ケイケイの映画日記
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素晴らしい!何故この作品がオスカー作品賞にノミネートされていないのか、とても不思議です。最初は観るのを躊躇っていました。失踪した子供を探し求める母親のお話など、全編ずっと胸が詰まって、辛すぎるかと思ったからです。でも現役監督で世界一だと私が思うイーストウッドで、主演はアンジーという魅惑的な組み合わせに、結局初日に観ました。単なる母モノの枠をはるかに越えて、人権問題、当時の警察の腐敗、宗教感、死刑制度などにも言及した傑作。私は光市母子殺人事件の遺族、本村洋さんを想起してしまいました。この作品も実話の映画化です。
1928年のロスアンゼルス。シングルマザーのクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)は、電話会社に勤めながら一人息子のウォルターを育てています。休日に急に出勤せねばならなくなったクリスティは、息子を置いて仕事に出かけます。しかし帰宅すると、ウォルターがいません。警察に連絡するも、息子は見つかりません。憔悴し息子を探し続けるクリスティ。そして五か月経った時、ロス市警より息子が見つかったと連絡が入ります。勇んで駅に向かうクリスティでしたが、そこには息子とは別の少年がいました。
前半の母親の強さと優しさを余すところなく描いた演出と、それに応えたアンジーが素晴らしい。「子供は私の命」という言葉は、私は執着の愛を感じてあまり好きではないのですが、愛情いっぱいに子育てもし、仕事もきちんとこなす彼女には、この言葉が相応しいと感じます。息子の待つ家路に向かうとき、上司から昇進の話をもちかけられて、丁寧に対応しつつ、発車する電車の方が気になるクリスティン。子供を一人で置いて出る時、例え仕事であっても、母親とは一分一秒でも早く家に帰りたいものです。その時は子供が私を待っているから、と思うものですが、本当は母親が早く子供に会いたいのです。その細やかな母親の感情を、とても上手く表現していたシーンで秀逸です。
ウォルターが失跡してからのクリスティンの様子には、すっかり同化してしまい、予想通り胸が苦しくて仕方ありません。冷静であれと思いつつ涙がこぼれてしまう様子、狂乱して警察や息子を名乗る子供に喰ってかかる様子など、激しい感情の起伏を見せるクリスティン。とにかくアンジーの演技が素晴らしい。彼女は最初この役を貰った時、断ったと聞きます。養子を含め6人の母である彼女には、クリスティンの役は正常な精神状態を保てないと思ったのでしょう。本当に渾身の演技で、クリスティンが乗り移ったのではなく、アンジェリーナ・ジョリーの母親としての軌跡を全てさらけ出したような演技は、同じ母親の私を打ちのめし、深い共感と感動を与えてくれます。
ここからロス市警の腐敗、それに対抗するキリスト教団体、人権問題、女性蔑視、連続殺人事件、宗教感など、様々な要素が織り込まれますが、これが見事に整理されて、とてもわかり易いです。二時間半とやや長尺の作品ですが、その利点を生かした、たたみ掛けて展開するのではなく、余裕を持った作りです。その甲斐あって、一つ一つの問題定義に、自分なりの答えを見出す時間も与えてもらえます。なのに間延びした感覚は皆無。これは本当に監督の力量あってこそだと思います。
汚職やマフィアとの癒着にまみれたロス市警は、大切なのは自分たちの対面だけで、ウォルターが本人であるかどうかなど、まるで関心がありません。そして彼女の精神状態がおかしいと言い出す。「あなたは気楽な独身生活に味をしめて、親としての責任を放棄したいのだ」と断定する事件担当のジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)。ウォルターの父親は、その親の責任を放棄して、彼が誕生する前に母子から去っているのです。それ故誰よりも親の責任を重んじている彼女に浴びせる、この屈辱的で心ない言葉。クリスティンが発狂したように怒るのも当たり前なのです。
