ケイケイの映画日記
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2009年09月26日(土) |
「男と女の不都合な真実」 |
いや〜面白い。男女のあけすけな下ネタ絡みの本音が満載なんですが、軸は至ってオーソドックスな、ハリウッドお得意のスクリューボールコメディです。笑いながら軽く観られるラブコメが観たかったので、とっても満足しています。
才色兼備の美人プロデューサー、アビー(キャサリン・ハイグル)。仕事は出来るが彼には恵まれません。彼女の受け持つモーニングショーは報道志向で視聴率はジリ貧。そこで局のお偉方が連れてきたのが、深夜の番組で下品な男の本音満載のトークが受けているタレントのマイク(ジェラルド・バトラー)。野卑で下ネタした話さないマイクに、アビーは反発。しかしマイク投入後の番組の視聴率はうなぎ登りに。悔しい思いをしているアビーでしたが、隣家に越してきた正に彼女好みの整形外科医コリン(エリック・ウィンター)を落とすがため、マイクに指南仕る事になります。
すごーくテンポがいいです。早口のセリフの応酬が楽しく、かなりエッチな内容もすぐ次に飛んでっちゃうので、下品な会話も深く考える時間がないのが、大変よろしい。それにマイクの語る「頭の中はやりたいだらけ」の男の本音も、私くらいの年になると、ふんふん、そうだわなぁと納得してしまいます。特に私が笑ってしまったのは、セックスレスのキャスター夫婦の仲を、マイクが取り持つシーン。妻の収入が上になってしまって、旦那さん「出来なく」なってしまったんだってぇ。この繊細な男ゴゴロに笑いながら哀愁を感じてしまうのは、女性なら一定年齢以上の人でしょうね。
対するアビーですが、仕事は出来ても恋愛面は乙女心満載で、理想の男はまさに白馬に乗った王子様並みです。しかし実際デートすると、小難しいか職務質問並みの会話しか出来ない彼女。恋愛は相当経験値が低いと思われます。でもこれって、仕事で出世した女性には有りえる話じゃないんでしょか?女性誌なんか観ると、恋も仕事もあきらめないのがイイ女、みたいに書かれているけど、これ相当辛いぞ。この哀しさは、一生懸命仕事している女性には多いと思います。
対するマイクも、マッチョでワイルドな容姿とイケイケドンドンの口説きで、セックスには不自由していない様子ですが、恋愛には不器用で気弱だと、観ていてわかります。出戻った妹と甥を、マイクが大切にしている設定が利いており、ただの下品で下世話な男じゃないと感じさせるところがいいです。
マイクの指南なんですが、コリンを落とすがため、あの手この手の男好きする女にアビーを変身させます。でもそれって本当の彼女じゃないわけね。自尊心と言う点では低いわけですよ。でも最初は抵抗していたアビーも、手練手管でコリン陥落に舞いがってしまうし、この辺はとってもわかる。愛にプライドは邪魔なのかも。
最初は相性最悪だった二人ですが、マイクの指南によって、段々と素敵になるアビーに、いつしかマイクが心惹かれという展開も鉄板ですが、そこまで行くのに数々の笑いのプロットを挿入していて、楽しめます。特に笑えるのがアビーとコリンの野球場デートと、お偉いさんとのレストランでの会食中のアビーの様子。どうぞお楽しみに。
アビーが「私のどこが好き?」と聞いて、理路整然と答えられる相手ではなく、「わからない」と答えた相手を選ぶのは、すごく自然です。だってそうでしょう?私は何でこんな男(女)が好きなんだろう?っていう謎の経験、誰でもあるもの。好きになるのに理由なんかないもん。それを象徴していたのが、エレベーターのシーンです。ああやってドンドン気持ちが盛り上がるのって、わかるなぁ。
ハイグルは新ラブコメの女王誕生!と思わせるくらい、とっても良かったです。美人でスタイル抜群だけど親しみやすく、果敢に挑戦したレストランのシーンなど、よくやった!と同性として褒めてあげたいくらいです。ラブコメの主演女優には旬があって、予告編で「あなたは私の婿になる」のサンドラ・ブロックを観ましたが、もう彼女では笑えないなぁと、予告編だけで痛感します。リース・ウィザースプーンは、その辺を踏まえてシフトを変えたみたいだよね。ハイグルは知的な雰囲気も醸し出しながら、キュートでチャーミングというラブコメのヒロインの必須条件もクリア。あと5年は大丈夫かと思います。
バトラーもあの「オペラ座の怪人」で、多数の善良な婦女子を仮面萌えさせ、ばったばったと悶絶卒倒させたのも伊達じゃない男っぷりでした。この手の野蛮な男性を、チャーミングに演じるのは、意外と難しいもんです。
15禁の作品なのですが、それは主に会話からでしょう。会話がお下劣な割りには、品よくまとまっており、それも好感度高し。監督のロバート・ルケティックは「キューティー・ブロンド」みたいな、何て事ない作品も上手く撮る人で、この作品も王道のラブコメに仕上げています。ベッドのシーンもラストに一回だけ。あの会話は意味深だなぁ。オフ会で盛り上がりそうな作品です。
映画史に名を残す傑作ですが、私は全くの未見。観るならどうしても劇場で観たく、以前新世界の劇場で上映されていたので、本気で行こうかと思ったほど熱望していた作品です(夫に「何を考えてるねん!」と怒られて止める)。今回撮影監督の宮島義勇特集を上映中の、シネヌーヴォで観てきました。朝10時20分の回を観ましたが、劇場はオールドファンで8分くらいの入りで、私より若い方はほとんどおらず。しかし現代の世相に驚くほど酷似していると思われる描写も多々あり、今見ても全く色褪せない傑作でした。本当に感激!今回は役名ではなく、俳優名で書きます。
