います。


2009年11月15日(日) 「なくもんか」




いやー、面白かった!泣いて笑ってとっても変で、すっごく楽しかった!軸は行き別れた兄弟の愛なんですが、多分ね、脚本のクドカンは、思いつきでいっぱい詰め込んで書いたと思うのね。それを監督の水田伸生が、上手に交通整理して散漫でない作品に仕上げたんだと思います(当社推測)。いつもながらの阿部サダヲのハイテンション演技を楽しみつつ、観終わった後は、オーソドックスな人情喜劇を楽しんだ印象が残ります。

働き者で究極の八方美人の下井草祐太(阿部サダヲ)は、8歳の時両親が離婚。引き取った父親(井原剛志)はとんでもないろくでなしな男で、身を寄せたばかりの旧知の惣菜屋の山岸夫婦(カンニング竹山・いしだあゆみ)から金を盗んだばかりか、祐太まで置いていきます。しかし優しい夫婦は祐太を実の娘徹子わけ隔てなく育て、二代目店主として、彼に店を譲ります。そこへ数年間連絡も取れなかった大デブ娘の徹子(竹内結子)が、信じられないスリム美女になって、祐太の前に現れます。そんな祐太の気掛かりは、別れた時母(鈴木佐砂)のお腹にいた赤ちゃん。勝手に弟だと思い込んでいる祐太でしたが、実は本当に弟で、今は赤の他人の大介(塚本高史)と兄弟と偽り、「金城ブラザーズ」として芸人になっている祐介(瑛太)こそが、祐太の実の弟でした。

あらすじ書いただけでも、かなりいっぱい。これにあれやこれや、そりゃ盛りだくさんに人生のワビサビが、織り込まれております。まずは不幸な生い立ちの兄弟の背景が哀しい。祐介は八方美人でいやと言えないお人好しとなることで、誰からも嫌われない、寄る辺ない身寄りの辛さから逃れようとします。それが大人になっても、ずーと続いているのです。祐太の方は、親戚をたらい回し、転校も繰り返すのですが、虐められない様に身に付けた術がお笑いでした。それで芸人になったのです。幼子からのこの処世術には、正直泣かされました。

この二人は再会を果たすも、兄弟としての思いに温度差があるのは当然で、祐太はコンビの大介に恩義を感じており、祐介の存在は迷惑だと言います。しかし段々祐太の心がほぐれてくるのですが、これが意外にもスムーズな展開。ていうか、この間に訳ありの徹子と祐太との結婚、徹子の内情、芸能界の内幕事情、コンビで片方だけが売れる悲哀、なさぬ仲の子との心の行き違い、一生懸命築いてきたものが、砂の城のように一瞬に崩れさる哀しさ、などなど。まだあったような。何だっけ?あった!エコだエコ!

あらん限り「人情」という枠に入れるもの、全部詰め込みました的脚本なんですが、これが不思議なことに、胃もたれしない。合間合間にクドカン流コントっぽいハイテンションなお笑いが、例のごとく連打されるのが、イイ感じに中和剤になっています。そして泣かせる場面の後は、クドカンが監督なら、照れ隠しのお笑いが絶対入って泣かせないはず。しかし水田監督はある程度間を取って、ホロッと泣かせてから次に行くので、悲劇も喜劇もちゃんと感情に残ります。下ネタもしかり。悪ノリせずに終わらせています。

阿部サダヲは今回も絶好調。堺雅人が笑顔で喜怒哀楽を表現する男なら、阿部サダヲは、ハイテンションで喜怒哀楽を表現する男だい!祐太のストレス発散方法なんて、前フリもないし唐突であり得ない設定なんですが、彼が演じると納得出来るから不思議。ちゃんとラストに繋げたのは、技ありでした。

才能もないのに売れてしまったお笑い芸人には、笑顔のない瑛太はぴったりだったと思います。不幸せはお笑い芸人になる条件の一つという、大介のセリフは意表を突かれ、この辺にクドカンの才気も感じます。竹内結子の名コメディエンヌぶりも印象的。いしだあゆみの間の良い演技も、ベテラン健在を感じました。懐かしい風情を醸し出した商店街や家の中の様子も良く、美術も見どころかな?