精神病院に入ってからの描写も、警察の腐敗の深さを表しています。立場の弱い女性は、少しでも警察関係者に楯突くと、皆この病院に送られて口封じされてしまいます。人権の尊重など皆無の管理の中、医師や看護師に至るまで、警察の支配下に置かれている様子が描かれます。その冷酷な様子が克明に描かれていて本当に恐ろしい。ただ私が非常に感銘を受けたのは、クリスティンがシングルマザーであったり、入院患者に娼婦がいても、「警察への抵抗」のみが描かれていて、直接彼女たちへの偏見の様子は描いていなかったことです。ひとくくりに弱者の立場の女性でした。当時はそうではなかったでしょう。やれクリスティンはシングルマザーで不道徳だとか、仕事に行ったがため、息子は寂しさから家出したのだの、実話なのでゴシップ記事は溢れてもいいようなものです。しかしそんな卑しい描写は、一切ありませんでした。その事で権力者側につく医療者女性の酷薄さも浮かび上がるし、腐敗した警察と闘うというテーマの的も絞れます。当時では珍しかったであろう、生き生き働くクリスティンの会社の同僚達の様子なども含め、監督の母性だけではない、女性性への尊重を感じました。
クリスティンを救ったのは、直接には教会の長老グリーブレク牧師(ジョン・マルコヴィッチ)です。しかし親切心だけではなく、クリスティンを広告塔に使って、自分たちの勢力を拡大させようとする野心も少し感じさせる牧師。しかしここからのクリスティンは、牧師の思惑より大きな人となります。この事件から自分に課せられた使命を痛感したのでしょう。ここが私が本村さんを思い出した所以です。
あるテレビ番組で彼の特集が組まれた時、「事件当時は何故自分がこんな目に遭うのかと嘆き悲しんだ。でも今は自分だからこそ、与えられた試練だと思っている」と答えられていました。そして殺人事件の遺族の人権を訴える活動をすることは、会社に迷惑をかけるからと、社長に辞職を申し出たところ、「社会人の肩書があった方が、聞く人の心に届くのではないか?休みは取っていいので、会社にいなさい」と返答されたそうです。特集最後に映されたこのシーンが、私は忘れられません。牧師のその後の動向は、この社長さんのように、クリスティンに触発されたのかも知れませんね。
クリスティンは最初から人権問題まで幅を広げて活動しようと思っていたわけではありません。最初から最後まで、ただ息子が見つかりますように、それだけを願っていました。彼女のその心が、上司であるジョーンズ警部に逆らって捜査をしたヤバラ刑事の勇気、精神病院でクリスティンを助けようとする患者のキャロルの反骨心を呼び起こしたのだと思うのです。そして「地獄に堕ちたくない」と罪を告白する少年の心も、彼女の思いが神に通じたのかも知れません。
法廷で「この裁判は公平ではない」と語るある被疑者。私もそう思う。彼こそ、精神鑑定が必要だと思うからです。もちろんそれで罪が帳消しになんてなりませんが、この言葉もまた、重要なこの作品のテーマと重なりました。
たった一つ不満だったのは、ウォルターを名乗る少年の背景がまるで語られていないこと。何故嘘をついたのかは、子供らしい理由ですが、何故長期間平気で母ではない人を、「ママ」と呼べたのか、不思議でなりません。実の親には虐待されていたとか、施設で育って、母と言うものの存在を確かめたかったとか、この辺は実話通りではなく脚色しても良かったかも。「私を母と呼ばないで!」と、怒りを爆発させながら、後で年端もいかない子に何てひどいことをと反省する、母親ならではの感情の起伏を、アンジーがとても繊細に演じてくれていたので、余計不満が募りました。
ラストで描かれるエピソードは、息子を誇りに思って一生を送れるよう、クリスティンへのプレゼントでした。しかしそのため、彼女はその後も息子に人生を賭けてしまったのだなと、エピローグで語られます。でもそれは不幸でしょうか?一筋の希望を胸に抱いてその後の人生を歩んだ彼女は、人が思うより、私は幸せだったと思います。
重要な証言をする少年が、何故今になって出て来たか?という問いに、「ママに会いたかったから。パパにも」というシーンが、私は一番号泣しました。子供は親を選べないという考え方もありますが、私は子供がこの親を求めてこの世に生まれた、と言う考え方が好きです。だからこそ、大事に育てなければいけないのだと思います。クリスティンはウォルターが自分を求めて生まれたことに、立派に応えた人だと思います。
2009年02月17日(火) |