関ヶ原の戦い以降、幕府により改易が進む江戸時代。地方から食いつめた浪人が江戸には溢れていました。生活に困窮した浪人たちは、各大名の外屋敷に出向き、「生き恥を晒すより、武士として潔く切腹して果てたい。ついてはこちらの屋敷の庭先をお借りしたい」という奇妙な申し出が相次いでいました。血で屋敷を汚されたくない藩元は、何がしかの金を浪人に渡すという、いわば集りが横行していました。今日も井伊藩に元福島藩の津雲半四郎(仲代達矢)という浪人が、切腹を申し出ます。またかと応対した井伊藩家老(三国連太郎)。しかしこれが藩を揺るがず大事件に発展するとは、思いもよらなかったのです。
仲代達矢主演・監督小林正樹という以外、予備知識は全くなかったので、ケレンのない重厚なオープニングで、脚本橋本忍、音楽武満徹と出たので、まずほぉ〜!(無知でごめんね)。出演者も丹波哲郎・岩下志麻・三国連太郎・石浜朗など、錚々たる面々で、いやが上にも気分はマックスで盛り上がります。
テーマは武士道の欺瞞をあばく、ということでしょうか?面倒くさいので仲代には引き取り願おうと、同じように切腹を申し出た千々岩求女(石浜朗)は、望み通り切腹させたと語る三国。自分の藩は金は出さないよということです。
確かに金目当てであった石浜は、武士の風上にも置けない不埒者なのでしょう。しかし一旦は召し抱えるそぶりを見せ、ぬか喜びさせながら、実は切腹させようとする井伊藩の家臣たちの心映えは、本当に武士道に乗っ取ったものなのか、非常に疑問が湧きます。弱者に正論を押し通す恐ろしさ。弱いから正論を貫けないのです。その弱さがどこから来るのか、誰も気にも留めません。何度も「一旦家に帰らせて欲しい」と石浜は懇願します。私は妻子がいるのだと思いました。許さぬ井伊藩の家臣たち。追い打ちをかけるように、竹光しか持たない石浜でしたが、その竹光で切腹するよう命じます。竹光などで切腹出来ないのは、素人の私でもわかります。案の定目を背けたくなるような場面が目の前に。武士の情けはないのか?と怒りたくなるように作ってあり、のちのちの伏線にもなってあります。とにかく凄惨ですが、見応えのある秀逸なシーンです。
切腹前に自分の身の上話を聴いて欲しいという仲代。実は石浜は仲代の娘婿でした。福島藩士であった二人ですが、改易後江戸に出てきて、浪々の身ではありますが、娘(岩下志麻)と石浜とは仲睦まじく、男子の孫にも恵まれて、清貧の暮らしに、彼らは幸せを見出していました。私は時代劇を見るといつも思うのですが、藩とは今で言うと会社だということ。上役の顔色を伺うこともない気楽な今の生活が楽しいと語る場面など、正にそうです。
しかし心豊かな清貧な暮らしが楽しいというは、適度な貧乏であるからです。死ぬの生きるのと言う貧乏に喘ぐ時、そのようなことは言えないのです。岩下が病に倒れ、夫と父は金に換えられるものは、全て金に代えます。石浜の死後、娘婿が自分の娘のため武士の命である刀を売ったと知った時、遺体にすがり泣きながら謝る仲代に、私は号泣。自分は父親であるのに、これだけは武士の魂と売ることが出来なかったと、その「さもしい」気持ちを娘婿に詫びるのです。
刀を売った石浜に対して、井伊藩の取った行動は、武士として正論であり建前です。しかし泣いて謝る仲代は、親であり人の子であれば、誰でもが持つ感情と本音であるわけです。同じ武士ならばこそ、刀を売った時の石浜の心情も痛いほど理解出来ましょう。物事には全て表裏があり陰日向があります。日向の道しか知らない人間の傲慢さを、「武士道」と言う名を借りて、描いているように私には思えるのです。
確かに石浜のしたことは、決して褒められたことではありません。しかし死ぬ気ではないのが明らかな者から、武士道と言う名の元、命まで奪われるほどの事なのでしょうか?それも寄って多かって笑い者にして。「苛めの原因は、苛められる方にもある」。この言い分と、どこか根底で繋がっているように感じるのです。
この話には何か裏があると、仲代には絶対切腹をさせようとする三国の前に、悪しざまに石浜の遺体を運んで来た丹波・中谷・青木の三名の髷を投げつける仲代。命までは取っていないと語ります。三人は三人とも、病気を理由に休暇を取っていました。髪が伸びるまで時間を稼ごうということです。そんな卑小な心しかない者が、「武士道」の名の元、石浜の命を奪い侮辱したのだと、豪放に嘲笑する仲代。髷を差し出したもう一つの理由は、石浜に灸を据えたいのなら、こういう方法もあったのだと言いたかったのでしょう。そのため、あえて命を奪わなかった仲代の心中や、察するに余りあります。
「命を奪うより、髷を取る方がよっぽど苦労したわ」と不敵に笑う仲代。三人はいずれも剣豪、取り分け丹波の腕は高名でした。しかし仲代は関ヶ原に出陣の経験がありますが、三名は出陣経験はなく、仲代から「所詮は畳の上の水練」と揶揄されます。三人から髷を奪うシーンも出てきますが、実践で秀でる仲代の方が、一枚上手と描かれます。会社や肩書で相手を見くびり尊大に接し、自分の中身は過大に評価してしまう、人の世の常が描かれているかと感じました。