ゲロも汚物も変態的な場面もなし。あっ、ちょっとだけあったか?でも健全に楽しめる作品です。難を言えば、あのハムカツ、私にはそれほど美味しそうに見えなかったことくらい。クドカン脚本というより、水田監督の腕が光る仕上がりで、私はオススメしたいです。


2009年11月14日(土) 「風が強く吹いている」




すごく評判が良いので観てきました。それとザ・アスリート俳優林遣都が出ている事。「バッテリー」を初め、数作の体育会系作品のどの作品でも、彼が光っていると聞いていましたが、いずれも未見。将来有望株みたいなので、少年のうちに一作くらいは観ておこうと思ったわけです。期待値低めでしたが、これが本当に素晴らしい!もっと古いタイプのスポ根かと想像していましたが、新しいところ普遍的なところ入り混ぜて、徹頭徹尾清々しい作品です。監督はこれが初作の大森寿美男。

寛政大学四年のハイジ(小出恵介)は、陸上部青竹寮の寮長。しかし陸上部とは名ばかりで、部員はほとんど素人ばかり。しかし新入生のカケル(林遣都)に目をつけたハイジが、半ば強引にカケルを部に迎えた時、壮大なハイジの計画が発表されます。部員10人で箱根駅伝に行こうというものでした。

箱根駅伝を目指すということで、作品の3/4は練習・公式試合入り混じって、走る場面です。前半はハイジとカケル以外は、陸上素人ばかりの練習風景を映しますが、まぁこれくらいじゃ、あんまり苦しそうじゃないかな?しかし他のメンバーはいずれも他の体育会系出身ですが、一人だけ王子(中村優一)はスポーツはまるで駄目で、彼が足を引っ張ります。過酷な練習風景より、王子をやる気にさせ、みんなで王子を引っ張り上げようとするところに力点を置いて描いているので、これで良しだと思います。

意志の強さと人柄の良さで、圧倒的な求心力を保つハイジ。誰も本当に箱根に行けるとは思っていないのに真面目に練習するのは、全てハイジのため。確かに下心ありで、今まで寮の学生の面倒をみてきたわけですが、その一生懸命さと甲斐甲斐しさで、皆重荷ではない恩を感じているわけです。恩返しというより、自分達が練習することで、ハイジが喜んでくれるならと、感謝の気持ちで走るわけ。私はこの部分に目を見張り、心打たれました。

皆と仲良くやっているキングは本当は人と接するのが苦手。しかしこの寮の皆はいい人ばっかりで、ここが好きだと言います。その温かさ居心地の良さは、ハイジが作ったものでしょう。本当に箱根だけの思いで、ハイジは彼らの世話をしてきたのでしょうか?私は違うと思います。

寮生活をしてるということは、親元から離れているということです。ある者は親と断絶、ある者は母子家庭で母を楽させたいと司法試験に合格したのに、母はあっさり再婚。生きがいを見失っています。ある者は田舎では神童と呼ばれていたのに、都会に出てきてすごい連中ばっかりを目の当たりにして、挫折を味わうなど。子供ではなく、さりとて大人でもない年齢で、自分はいったいどうしたらいいのか?人生の路頭に迷っているときに提案された箱根駅伝。まずは大好きなハイジのために頑張ってみようという、彼らの素直な気持ちが、直球でこちらに届きます。