「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 |
へぇ〜、これでフィンチャーかぁ、というのが率直な感想。この題材でフィンチャーが描くなら、もっと捻りが効いて、格調高くもグロテスクに描いているのかと想像していました。しかし実際は、水彩画のような淡い美しさが魅力の作品に仕上っていました。なかなか素敵な作品です。
1918年のニューオリンズ。ある夫婦の元に男子が生まれましたが、妻は死んでしまいます。父親(ジェイソン・フレミング)は生まれたてなのに、80歳の老人あるような息子の姿に悲観し、老人ホームの階段の下に息子を置き去りに。彼を拾ったのは介護士のクイニー(タラジ・P・ヘンソン)。彼女は神の贈り物だと、その子にベンジャミン(ブラッド・ピット)と名づけ、慈しみ育てます。長く生きられないと言われていたベンジャミンですが、年齢とは逆行し、少しずつ若返って行きます。ある日ベンジャミンは、ホームに祖母の面会に来たデイジー(ケイト・ブランシェット)と、運命的な出会いをします。
咄嗟にベンジャミンを捨てた父親の心情はわかるなぁ。最愛の妻が亡くなったのは、このモンスターのような赤子のためだと、一瞬憎しみすら感じたのでしょう。妻の子供を頼むとの遺言に揺らぎつつ、子供を捨ててしまう父親。これが普通の赤ちゃんだったら、捨てられなかったかも。
ベンジャミンを迷いもなく育てるクィニーの気持にも共感。彼女は子供が産めない体でした。そんな自分への神様からのプレゼントだとする心は、信仰の厚い彼女の様子から納得出来ます。それと上手かったのは、ベンジャミンが育った場所が、老人ホームだということ。これなら彼が異端者扱いされることもなく、静々毎日が過ぎて行っても、何の疑問もありません。それどころか、数々の経験をしてきた人生の先達たちは、彼に自分の人生から得た教訓や教養を与えてくれます。体は老人でも精神は瑞々しいベンジャミンの心は、きっとスポンジのように吸収したことでしょう。この辺までの演出は、奇異なはずのファンタジーを、全く無理なく見せて、脚本(エリック・ロス)の上手さに惚れ惚れするほどです。
いくら実年齢が若くても、人はやはりその人の外見に惑わされるものです。容姿は熟年でも、まだまだ少年を出たばかりの彼には、寂しさから倦怠と憂い、そして芳しい「年上の女」の香りを上品に発散させるエリザベス(ティルダ・スウィントン)は、さぞ魅力的だったでしょう。その時デイジーはまだほんの少女。そして再開した時にも、微妙にお互いの気持ちはすれ違います。異性に対しての成熟度が、微妙に男女で差があるのがわかります。
若かりし頃発展家だったデイジーがストイックに自分を見つめている頃、若返る外見の恩恵を受けたベンジャミンが、女性修行に励む姿がおかしいです。うん、この方が自然だわ。やっと二人の心と外見がぴったり重なるのは、各々30代後半から40代でしょうか?人生のほんの一時、今までのギャップを埋めるかのような毎日を送る二人。少々享楽的ですが、ベンジャミンの生い立ち知る私は、この姿に幸せを見出し嬉しく思います。
段々若返る恋しい人に彼女は自分の皺を気にします。10年前はベンジャミンを圧倒していたのは、彼女だったのに。男女の間では、若さが常に優位に立つのだと実感させる演出です。しかし老いとは何か、若さとは何かを幼い頃から見つめ続けたベンジャミンに見えるのは、デイジーの内面だけなのです。
ベンジャミンの育った老人ホームに立ち込める死の匂い。しかしそれは寂しさは伴うものの、穏やかな夕暮れの日差しを思わす、穏やかなものでした。段々若返る自分に戸惑うことなく、流れに身を任せながらも、自分を見失う事のなかったベンジャミン。それは常に死を身近に感じて暮らした、老人ホームでの日々が、彼に与えてくれた恩恵なのでしょう。
例え老人に生まれて若返ろうが、母の愛に慈しまれ、多くの大人に人生の手ほどきを受けて、愛する人と巡り合う。そして迎えるものは。奇妙な運命に生まれたついた彼が辿る人生は、決して数奇ではなく、平凡で幸せなものでした。
私がこの作品から感じた最大のものは、どんな境遇に生まれても、人とは生まれた時から、等しく死に向かって生きているということです。だから今この一瞬を無駄にしてはいけないのでしょうね。老いて生まれたベンジャミンは、一度たりとて「今その時」を無駄にはしていませんでした。