仲代は何度も「この話は明日は我が身」「自分に刃を向ければ、無駄な死人や傷を負うものも出る」と、何度も言いますが、聞く耳を持たない三国。壮絶な立ち回りの末、切腹して果てる仲代に、鉄砲まで持ち出す井伊藩。たった一人で復讐し、武士の本懐を得て、この世に未練を残すことなく死んだ仲代と、刀しか持たない者に銃まで使わねば仕留められなかった井伊藩とでは、どちらが武士として上かは、明らかです。
教養高く心も高潔であった石浜に魔が差したのは、どうしようもないほどの生活苦からです。環境が人の心を変えたのです。建前だけではなく正論だけではなく、井伊藩の家臣の中に、誰か一人でも何故このような騙りをするのかと背景に気を配り、「情け」をかける人がいれば、たくさんの人が死ぬ事はなかったはず。人とは「武士」=肩書の前に、人間であらなければなりません。
この作品は1962年の制作ですが、驚くほど今の世相に照らし合わせてみる事が出来、驚いています。この世界で描かれる武士の欺瞞や理不尽さは、言い換えれば、人の世の永遠の課題なのでしょう。モノクロの陰影深い撮影は物語の奥行きを広げており、テーマの普遍性を強調していました。特に私が感心したのは、発熱の赤ちゃんの様子。モノクロなのに、しっかり頬の赤みが感じられます。夏の白の描き方も、ぎらつく感じは出ているのに飛んでおらず、しっかり目に残ります。さすがは名手ですね。
二時間あまり全く隙のない展開で、ずっと緊張感が持続するので、観た後ぐったり。しかしこの素晴らしい作品を観る事が出来た幸せは、何にも代えがたいものでした。
いやー、面白い!すごい面白い!ツッコミを強引にかわしてしまう、スピード感とハラハラ感が充満。きっちり親子の情愛も描かれており、取り分け息子へ胸が張りたい、ヘタレの父親の心情にはホロッとさせられます。監督はあのジャッキー・チェン作品で観客を泣かせるという離れ業を成した、「香港国際警察」のベニー・チャン。この監督さん、好きだわー!
ロボットの設計士であるグレイス(ハービー・スー)は、六歳の娘を育てる母親です。夫は亡くなっており、今朝も娘を学校に送って会社に向かうはずでした。しかし何者かの手によって誘拐・拉致されます。理由がわからないまま混乱するグレイスでしたが、壊された電話から接続に成功。かかったのは気弱な経理係アボン(ルイス・クー)の携帯でした。最初はグレイスの訴えを悪い冗談だと思うアボンでしたが、銃声が聞こえ、彼女の話は真実だとわかります。一度は警察官(ニック・チョン)に携帯を手渡すのですが、信じてもらえず、結局アボンがグレイスの救出に向かいます。
ハリウッド作品の「セルラー」の香港リメイクです。実は公開当時も映画好きの間では大評判でしたが、私は意図的にパス。「セルラー」の原案はラリー・コーエンなのですが、コーエンがその前に脚本を書いた「フォーンブース」も当時評判だったのですが、私は外してしまいました。いまいち私には面白みが感じられず、「セルラー」についても、そんな予感がしたからです。
この作品も出だしこそまずまずでしたが、グレイスは結構なお金持ち的設定なので、その辺りで誘拐されたかと思っていたら、理由は実弟にあり。それなら何故金持ちの設定に?グレイス及びその娘の命を託されたアボンにしても、あんた、二人助けるために、どんだけの人巻き込んでるねんとまずツッコミ。
しかしその巻き込むカーチェイスは、とんでもなく面白かったです。追いつ追われつ、川を渡り信号無視し、路面を逆走。クラッシュ盛りだくさん。この辺は火薬バンバンのハリウッドとは違う、技で見せるカ―アクションで見応え充分です。そして段々車のパーツが剥がれ、アボンの車が丸裸になった頃、これはアボンが巻き込んでいるんじゃなくて、グレイスの誘拐事件に巻き込まれた、アボンの「ダイハード」なんだと私が視点を変えると、後は全然ノープロブレムに。「ダイハード」なんだから、ツッコミなんて無粋なことしちゃ、イケマセン。
アボンが息子との約束を反故にしてしまうかも知れないのに、見知らぬグレイスの救出に向かったのは、彼女が「夫は亡くなりました」と言ったからでしょう。アボンの妻はヘタレの夫を見限り離婚。彼もシングルファーザーなのです。ブルース・ウィリスじゃないんですから、救出劇は全然カッコ良くありません。間抜けだったり、トンチンカンだったり、そうかと思うと絶妙のタイミングでいい仕事をするアボン。その必死さ全てが、彼の精一杯の勇気と善良さを見事に表わしています。
今まで有言実行したことがなかったアボン。グレイスとの約束は必ず守ると決めたのです。そして息子との約束も守るために、取引の場に空港を選んだアボンに胸が熱くなる私。今までなら、きっと両方あきらめていた人だったと思います。そんな彼が、両方の約束を守ろうとしてるのです。このお話は不甲斐ない父親の、成長物語でもあるわけです。この手の男の自我は、どこで芽を吹くからわからないから、面白いなぁ。
空港での追跡劇も、これまた見応え充分。お腹いっぱいになる手前で、ちょっといいお話も挿入してからの展開には、正直びっくり。これでお腹パンパンになるくらい満足しました。このひと捻りがあるのとないのでは、鑑賞後の満足感は3割くらい違ったと思います。