ハイジはかつて将来を嘱望されたランナーでしたが、足の故障のため断念。それで陸上部はあっても名ばかりの寛政大学を選びました。自らスカウトして連れてきた部員であるでしょうが、ハイジもまた彼らの背負ったもの、痛みに自分を重ね、思いやったきたからこそ、今まで世話できたのではないでしょうか。その心が、ハイジ自身をも成長させていたのでしょう。そして寝食を共にすることは、男の子なんですもの、喧嘩もあるだろうし、喜びも悲しみも共有するはずです。そこで積み重ねた絆の強さも感じるのです。

既存のコーチや監督から連想される抑圧的な部分はハイジにはなく、ひたすら褒めて励まします。そして部員が中傷されれば、仲間であれ他校の部員であれ、喰ってかかる。これは自分がして欲しかったことだったんだなぁと思いました。

駅伝を走る場面は、各々区間を走るのに適した人材を配置し、駆け引きがあるのだと解説してもらえ、なるほどと納得。走る姿が部員全員、様になっているので、区間区間に仲間が待ち受けていて労をねぎらう姿も清々しいです。

陸上競技は個人でするもので、常に自分との闘い、孤独なものだという認識がありましたが、こと駅伝に関しては、チームワークが大切だし、個人競技ではないんだなぁと痛感。自分との闘いであるのは変わりませんが、決して孤独ではなく、一人で走るより責任も重いのです。駅伝というものの見どころと値打ちが、後半とてもよくわかる描き方です。

挫折を経験したカケルの再生も自然に描いています。天才ランナーである彼ですが、刺激を受けたのが素人である他の部員であり、何よりも走る事が好きなハイジであるというのが印象的。そしてカケルの存在が、走ることへの意味や楽しさを他の部員に教えたと言うのも素敵な相互関係でした。

他校の部員も、それぞれ未熟な一年生と人格者の四年生を配置し、四年間やり遂げることで、人間として成長するような描き方も好ましかったです。とにかくとても気持ちの良い作品です。綺麗な涙を流して、スカッと出来ました。


2009年11月08日(日) 「スペル」




う〜ん、困ったなぁ。「スパイダーマン」シリーズで、娯楽大作の巨匠となったサム・ライミの、久々の原点回帰的ホラーです。あのライミが古巣に帰ってくる!ということで、前評判も上々、すんげぇ怖いと煽られて期待満々に観ましたが、全く怖くありません。
ホラーって言うより汚物モン的傾向が濃厚で、私的にはホラーは血の方が好きなので(←おい)、その辺も私の嗜好には合いませんでした。きちんとは作ってあるんだけどなぁ〜。

銀行の融資係担当のクリス(アリソン・ローマン)。優秀な彼女は、現在次長の席を同僚男性と争っています。そこへ三度目の支払い延期を求める老女ガーナッシュ夫人(ローナ・レイヴァー)が彼女のデスクに。昇進を意識するクリスは、夫人の申し出を断ります。逆恨みした夫人は、帰宅するクリスを襲い、謎の呪文をかけます。以降クリスの身辺には不吉で恐ろしい事が連続して起こるのです。

クリスの健気だけど野心的なところ、その理由などが描いているので、可哀想な彼女に同情し易いのはいい感じ。アリソン・ローマンは結構売れっこさんですが、汚物まみれ泥まみれになって、大奮闘。ホラーヒロインとしては、とてもよく頑張ってます。

でもなんたって最強ホラークィーンはガーナッシュお婆ちゃん。薄気味悪くて汚くて、腕力も年寄りとは思えん力を発揮して、この作品最大の貢献者かと思います。

でも如何せん、私は汚物まみれって好きじゃないのね。普通の人より耐性はあると思いますが、何度も何度も繰り返されると、うんざりしちゃう。作りもオーソドックスにきちんと作ってあるけど、「ポルターガイスト」や「ヘルハウス」チックな悪魔払いの描写も、オマージュというより、これなら元作をDVDで観ればいいや、と思ってしまいます。