撮影技術やCGを駆使してのブラピとケイトの変遷は見応え充分。若返ったブラピの美しさに話題集中ですが、私はケイトの方に目を見張りました。それに演技も流石で、若い娘の発散する熱気や我がままさ、熟年期の哀しみまで、本当に上手くて感嘆しました。ブラピは良かったけど、これでオスカー候補とは、ちょっとなぁ。断然「ジェシー・ジェームズの暗殺」の方が良かったのに。
ベンジャミンのお父さんは、あの時偶然に息子に会ったのではなく、ずっと見守っていたのだと思います。再婚もせず、他に子供を作らなかったのは、亡き妻とベンジャミンへの詫びと愛なのでしょう。父の辛い人生を支えたのは、ベンジャミンの「成長」だったことでしょう。父と息子の和解、今際のきわのデイジーの元に現れたハチドリ、そして最愛のデイジーに抱かれたベンジャミンなど、「死」を重要なモチーフに描く事で、一生懸命でも生き生きでもないけれど、「誠実に生きる」という事の大切さを、教えてもらえる作品でした。
2009年02月15日(日) |
「誰も守ってくれない」 |
延び延びになっていたのを、やっと鑑賞。詰めの甘い箇所も多々ありますが、一番芯になる「加害者家族の人権」を考えるという視点は最後まで真摯で、その姿勢に感銘を受けました。監督は君塚良一。
中学三年生の船村沙織(志田未来)は、ある日突然高校生の兄が、幼い姉妹を殺害したとして、警察に連行されます。何が何かわからぬまま、沙織は両親と離れ、マスコミや市民のバッシングから守るという名目で、警察に保護されます。しかし執拗に追いかけてくるマスコミ。本当は休暇を貰えるはずであった刑事の勝浦(佐藤浩市)は、上からの指示がないまま、一人で沙織を保護することになります。
導入場面が秀逸。観客はこれから沙織の身の上に起こり得ることがわかっているので、屈託なく学校生活を送る彼女の笑顔に心が痛みます。予告編で聞かされていたオリジナルの主題歌も効果的に使われています。
兄の逮捕から連行、それ以降の一連の警察の家族に対しての対応、マスコミの動向は、ちょっとドキュメントを観ているようで、臨場感大。執拗に船村家を追いかけるマスコミには、私自身はこういうことに興味がないので、これをリアルだと感心する前に、腹が立ちました。但し一転、家の中の家族に対する警察の対応は、だいぶ誇張というか、デフォルメされている感は否めず。
離婚・入籍の件や就学免除の件など、これはもっと時間が経ってからはあるかも知れませんが、逮捕当日とは、幾らなんでも早すぎだし、弁護士も来るなど用意周到過ぎです。就学免除などは学校側の意見も加味されるはずだし、第一本人(沙織)が通いたいと言っているのに、それを全く無視する「権利」など、警察にあろうはずがありません。のちに兄の証言が取れなくて困るという流れなんですから、罪を認める段階でも無いうちからは、この一連の流れはやりすぎです。この辺には疑問が残りました。
マスコミがあの手この手で沙織を追いかけ回すのは、納得したりしなかったり。未成年加害者本人の写真が出回るのは、今までにも実際あったことですが、その家族の姿など、私はどこにも観た記憶がありません。過去にある捜査ミスで、罪のない子供を死なせた勝浦にしても、その事が三流週刊誌ならともかく、新聞に以前の失態が名前付きで暴露されることなど考えられず、これも暴走気味の演出です。
ネットで炎上する事件。ネットの匿名性の恐ろしさも描いています。私が足繁く通うサイトは、映画のお友達サイトと自分の仕事関係、mixiくらいなので、これが本当なのかどうかはわかりません。しかし無責任で興味本位な行動は慎みたいと思わせるには、充分でした。というか、BFの件は、私的には痛々しすぎて、私は好きではありません。あれより中学生くらいなら同性の親友もいるでしょうし、その子を電話にでも出させる演出もあった方が、より現実的だったかと思います。警察批判的要素見受けられますが、これも要らないと思います。
しかし私がそれでもギリギリセーフかなと思えたのは、何が何だかわからず、狼狽しつつ必死で耐える沙織、やっかいな者をしょい込んだと思いつつ、沙織への相哀れむ心を見え隠れさせる勝浦など、志田未来と佐藤浩市の演技が本当に上手だったから。映画は映画なんですから、リアリティ一辺倒でなくてもいいですよね。