グレイスを追い求めるアボンには、香港式のユーモアが要所に挿入され、緊張感を和らげ彼のキャラを際立たせたのに対し、グレイスの方は一貫して恐怖と絶望を描いたのも、絶妙な対比でした。あの様子を見せられれば、どうして見知らぬ人の為に命懸けに?という疑問は、出てこないと思います。
役者は総じて皆好演でした。敵役のリウ・イエ以外、馴染みのある顔はいませんでしたが、全く問題なく面白く観られます。閑職に追いやられている警察官役ニック・チョンの使い方も上手く、きちんと作品にコクを与えています。あの場面で拳銃が出てきたときは、とってもにんまりしました。
「香港国際警察」でチャーリー・ヤン演じるジャッキーの恋人が、あの場面での「私のこと、愛してる?」で感涙を搾られた皆さま、それに匹敵するシーンもございます。例え息子との約束を破っても、人の命とどちらかが大切かと問われたら、それは見知らぬ人であっても命でしょう。父親に他人と自分とどちらが大事かと問い詰めて、約束を破ったと怒る息子に育ったならば、その子育ては私は失敗だと思います。そういう気持ちでずっとアボンを応援しながら観ていた私には、ラストシーンが一番の嬉しいドンデン返しでした。
2009年09月13日(日) |
「クララ・シューマン 愛の協奏曲」 |
私のようにクラシック音楽に疎い人でも、シューマンやブラームスは馴染みが深いはず。この二人とシューマンの妻であるクララの三角関係は、書物で読んだことがあり、知っていました。しかし作品の方は、主に芸術家の才能との葛藤を軸に描いてあります。高尚でもなく下世話でもなく、品よく描けている秀作で、芸術の秋にはぴったりの作品です。監督は女性でブラームスの末裔である、ヘルマ・サンダース・ブラームス。
ロベルト・シューマン(パスカル・グレゴリー)とクララ(マルティナ・ゲデック)は、作曲家とピアニストの夫妻。7人の子をなしていますが、生活の為、二人で演奏ツアーに出ています。そんなある日、若き無名の作曲家ヨハネス・ブラームスと出会います。楽団の音楽監督としてロベルトが招かれることとなり、やっと家族揃って安住の家を持てた時、再び夫婦の前に、クララに捧げるピアノ曲を携えたヨハネスが訪ねます。彼の才能を見込んだ二人は、ロベルトの後継者として育てるため、ヨハネスを同居させます。
冒頭は素晴らしいピアノ演奏を見せるクララのシーンで始まります。自分の曲を弾く妻に聞き惚れる夫ロベルト。うっかり結婚指輪を落としてしまい、偶然拾ってくれたブラームスを睨みつけます。拾ってくれたのに、無礼ではありますが、それほどシューマンにとっては人に触られたくないものなのでしょう。妻であり我が子たちの母であり、そして自分の書いた曲を豊かな表現力で完ぺきに奏でるピアニストでもあるクララ。このシーンに、シューマンの妻への気持ちが凝縮されていたように思います。
旺盛な仕事ぶりとは裏腹、シューマンは酒浸りで始終頭痛に悩まされています。おまけに気難しく人前に出るのが苦手。楽団員の前で指揮に失敗した夫に代わり、クララがタクトを振ります。女性蔑視が半端ではなかった時代、心無い言葉を浴びせられながら、見事に楽団を指導するクララ。凛とした強さに溢れるこの姿は、どこから来るのでしょうか?
「楽団員の前では威厳を見せて。生活がかかっているのよ」と、夫を叱咤激励する一家の主婦としての責任。そして天才ではあるけれど、頼りない夫を持ったため、彼女はその力を発揮する機会が与えられた訳です。秀でる才能を持ちながら、偏見で埋もれさせてしまった女性たちは、当時はたくさんいたでしょう。見事な指導のあと、草原を走り寝そべるクララの表情は、内助の功を成し遂げた顔ではなく、自分への喜びに溢れていました。
次第に幻聴も聞こえるようになってくるシューマン。一説には若い時に患った梅毒が原因との説もあるらしいですが、映画では自分の才能を持て余し、いつしか才能の枯渇に恐れたシューマンが、精神的な病に向かったと感じさせます。アルコールでは利かなくなり、次に手を出したは薬物でした。
最初は断るも、悩みながらも夫のために薬物を手に入れるクララ。妻としては、毅然と断るべきでしょう。例えそのため、シューマンが曲を作れなくなり生活が困窮しても、彼女がピアニストとして働けば良いわけです。しかし夫の才能を誰よりも愛したのは、妻であるクララでした。シューマンの曲を聴き、感動の涙を流すシューマン宅の料理人の老婆。生活感に満ちた、芸術とは無縁であるような市井の人の心をも感動させる夫の才能を、枯らせてはいけない。それは同じ音楽家であるクララが、曲を作れない夫の辛さを誰よりも理解してしまったため、与えてしまったと感じました。
薬物と妻に依存するあまり、DVまがいのこともしてしまう夫。許してしまうクララには、「私がいなければこの人は・・・」という、そういう夫を持った人の、根源的な部分も見えてしまいます。男女でもあり芸術家同士でもあったため、必要以上に絆が深かったのかなとも感じます。
張りつめた夫婦関係に入り込んだブラームス。シューマンへの敬意、クララへの愛情、子供たちを慈しむ彼。そしてその類まれな才能。この問題の多い家庭を風通しよくさせ、持ちこたえさせているような描き方でした。まあ監督がブラームスの末裔ですから、そこは御愛嬌。一種風来坊めいた自由人でもあるのですが、演じるマリック・ジディが本当に爽やかな好青年で、容姿も端正で優しく品があるので、すごく説得力がありました。