あれやこれやと詰め込んでも、お話はちゃんと整理はされていますが、私はこれなら男が痩せる呪いをかけられて、ただそれだけで苦しむ、キングの「痩せゆく男」の方が好みです。

恋人ジャスティン・ロングも誠実さは充分伝わってくるけど、ただひたすら尋常ならざるヒロインを信じて愛するばかりで、一回くらい喧嘩しろよ、金出すだけが誠意じゃないぞと、鼻につきます。それに引き換え、画像のシーンのアリソンは、見違えるように生き生きしていて、この場面のシーンが一番好きです。

ラストのオチもわかったし。人生の選択とは難しいもんですな。とにかく怖くなかったのが致命的でしたが、それは私がたくさんホラー観てるからかも。評判いいようなので、ホラー好きな方は確かめてね。


2009年11月01日(日) 「母なる証明」




う〜ん、こう来ますか。内容は息子の無実を信じる母の愛と奮闘という、手垢にまみれたような題材です。これだけならパスしたのですが、監督がポン・ジュノなので、これは絶対観なければと初日に駆けつけましたが、流石はポン・ジュノ。一筋縄ではいきません。繁栄しているはずの韓国の、これも一断面なのだという自国へ向けての社会派的啓発と、普遍的な情の濃さと怖さが見事に浮き彫りになった作品です。

韓国の田舎町。トジュン(ウォンビン)は子供がそのまま大人になったような純朴な青年です。そんな息子が悪友のジンテ(チン・グ)とつるむのが心配なトジュンの母(キム・ヘジャ)。ある日この静かな田舎町で殺人事件が起こります。被害者は女子高生のアジョン。殺人現場に証拠品があったことから、トジュンが容疑者として逮捕されます。無実だという息子を信じ、奔走する母ですが、刑事も弁護士も相手にすらしてくれません。母は自分で真犯人を捕まえる決心をします。

オープニング、哀愁を帯びた、しかし陽気にも感じるギターの音色に合わせて、一心に踊る母の姿に引き付けられます。。その無心な様子は少し滑稽でもありますが、まさのその姿こそ、この作品で描かれる彼女でした。

トジュンは純朴というと聞こえはいいですが、要するにうすのろで少々おバカなのです。その息子を溺愛する母。この作品では一切父親の事が語られません。亡くなったのか離婚したのか、結婚に至らずトジュンを生んだのか、それすらわからない。これは意図的な「無視」なのでしょう。母と息子だけで生きてきた空気を、観客にも伝えたいからだと思いました。

前半はトジュンがどんな青年か、母親が如何に盲目的に息子を愛しているのかという描写が、いつものポン・ジュノ作品同様、毒気のあるユーモアが随所に挿入されながら、丹念に描かれています。私が目を見張った描写は、母がリップスティックの底の紅をすくい、指で塗る描写です。瞬時に男に会うのだと思いました。案の定相手はトジュンの弁護士。あの口紅はもうずっと使っていないものです。何年も前に生理も上がった年齢の、母親だけで生きてきた彼女。しかし息子のためなら、自分の朽ち果てている「女」が、少しでも役に立つならという、母親の執念が感じられるのです。

しかし演出にポン・ジュノらしさはあるものの、普通の母ものの域を超えない展開が、悪友ジンテの助言から一変します。犯人探しというミステリーと共に、社会派作品としての断面も鮮やかに浮かびます。

被害者アジョンの背景にあること。彼女はたくさんの男性と関わりを持っていましたが、その哀しい理由は、韓国の福祉体制が遅れていることを伺わせます。血縁関係を重んじる余り、何もかも家族で終結させようとする社会。しかし社会を恨むのでもなく、アジョンは「男は嫌い」と吐き捨てるように言うだけです。若い彼女ですら、自分の境遇を受け入れてしまうのは、幼い時からのすりこみでしょう。儒教精神は私個人は好ましいと思っていますが、行き過ぎると悲劇になるという見本です。