その死なせた子供の両親(柳場敏郎・石田ゆり子)が営むペンションへ、勝浦が沙織を匿う目的で訪れる後半からは、本来のテーマが強く浮き彫りにされます。勝浦は毎年両親を訪れ、仏壇に手を合わしているようです。本当の加害者は薬物中毒者で、勝浦ではありません。しかし本来ならお互い顔を合わすのが気まずい間柄でしょう。
特に父親など、勝浦に辛く当たるのは大人の配慮としては出来ないでしょう。気まずくても来ることで詫びの気持ちや誠意を表わせる勝浦の方が、気が楽なのではないでしょうか?「加害者の遺族も被害者の遺族も、大変なのは同じかも知れませんね」と語る、その温厚で聡明な父親が、とあることで感情を爆発させ勝浦に迫る場面が秀逸。この場面があることで、この作品の値打ちが倍も三倍も違います。
怒りの丈を勝浦にぶつける父親ですが、私はこれが彼の本音だとは思いません。「加害者の家族も」以下の言葉も、怒りに震える言葉も、両方父親の本心だと思います。ふとした拍子に、哀しみが舞い戻ってくるのは当たり前の事です。この父親は、そして母親は、その感情を沈めたくて、勝浦に会ってているのではないかと思いました。子供の死を受け止め、逃げないために。
勝浦は勝浦で、筋違いの行き場のない感情を自分にぶつける沙織に、「逃げている自分」を見つけ出したのだと思います。まだ子供の沙織には、受け止めてくれそうな勝浦に甘えてのことだと思います。しかし勝浦は。以前の事件のことは、上の指示通りやっての失態です。自分はこうしたかったのに、結果はああなった。彼の心のどこかには、そう叫びたい気持ちがあったのでしょう。そして精神科医の登板(木村佳乃)。彼の手の震えはそういうことなのかと感じました。
沙織を通じて、初めて本当に自分の「罪」を確認したのでしょう。沙織を守る事で、自分をも守る事を確認した勝浦が、画像の海岸で沙織に語る言葉は感動的です。一番弱い彼女が家族が守る。その気持ちを持ってこそ、沙織は自分自身を守れるのでしょう。
この作品は、加害者家族の人権についてマスコミが追いかけることを、ハイエナの如く描いていて、明確に否定しているように感じます。そして身内の罪を家族は背負って生きていく必要があるのか?という問いには、「イエス」だと受け取りました。何故なら、沙織はあることで兄を庇おうとします。その気持ちは家族だからという愛でしょう。ならばいっしょに罪を背負って生きていかねばなりません。だからこそ、前をしっかり向いて、太陽の下を歩ける人間にならなければいけない。周囲の人間は好奇や偏見の目で家族を見てはいけないのだ、それが私のこの作品から得た教訓です。当たり前のようですが、目の当たりにして、改めて心に刻んだ人も多いと思います。
ただ沙織に語らせた兄の犯行動機は陳腐です。あれを犯罪を起こす動機にされては、たまったもんではありません。それより追及するなら、一度も沙織と連絡を取らなかった父親。そして自殺してしまった母親ではないでしょうか?母親の場合、死んで詫びるのではなく、息子の起こした事件でショックを受けての発作的な自殺です。例えフィクションの映画でも、死者に鞭打つのは心苦しいですが、同じ母親としてひ弱過ぎです。だって沙織がいるんですよ?本来なら娘を守るのは、母の仕事です。そして出所後の息子を迎えるのは誰がするんでしょうか?無責任過ぎます。この両親の対応で家庭を知れと言うのなら、演出が甘いです。映画の方は意味を別方向に持っていってましたしね。正直私がこの作品で一番腹が立ったのは、沙織の母の自殺です。
こうやって幾つも疑問を感じながらも、一番描きたかった「加害者家族の人権」に対して、明確な答えを出しているのが、私がこの作品を好きな理由です。主役の二人以外でも、柳場敏郎、石田ゆり子、ちゃらちゃらしながら、でも仕事はきちんとこなす松田龍平の同僚刑事など、主をなす登場人物みんなが好演だったのが、作品の成功の要因だったと思います。石田ゆり子は嫌いではありませんでしたが、ずっと大根だと思っていましたが、今回聖母のような母役で、初めて彼女が良いと思いました。彼女が徹頭徹尾優しかったのは、「何故息子を守れなかったと、妻を責めました。ひどい夫だったと思います」という、辛酸を潜り抜けた人だったからだと思います。いわれなきことで自分を責め、周りから責められ、だから勝浦や沙織の心が理解出来たのでしょうね。