パスカル・グレゴリーも、芸術家の才気と神経質な弱さを上手く表現していました。観客の同情も引かなければいけない役で、難しかったと思いますが、とても良かったと思います。子供たちと直接関わるシーンは少なかったですが、子供に声を荒げることも無様な姿を見せるシーンもありません。実際のシューマンは大変子煩悩で、子だくさんだったのは彼の希望とか。そういう良き一面は、健やかで可愛い子供たちの姿で、表現されていたのかもしれません。
ラスト近く、ある行動をとる決意をしたシューマンが結婚指輪を外し、妻に渡してくれと言います。冒頭のシーンとの対比だと思いました。これは足でまといになった自分から、妻を解放させるためのことだったかと思います。妻の才能に理解を示すシューマンは、決して「智恵子抄」的男性ではなかったと思います。フェミニズム映画としての側面も感じさせます。
そしてマルティナ・ゲデック。「善き人のためのソナタ」が、本当に忘れがたい人です。この作品のか弱く繊細なクリスタとは対照的な、芯の強いクララ。その器の大きさには惚れ惚れするくらいです。家庭の苦境にも、彼女が涙したシーンはたった一回。しかしその強さは、家族への溢れる母性と、自分の才能を開花させることを忘れない姿勢が強調されているため、恐れより共感を呼びます。そしてマルティナの特性である官能性。その色香は色で言えば上品なパープルです。年増女が若い男性を虜にするといえば、ある種いやらしさが付きまといますが、彼女が演じることで、瑞々しく落ち着いた艶を感じさせ、説得力が増しました。音は吹き替えでしょうが、ピアノを弾く姿も様になっており、タクトを振る姿もお見事。とにかくクララを演じて、マルティナの演技はパーフェクトでした。
クララとブラームスの関係は、諸説色々あるそうですが、この作品では生涯プラトニックであったと描いています。ラストのクララの演奏を聴き惚れながら涙するブラームスを見て、それはそれで、ちょっと良い大人のお話だと私は思います。
当時最下層であろう人々の前で、ブラームスがリクエストされピアノを弾くシーンがあります。今でこそクラシック音楽と言えば高尚なものですが、当時は流行歌と同じようなものでもあったのだなと、改めて思います。娯楽がいつしか芸術に転化されたのですね。そういえば以前、あと50年したらビートルズの曲もクラシックだ、と書かれた記述を読みました。確かにそうだなぁ。
私が音楽を聴き涙したのは、リンダ・ロンシュタットの「またひとりぼっち」を聴いた時と、我が母校であのストラディバリウスで生演奏してくれた、ヴァイオリニストの辻久子さんの演奏を聴いた時。どちらも感情より先に涙が出て、自分でもびっくりした記憶があります。いずれも高校生の時でした。この体験からすれば、人を感動させるのに、高尚も大衆的もないのですね。これは映画にだって言えることです。
ブラームスが「子守唄が歌える?」と聞かれて歌うのが、あの「ブラームスの子守唄」だったり、子供たちとダンスを踊るために弾いた曲が「ハンガリー舞曲」だったり、随所に名曲の数々が演奏されるのも聞きものです。でもシューマンは知らない曲ばかり。シューマンと言えば「流浪の民」くらいしか頭に浮かばない私。駄目だなぁ。でも鑑賞後、スクリーンから出てきた老紳士お二人が、「シューマンは知らん曲ばっかりやったなぁ」とお話されていたので、ちょっとほっとしています。私は景気づけに音楽を聴くときは、ツェッペリンだったりクィーンだったりするんですが、この秋はクラシックもいいかなぁと、思わせる作品です。
2009年09月09日(水) |
「サブウェイ123 激突」 |
うんうん、面白かった!元作はジョセフ・サージェントの傑作アクション「サブウェイ・パニック」を、トニー・スコット(私は「トゥルー・ロマンス」が一番好き♪)がリメイクした作品。元作はテレビ放送時に観ておりますが、ほとんど忘れております。ツッコミどころは満載なれど、アクション娯楽作は、それを言っちゃぁおしまいよ。私的には満足出来る作品でした。
NY地下鉄運行指令室で勤務中のバーガー(デンゼル・ワシントン)。運行中急停車した、1時23分発の列車の異変に気付きます。運転手に無線で連絡するも、対応したのは見知らぬ男ライダー(ジョン・トラボルタ)。彼らは他の車両は切り離しており、一号車だけ19名の乗客とともに、ライダー以下四人の男に乗っ取られていました。市長(ジェームズ・ガンドルフィーニ)に身代金1000万ドルを用意しろというライダー。時間は一時間、交渉人にはバーガーを指名、一分遅れるごとに一人ずと殺すと宣言します。
トニー・スコット作品の特徴というと、あの目まぐるしく変わるカット割り。これが上手くいけばスタイリッシュ、悪い場合は、チャカチャカ落ち着きがなく、ええい!鬱陶しい!となります。嬉しいことに今回は前者でした。カーアクションの際のローアングルのショットなど、臨場感満点で、ほ〜と感心。ためるところはためてじっくり、スピードが必要な場面はよりスピードアップと、今回は映像派アクション映画監督の、トニー・スコットの面目躍如でした。
現金輸送にするときは、道路を閉鎖したりサイレン鳴らしたらは?それより後半に使った交通機関、あれを最初から使えば?バーガーの懺悔、あれは不問って、それでいいのか?などなど、大きく小さく、ツッコミも多数ありでしたが、それを超える演出があったので、まぁいいかな?