そして杜撰極まりない捜査。底辺に生きるトジュンやその母の存在など、虫けらのように扱われるのです。冒頭起きるひき逃げと暴行事件などもその象徴。わざわざひき逃げ犯の一党に大学教授を入れたのは、権力者にへつらう、昔ながらの韓国の体質を指摘しているのでしょう。

見てくれの良い容姿への熱望。不妊に悩む女性に、「この薬を飲んで私はトジュンを生んだのよ」と、にこやかに言う母。女性は大人になっても自立の出来ないトジュンの側面より、何度も「あの子は小鹿のような目をしている」と、トジュンの美しさを口にし、心動かされます。美容整形大国と言われる韓国ですが、確かに過度に容貌を気にするきらいがあります。だから私は、アジョンが関係した男たちの容姿を観て、本当に哀しかったのです。相手を選べない理由があったから。

ハンサムで腕っ節も強いジンテは兵役も終えています。しかしゴロツキのまま。韓国社会は、一度底辺に落ちると、這い上がる事は日本より困難だと思わせます。

そして障害者差別。トジュンは明らかな障害はありませんでしたが、少し発育に遅れがあるようです。そして母が面会を熱望した青年は、ダウン症であると思しき顔立ちでした。その青年に「あなた、お母さんはいるの?」と問いかける母に、私は号泣。

私の父親は二歳で父を、五歳で母を亡くしています。異母兄弟の兄たちは、幼児の頃生母と別れ、父の再婚相手である私の母に育てられましたが、私の母はあからさまに義理の子と実の子を区別する人でした。不仲だった父や兄たちを罵る母の気持ちだけに添っていた私の気持ちに変化が生じたのは、息子を生んでからです。自分の一生はこの子のためだけに生きてもいい、そう思う人が、父や兄たちにはいなかったのです。その哀しさに気付いた時、私のわだかまりも溶けて行きました。

三人の息子の母となり、この恐ろしいくらいの思い込みは、有り難い事に子供たちが成長するに連れ、私からは段々と薄れて行きました。この健康的な変化は、息子たちがそれなりに順調に育ってくれたおかげです。しかしトジュンの母はそうではないはず。夜眠る時は母の傍らに来て、乳房をまさぐるトジュンは、幼稚園の頃の私の息子たちにそっくりでした。ずっとずっと、この思いを抱いて生きてきたトジュンの母の息子への愛がほとばしる、哀しいセリフでした。

トジュンと母の我を忘れての錯乱した様子は、まるで同じ。まぎれもなく二人には同じ血が流れているのがわかります。母の落とした彼女が闇で治療している鍼の道具をそっと渡すトジュン。背徳感と同時に、母と息子は強い絆で結ばれているのだという、奇妙な幸福感が私の中で湧きあがります。あぁ怖い。母親って本当に罪深いわ。

キム・ヘジャはこの作品で初めて見ましたが、韓国の母と呼ばれる女優だそうで、常軌を逸したこの母が、本当にありふれた、どこにでもいる母親に見えるという、とても高度な演技力を見せてくれました。それが監督の狙いだったと思います。恥を晒し泣きわめき、罪を犯すトジュンの母。それでも彼女が素晴らしいと感じるのは、これが監督の母親と言うものへの思いでもあるのでしょう。ウォンビンは除隊後初めての出演だそうですが、アイドル俳優からの脱皮をはかっているのでしょう、自然な演技が上手く、適役でした。

その罪から解放されたくて、太腿に鍼を刺す母。こうしてトジュンの哀しく辛い記憶も封印してきたのでしょう。そして彼女は、これからトジュンの記憶がいつ蘇るか、また怯えながら暮らすのです。ひとときの刹那的な開放を表現するダンスシーンが哀しい余韻を残します。「殺人の追憶」のように、誰が観ても面白いというような作品ではありませんが、私にはポン・ジュノと言う監督のすごさを、一番感じた作品です。


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