フジテレビとタイアップなので、来年くらいには放送されるかも知れません。でも自分の家族では無くても、周りに身近に考えさせられる事件が起こるやも知れない昨今、見る価値は十分にある作品だと思いました。
映画好きさんたちの間で、すこぶる評判の良い作品。何でもTAOさんによると、松阪慶子演ずる母ちゃんは、私に似ているんだとか。確かに思い当たるところもちらほら。体型とか。でもこーんなに優しくて綺麗で逞しくって、豊か感受性の持ち主に似ていると言っていただいて、とても光栄です。実は私のモットーとしている母親哲学にも、通じる母ちゃんでもありました。
大阪の下町に住む久保房子(松阪慶子)と中三・中二と小学生の三人の息子。父(間寛平)が突然亡くなり、それと同時に父の弟と称するおっちゃん(岸辺一徳)が、久保家にころがりこみます。その状況を担任から「ハムレットのようだな」と言われた次男は、それがどういう意味か確かめるため、「ハムレット」を読み始めます。長男は女子大生との恋、三男は大きくなったら女の子になりたいと、それぞれ悩み事を抱えていました。
私が松阪慶子を好きなったのは、「事件」という作品を観てから。世間一般からは汚れた女である彼女演ずる殺人事件の被害者の、心の底の愛する男性と幸せになりたいという、切々とした気持ちに打たれた高校生の私は、劇場の帰りの道すがら、適当な言葉が見つからず、母に「あの女の人、清純やったね」と言うと、母は「あれは清純は適切ではないわ。言うなら純情かなぁ」と言います。その時初めて、女の哀しさの一つに、「あばずれの純情」というものがあると知りました。それから30年、哀しみも切なさも、豊かな包容力と母性で、みーんな吹っ飛ばしてしまう女性として、松阪慶子は私の前に現れました。
どうもこの兄弟は全部父親が違うらしいのです。一見破天荒な母ちゃんですが、昼は看護補助、晩はスナック嬢としてのアルバイトと、昼夜働いているのに、子供には絶え間なく笑顔見せ、苦労の影を見せません。というか、多分苦労と思ってないし。この辺がとっても素敵でね。
全編しょっちゅう出てくるご飯の場面。何度「ご飯出来たで〜」の房子の声を聞いたでしょうか?スナックに出かける時も、必ず晩御飯を用意してから出かけます。これは私も絶対作って行きます。(私の場合残念ながらスナックじゃなく、病院の受付なので夜診の時なんですけどね)。私が子育てで心がけたことは、「ご飯をちゃんと作る」です。家に母親が作った御飯があると思うと、子供(夫もかな?)は夜の街を徘徊せず、自然と家に足が向くのじゃないでしょうか?
次男が喧嘩して帰ったり、三男が女の子になりたいと言っても、全然動じない母ちゃんですが、一度だけ息子たちを殴ります。それは家族に馴染もうと頑張るおっちゃんの心を無にした時。人の心を思いやることができない息子たちが、許せないのですね。これはわかるなぁ。だいたい思春期で難しいからって、子供の顔色なんかみる必要はないですよ。裸で生まれてきた子を、おむつ替えて病気の時は必死で看病して、食べさせて学校に行かせて、自分はあれもこれも我慢して。なのにどうして子供の顔色観なきゃいけないの? 子供に口応えなんかさせて、たまるかい。
長男が中1の時、クラブの朝練で早朝からお弁当を作ってご飯を食べさせていた時、息子が「お母さん、何か忘れてへん?」「えっ?何」と聞くと、「お茶が出てへんで」と、ふんぞり返って言うではありませんか。当時息子は成績もそこそこ良く、クラブに勉強に頑張る自分が、世界で一番偉い様に錯覚していたのでしょう。その時頭がブチブチ切れた私は、
「あんた、パンツだけははかしてやるから、着てるもん全部脱いで出て行きや。裸で生まれてきたあんたを、大事にここまで大きくしたんは、お父さんとお母さんや。この家のもんは夫婦で協力して買ったもんばっかりで、あんたの甲斐性で買ったもんは、ひとつもあれへんで。あんたが今一生懸命頑張ってんのは、全部自分のためやろ?親は子供のために頑張ってんねん。『俺のために朝早く起きてもらって、ごめんな』の一つもよう言われん子は、この家にはいらんねん。そんな偉そうな態度とるねんやったら、塾もクラブも辞めてまえ!さぁ出て行き!」