現金輸送の場合は、最初からアレを使っちゃうと、カ―アクションできませんのでね、スリリングさが不足するかと。最初に結果ありきですが、ドキドキして観たから、これで結構でございます。
バーガーの告白の件もね、これはもう演出というより、キャスティングで勝ったも同然です。彼の罪の重さより、告白の時のバーガーの涙、自分の立場より縁も所縁もない人を優先したこと、そしてその使い道。全てがバーガーの人柄を表わしていました。何より夫の危機が迫っている時のバーガーの妻との会話がいいです。「帰りには絶対牛乳を買ってきてよ」。この妻の言葉は、この場合「あなたを信じているわ」とイコールです。何気ない夫婦の日常の会話で、夫婦の年輪と絆を表わしていました。終わってみれば、ツッコミよりこれらの事柄の方が、強い印象を残すのです。
今回は刑事でもない普通の人ということで、「アメリカン・ギャングスター」の絶品の男っぷりは期待していませんでしたが、その代わり仕事では誠実勤勉、家庭では温厚な良き家庭人というデンゼルのイメージが、今回のバーガー役に生かされており、演出効果が倍増されておりました。リドリー&トニー兄弟は、どうやら二人ともデンゼルファンらしく、今回も敵役のトラボルタの口から、「背が高くてハンサムだ」と、デンゼルのことを言わせており、惚れ込みようは相当なもの。監督と俳優の相性も大事だということがわかります。
これはトラボルタにも言えます。早口でまくしたて、首にはタトゥー、革ジャンを着た風体は強面のチンピラのライダーですが、要所要所で、インテリで信仰心の厚い様子が伺えます。どんな役でも器用こなすトラボルタですが、一番私が好きな彼は、「シーズ・ソー・ラブリー」の、映画史に残るような可哀そうな夫役の彼です。なので観客は、ライダーの背後に、悪徳だけではない何かがあるかもと、深追いしつつ観てしまいます。それが作品への集中力を高め、一層楽しめる要因になったと思います。やっぱりアクション作の悪役は、チャーミングでなきゃね。
無線で会話するうち、段々打ち解けていく二人の様子も上手く描けていました。あの犬の話はいらなかったけどなぁ。
他に一点いただけなかったのは、車両の中でGFとチャットする少年の場面。当然犯人逮捕に一役買うかと思っていたら、全く機能していませんでした。元作からは30年以上経っており、脚本に変化をもたらす意味だったんでしょうが、もうちょっと上手く使ってほしかったです。
最後までスリリングな展開で、ドキドキが続きます。元作のウォルター・マッソーVSロバート・ショウの脚本から、上手くキャスティングに合った内容に変更してありました。リメイクとしては、十分及第点をあげてもいいかと思います。
2009年09月06日(日) |
「グッド・バッド・ウィアード」 |
実は「3時10分、決断のとき」の前日、映画の日に観ております。「3時10分」のような傑作を観た後では、アホらしくて書く気にもならなくてねぇ。ホント、TAOさんの言う事きいときゃ良かった。大きな風呂敷を広げて、その上におもちゃ箱をひっくり返し、ただそれだけで終わったような作品です。間延びして退屈でした。
間抜けなコソ泥のユン・テグ(ソン・ガンホ)。列車強盗に押し入った時、偶然日本軍の宝の地図を手に入れます。しかしそれを狙っているギャングのボス・チャンイ(イ・ビョンホン)が、テグが持っていると知り、彼を追いかけます。そして賞金稼ぎのドウォン(チョン・ウソン)が、そのチャンイを追い、三つ巴の攻防戦が始まります。
う〜ん。チラシにほとんどスタントなし、役者が演じていますとありました。確かに韓国は兵役があるので、俳優は銃の使い方やアクションシーンはこなれたものを見せてくれます。ガンちゃんにしても、香港映画でよくあるようなコメディリリーフ的アクションシーンも、あれはあれで難しいと思うんですが、上手くソツなくこなしています。しかしそれが長い。もうちょっと切れる筈です。もしくはもっとメリハリが欲しいところ。香港映画はこう言う場合、アクション監督がいるんですが、韓国はないのかな?せっかくの無国籍の香り立つ満州を舞台にしているのに、それも生かせていません。
作風も売れっ子三人を使ったコメディアクションの割には派手さが不足しており、泥臭い訳でもなく洗練されているわけでもなく、如何にも中途半端。 ストーリーもまだるっこしくって、肝心のお宝に対しての欲望が希薄。この人たちはどうしてここに?の、一切説明なしのご都合主義or無駄な登場人物のオンパレードも、退屈に拍車をかけます。この作品はイーストウッド主演の「続夕陽のガンマン」にインスパイされて作られたそうですが、元作はもっと面白かったんでしょうね。
三人の中で合格はガンちゃんだけ。彼だけ期待通りの面白さで、クスクス笑えました。ビョンホンは「甘い人生」で見せた身体能力重視のアクションではなく、今回はナイフを中心に血みどろになります。でもこの人、なかなかのテコンドーの使い手な訳で、それを何故生かさないのか謎。映画友達の女性が彼のこと、「世界一素敵な大胸筋の持ち主」と書かれており、いつの間にセクシー系になったのか?と思っておりましたら、この作品でも完全サービスシーンで胸筋が出てきました。作中ではありませんが、画像を貼りますね。