私の迫力に見る見る青ざめる長男。「ご、ごめんな、お母さん・・・。俺が悪かったわ」と、以来朝練の時は、私を労ってくれるようになりました。以降次男三男も偉そうな素振りが見えた時、同じようにしたわけね。ぶすっとはしても、母に口応えせず黙っている房子の息子たちは、まるで我が家の三兄弟みたいでした。
久保家の次男は今は大阪でも絶滅種に近いヤンキーで、血の気が多く喧嘩ばかりしていますが、万引き・カツアゲ・シンナーはせず。房子が怒らないのは、このことをちゃんと把握しているからでしょう。三男のことにも心を痛めていますが、彼が自我を通すという事は、茨の人生を歩むということです。決して世間体が悪いことを気にかけているのではありません。長男が異常に老けているのも、きっと気苦労をかけているからだと、心の底ではわかっているでしょう。いつもにこにこ、能天気なようで、房子は子供を信じてちゃんと見守っているのが、わかります。
息子たちだってそう。世間一般からは好奇の目で見られるような家庭であっても、不足はあっても不満はないのでしょう。彼らは立派な母だと思うからこそ、自分のことを最優先します。私は常々子供が親を一番に思ってしまったなら、それは親失格だと思っています。子供が飛びたい時に安心して親の元を飛べる状態にしてこそ、親ではないでしょうか?自分の悩みにけりをつけた長男・次男が次に向かった先は、やっぱり「家庭」でした。これでええのんよ。家族の絆とは、意識せずとも自然に足が向いてこそ、値打ちがあるものです。
脇のエピソードも秀逸。白川和子演じるお婆ちゃんは、三男に「男でも女でもええ。生きとったらそれでええねん!」と、三男の心を汲み取ります。それは房子の妹で、変わり者だった亜希(本庄まなみ)のことを、最後まで理解してやれなかった自分を、きっと悔やんでいるんでしょうね。彼女が悔恨している様子は、亜希の遺骨を抱いた次男三男を迎える時の、「よう来たな・・・」の演技とセリフだけで涙が出ました。白川和子、元ロマポの女王の底力やね!
複雑なファザコン娘由加(加藤夏希)と長男のエピソードも胸に染みました。再婚相手になつく娘に、「あんたはお父ちゃんの子を産むこともできるねんで」と、嫉妬して言い募る母など、私は信じられませんが、何よりも母親が勝る房子との、対比になっているのでしょう。ファザコンから抜け出せない自分のみっともなさは、由加自身が一番わかっているはず。彼女が一目で長男を頼ろうと思ったのは、彼の醸し出す長男としての母や兄弟への思いを、包容力と受け取ったのでしょう。この辺は複雑な家庭に育った者同士、魅かれあうのは、私には理解出来ました。
甲斐性のないおっちゃんは、自分はこの家の迷惑者だと卑下すると「黙って家を出たらあかんよ」と、優しく房子は慰めます。きっとずっとダメンズ好きだった房子、男の一人や二人、養うのは平気なんでしょうね。「子供の頃から男の子がついてまわった」(祖母談)「今も昔もおんなじや」(二男談)の房子ですが、その美貌と天真爛漫な性格を生かして、玉の輿をゲットしようという浅ましい心はなかったようで。この辺も潔くて素敵です。
看護補助とスナック嬢とは、母性と美貌と言う自分の最大の武器でお金も稼ぐ房子。その逞しさやしなやかさは、まぶしいくらいです。人間学歴や資格がなくても、何やっても生きていけるもんやわ。ラスト四男を抱いた次男が夕陽を見ながら、「誰の子でもええ。お前はうちの子や」と語る姿が爽やかです。生きている、例えぶざまであっても、ただそれだけで素晴らしい。それがこの作品を貫くテーマなんだと、しみじみ感じました
陣痛の最中にも「あんたら、ご飯食べた?」と聞く房子には、思わず爆笑。いえ、私も三男出産の折、夫に連れられて見舞いに来た長男次男に、分娩室で同じことを言ったもんで。母親は子供を手放したら、もう母親ではないねん。それが父親とは違うところだと思います。子供を育てるというほど、母親にエネルギーを与える仕事はありません。房子はそれを知っているから、恵まれた子は、皆産むのでしょうね。
うちの子は優秀な子は一人もいませんが、三人とも心身ともに健康で、別段反抗期もなく、でも伸び伸び「健やか」に育ってくれました。母親として大変満足しています。その点は久保家の三兄弟と同じです。この作品が好評なのは、今の時代、子供達に欠けている「健やかさ」を、見せてもらったからでしょう。心身ともに健康ならば、後は全部もうけもんですよ、若いお母さんたち。この作品を観て是非感じ取って欲しいです。