ふむふむ、確かにかなりのモムチャン。しかしイッてしまっている殺し屋なんですが、目の下にクマなんぞ作る死に神メークも不発で、そんなに狂気も感じられません。それなら一瞬ではなく、スーツなんか脱ぎ捨てて、ずっと上半身裸で頑張ったら良かったのに。それでバンバン回し蹴り見せてもらうのじゃ。そしたら私のポイントも上がったのになぁ。
どうせ韓国製のウェスタンなんですから、イロモノっちゃイロモノなわけですよ。あのチャールトン・ヘストンだってさ、キャリア下り坂の時期とはいえ、あの大スターが「猿の惑星」なんて、超イロモノSFに出た訳ですよ。それもパンツ一丁どころか、腰蓑一丁。「ベン・ハー」みたいな約束された作品で脱いだんじゃありませんよ。闘う相手はえてこと来たもんだ。お笑いSFになる可能性も大だった訳ですよ。(そう思うと、ヘストンって偉いよなぁ)今回のビョンホンも、一か八か、それくらハッチャけたキャラでも良かったかな。もしくはグッド役に回るとかね。
そしてウソン。実は私は彼が韓国の俳優で一番ハンサムだと思っています。しかしこの作品ではほっぺたパンパン。どうした、ウソン?というくらい、美貌が劣化しておりました。(画像は私の好きなウソン君)これは俳優としては如何なものか?男くさい、女は添え物のウェスタンだって、男の美貌は大事なんだぞ。そう思うと、どんな作品でもマックスで美しい金城武は本当に偉い。演技が下手であってもね、そこに彼の俳優としての値打ちは凝縮されておるわけですよ(力説)。腕利き賞金稼ぎとしても、ほっぺのせいか全体に鈍重でキレがなく、精悍さに欠けます。いやほっぺのせいじゃないな。宍戸錠はあんなほっぺでもカッコ良かったもん。唯一カッコ良かったのは、ラストの荒野での一大アクションシーンでの、馬上でライフルぶっ放すシーン。これは素敵でした。
唯一合格だったガンちゃん(あえて画像はなし)。人気のイケメン俳優を抑えて、一番彼が光るというのは、やはりタダもんじゃないですよ。彼の特徴は役者が役に近づく、所謂デニーロ・アプローチとは対極で、彼が役を引き寄せて自分のものにしているということ。だからどんな役をやっても「ソン・ガンホ」な訳です。こう言うタイプは、偉大な大根役者と呼ばれる人が大半ですが、ガンちゃんの場合はどんな役柄でもお芝居が上手。一旦「俳優ソン・ガンホ」自身を通過して演じる役は、どれもこれも実に愛嬌があってチャーミングです。彼の頑張りで、何とか観られたようなもんでした。
まぁラストの一大活劇は見応えあったかな?それでも長すぎて、やっぱり間延びしていました。尺を削ったら良いという、大半の感想に私も賛成。この題材なら、香港映画の方が、絶対上手く料理すると思います。
2009年09月03日(木) |
「3時10分、決断のとき」 |
素晴らしい、素晴らしすぎる!今年何度書いたかわからない、このフレーズですが、今年の私の暫定一位作品とあっては、書かずにはおられません。この作品、2008年度のオスカーでは、音楽賞と音響賞だけにノミネートらしいですが、いったいオスカー会員はどこに目をつけているのか?小一時間どころか、一週間は問いただしたい気分です。監督・作品・主演&助演男優賞、全てノミニーなしなんて、本当にふざけています。ケレン味一切無し、西部劇として堂々の正攻法で、骨太に男の世界を描いた傑作です。監督はジェームズ・マンゴールド。1957年度作品「決断の3時10分」のリメイクです。
南北戦争で片足を失った牧場主のダン(クリスチャン・ベール)。妻(グレッチェン・モル)と二人の息子(ローガン・ローマンとベン・ペトリー)の四人暮らしです。しかし干ばつが続き牧場の運営は苦しく、借金がかさみ生活は苦しいです。そんな時、悪名名だたる強盗団のベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)が逮捕される時に、偶然居合わせたダンは、三日後ベンを裁判所のあるユマ行きの列車まで護送するのに、名乗りを挙げます。表向きは報酬で借金を返済することでしたが、ダンは自分の人生を賭けた、ある決意を胸に秘めていました。
ラッソーが本当に素晴らしい。彼が名優であるというのは認めていますが、正直苦手だった私が、今回文句なく惚れました。冷酷非情な悪党の面を露わにしても、それを凌駕する魅力がいっぱいです。類まれなガンさばき、聖書の一節をそらんじたり、人物をクロッキーするエレガントで知的な風情、逮捕されても全く動じず泰然自若な様子は、圧倒的な男としての自信に充ち溢れています。それらを立証する数々のエピソードを挿入しており、それは残虐であったり華やかであったりするのですが、一貫してウェイドの器の大きさとカリスマ性を描写しています。ラッソーはこれらを見事に体現したのですから、惚れるなと言う方が無理。私の気持ちは、酒場の女や妻、息子たちで代弁されていました。