2009年02月04日(水) |
「マンマ・ミーア!」 |
わ〜、楽しい!ほんとすごーく楽しかった!親愛なる映画友達の方々の間では、メリル・ストリープを始め、中年俳優たちがはしゃぎ過ぎという感想を目にしたので、どんなもんかと思っていましたが、私は全くノープロブレム。ていうか、私もいっしょに歌い踊り狂いたかったわ。
ギリシャのリゾート地、カロカイリ島で小さなホテルを営むドナ(メリル・ストリープ)。明日は娘のソフィ(アマンダ・セイフライド)の結婚式です。寂しさを隠せないドナの元には、親友のロージー(ジュリー・ウォルターズ)とターニャ(クリスティーン・バランスキー)が駆けつけます。ソフィはこの結婚に、ある賭けをしていました。ドナの過去の交際相手の中から、三人の男性、サム(ピアース・ブロスナン)、ビル(ステファン・スカルスゲード)、ハリー(コリン・ハース)の三人に結婚式の招待状を出して、現れた中から、自分の本当の父親を探し出そうとしていました。
お馴染みアバの曲が全編流れるミュージカルです。アバは特別ファンではなかったですが、我が青春時代の70年代を席巻したバンドであり、やはり耳にすると懐かしさがいっぱい。ミュージカルは、その時々の登場人物の心に合わせた曲を歌いますが、正直既存のアバの歌詞が、こんなにぴったりはまるなんて、とっても意外でした。風光明媚でリゾート感度満点の景色にも、とっても合います。
で、不評の中年男女の歌と踊りなんですが、そんなに観ていて辛いかなぁ?私はいっしょに体を動かしそうになりましたが。中年だってさ、ワーキャー、バカみたいにはしゃぎたくなる時、ありますよ。どうしてみんな爺さん婆さんがはしゃいだり、若いもんに負けるかい!って映画は褒めるのに、爺さん婆さん手前の男女だと評価が厳しいの?私は根本は同じだと思うぞ。
歌はストリープを始め、みんなまずまず(ブロスナン以外)でしたが、確かに踊りの方はドタドタ、はぁはぁ息遣いが聞こえてきそう。でもそれが中年の味ってもんですよ〜。素晴らしい踊りで目の保養が出来るも良し、自分もいっしょに踊りたくなるような楽しさを感じるも良し。私は後者を感じたので、全然問題無しでした。
中身も他愛もないという評価が多いですが、そうでしょうか?妊娠したことを別れた恋人に告げず、実母の縁切りの宣告も越え、一人で産んで一人でソフィを育てたドナ。その娘が自分の世界から遠ざかる寂しさ。ずっと父を求めていたのに、頑張る母に気兼ねして、そのことが言えなかった娘。思いやりのために、お互いひた隠しにしていた気持ちがぶつかり合う場面は、ずっと二人きり暮らしてきた母娘の感情がほとばしります。そして式のエスコートにソフィが誰を選んだか?紆余曲折を経て、ソフィが母への感謝を改めて深くしたと感じ、私なんか思わず涙ぐんじゃった。
式からの展開は正直ドタバタ、ちょっと無理はありましたけど、シングルマザーって本当に大変なんですよ。「ふしだらな淫売」(自分で言ってた)ドナが、男っけなしで今まで頑張ってきたのは、全部ソフィのためでしょう?いいじゃん、白馬の「元」王子様が現れたって。少々無理な展開でも、私はドナが幸せになる方がいいわ。
ドナの役は「現役女優で世界一」のストリープがやるからいいんですよ。貫禄を消し去り、見事B型っぽいドナを好演。二人の親友の濃い頑張りも楽しかったです。ソフィ役のアマンダは、小柄ながらのびやかな肢体と、明るい笑顔がとってもチャーミングな、「アメリカの恋人」タイプの子です。リース・ウィザースプーンやケイト・ハドソンなどが年がいって、この年代でラブコメやれる女優は少ないので、有望株と観ました。忘れたちゃならないのが、三人のパパ役さんたち。それぞれ絶妙にチャーミングでしたが、筆頭はスカルスゲードかな?でもゆっぱり私の好みはブロンスナン氏ですが。歌が下手でも、胸毛がボーボーでも気にしない!
若い時に撮った写真、男性陣はのきなみ若気の熱気を感じさせるいでたちから、すっかり落ち着いた風情になったのに、ドナだけ一向に変わらない様子が感慨深かったです。彼女、それだけわき目もふらず生きてきたんですよ。
レディースデーながら平日の本日、劇場は満員で嬉しい限り。本当に楽しいので、観て下さーい。
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