対するダンですが、確かに甲斐性がなく、妻子の信頼は薄れ、難しい年頃(14歳)の長男には秘かに反抗され、立つ瀬がありません。しかし私には過剰にダンが自分を卑下しているように感じます。男なら誰でも自分の愛する妻子に、裕福な暮らしがさせたいでしょう。それを出来ない腑甲斐無い自分を責める男としてのプライドは、痛いほどわかります。でも確かに所帯やつれはしていましたが、女の私から観て妻のアリスは、不幸な妻には見えませんでした。それは子供たちとて、いっしょ。妻子は心の底では、夫・父親を、もう一度信じ信頼したいからだと思いました。それが何故なのかは、最後のダンの告白で理解することが出来ました。演じるベールは、私は大好きな人なのですが、ここ最近の「ダークナイト」「ターミネーター4」と、たて続きに超大作の主演を張るも、あまりの存在感の薄さ華のなさに、可愛さ余って憎さ100倍、もうファンなんか辞めてやる!の心境でしたが、こういう地味で切々とした男心を演じさすと、本当に上手。大物ぶりを発揮するラッソーに対して、受けの演技が要求されたと思いますが、一歩も引かない好演だったと思います。
不始末を仕出かした手下を始末した時、「油断したからだ」と言うベン。ベンが逮捕されたのも油断したからでしょうか?直接の原因は、会話を引きのばしたダンの機転でしたが、私はその前から始まっていたと思います。
ベンが酒場女のエマをじっと見つめる様子は、私には性欲とは感じられませんでした。あれは女の人肌を恋しがっている目、ではなかったでしょうか?緑の目の女が好きだと語り、ここをいっしょに出ようと、エマを誘うベン。ならず者に決まった女は不似合いでしょう。彼女が緑の目をしていたから、ベンは心が動いたのでしょうか?ベンの眼差しは、アリスにも向けられます。アリスにも緑の目の女が好きだと語るベン。それはもしかしたら、彼の母のことだったんじゃないかと思うのです。
ユマに到着するまでの道すがらは、西部劇らしい馬での追いつ追われつの様子や誰が生き残るのか?という銃撃戦、お約束の山間での野宿、インディアンまでアイテムとして上手く使うという、実にオーソドックスな作りながら、常にベンが、何をしでかすかわからない不敵さを匂わせているので、緊張感がずっと持続します。
ユマに到着してから、ホテルで待機してからの展開は、本当に秀逸。私はオリジナルを知らないので、本当に手に汗握りました。ベンの実力からしたら、例え手錠をかけられていたとしても、一人で逃げることは、いつでも出来たと思います。寸でのところで意外な人物が助けに入ったりしますが、それは目くらましで、私はダンがどこまで出来るか、ベンが確かめたかったから付いてきたように見えました。それはベンの家で食事を取り、平凡な家庭の姿を観た時、決めたのでしょう。油断ではなく、家庭への郷愁がそうさせたのではないかと思います。
絶体絶命の危機に、自分の気持ちをベンに語るダン。そこには妻子に男としての良心と誇りを見せたいダンがいます。その事にベンは気付いていたのでしょう。奇妙な連帯感が生まれ、お互いを思う心が会話の中で交錯します。そして息子たちに対する最大の気持ちを語るダンに、私は息を飲みます。
ダンは父親。私は母親。同じ親でも私はダンが抱く気持は、思ったことがないのです。父親と言う生き物は子供を選別し、優秀な子を引き上げる本能が備わっている。対する母親は、分け隔てなくどの子も愛する本能が備わっている。そう書物で読んだことがあります。父親の子供に向ける厳しい本能は、実は父親自身にも向けられているのだと、まざまざ感じました。
その言葉を聞いた時、ベンの気持ちが決まったのではないかと思います。俺の飲んだくれの親父だって、ダンと同じ気持ちを持っていたのだろう、でも叶わなかった。ダンのような気持ちを持ち続ける男が父親ならば、例え甲斐性はなくとも、母親は俺を捨てなかったのだ、アリスのように。付いてきたダンの息子は、ベンの男としての器量に憧れていました。その息子の前で、お前が憧れるのは俺なんかじゃない、お前の立派な父親だと、見せてやりたかったのだと思います。それは幼かった自分への慰めの行動でもあったでしょう。
サム・ペキンパーは、虫けらのようなアウトローたちの崖っぷちの男の意地を、凄惨な暴力描写を使って描き、観る者の心を熱くさせ、カタルシスを感じさせてくれました。悪党は悪党同士、深い絆がありました。しかし最後の最後、ベンが取ったような行動は観たことがありません。所詮悪党は悪党、絆などまやかしだと、ベンは語っているように思えます。「本当に悪い奴しか、ボスになれない」と、ダンの息子に語っていました。しかしそれは同じ悪党に向けた言葉なのでしょう。「良くやった」とダン見せた笑顔は、同じ悪党には決して見せなかった笑顔だと思います。
この作品のレビューをちょこっと読むと、「この男くさい世界、女性にわかるのか?」と言う男性諸氏の懸念の言葉が並んでいました。御心配めさるな。男を描くと言うことは、それを通して女は男を見つめている、と言う事です。私はダンにもベンにも、心打たれて泣きました。女だって充分理解出来ますよ。
この映画のことは伝えず、夫にダンの言葉を尋ねました。「父親なら、誰しもが思う事やろう。」という答えが返って来ました。ごめんね、お父さん。お父さんがそんな気持ちをずって抱いていたなんて、全然知らんかった。至らぬ妻で本当にすみません。この気持ちがあったから、夫は恵まれない時も自暴自棄にならず、ずっと真面目に生きてくれたのだと思います。ダンのように。
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