ケイケイの映画日記
目次過去未来


2009年03月21日(土) 「ワルキューレ」




うーん、良心を感じる作品ではありますけど、私はあんまり面白くはありませんでした。ソツなくはまとまっていましたが小粒な印象で、全体に悪い意味で薄味でした。監督はブライアン・シンガー。

第二次大戦のさ中、敗戦が色濃くなってきたドイツ。反ヒトラー派の軍人たちは、ヒトラーの暗殺を計画していました。その中の一人、戦場で片手を失い隻眼になったシュタウヘンベルグ大佐(トム・クルーズ)は、自宅で「ワルキューレの騎行」を聞いていた時、国内でクーデターが起こった時、予備軍によって鎮圧する「ワルキューレ作戦」を使って、ヒトラー暗殺後の国を制圧する計画を立てます。

ソツなくまとまってはいますが、この手の歴史的事実を描いた作品は、結果がわかっているハンデがあります。それでも尚、手に汗握る緊迫感を表さなければいけないと思うのですが、その辺も平坦でした。テレンス・スタンプ、トム・ウィルキンソン、ビル・ナイなど、味のある渋いキャスティングの割には、それも生かせていません。主役のトムの役以下、主要人物の造形が、全て厚みに欠けています。

芯から国を思う憂国の士、風見鶏的に自分の出世だけを考える人、いざとなったら腰が引ける人、などなど、それなりに心情は伝わってはきます。が、何故彼らが反ヒトラーとなり、レジスタンスを結成するに至った動機、また同士を作る過程でも、何故協力したかという点は完全にスルーです。歴史的背景を充分把握しておらず、ヒトラー=悪者的な観念しかないので、この辺が不満です。なので彼らの熱い心も上滑りしてしまい、感動するには及びません。

それはヒトラーについて行く人々にも言える事で、この時期敗戦濃厚なのは、上層部の軍人たちにはわかっていたはず。それでもヒトラーを信じていたのは何故だったか?その辺を描いてくれたら、作品にぐっと深みが増したと思います。せっかくナチスが舞台の戦争もので、ドイツ国内のレジスタンスが背景と言う珍しいプロットなのに、勿体なく思います。

暗殺計画を遂行するにあたっての描写は、それなりにスリリング。しかし実話を元にしているならば、二重スパイなどいなかったのでしょうか?いつ誰が寝返るのか、それは敵からか、味方からか?最後まで勝手に手に汗握っていましたが、それもなし。あれだけくせもんのメンツを揃えて、それはないでしょう。実際にはいなくても、そう言う描写も欲しかったなぁ。せっかくのトム・クルーズ主演のハリウッド娯楽大作なんですから、この辺は脚本に捻りが欲しかったです。私にとってシンガーは、未だに「ユージュアル・サスペクツ」の人なんで、やっぱりカイザー・ソゼを求めちゃうのですよね。せっかく脚本も同じクリストファー・マッカリーなのになぁ。

トムの役は最初はこの作品でも重要な役を担っている、トーマス・クレッチマンが演じる予定だったとか。ハリウッドが描くのではなく、ドイツの監督でドイツ人俳優が演じて、ドイツ語で描けば、同じプロットでも、また違った味わいが出た作品に仕上がったと思います。


2009年03月12日(木) 「ダウト 〜あるカトリック学校で〜」




いや〜、すごかった。見応え充分。正直前半はつまらなくはないけど、俳優の演技を楽しむのが主体の作品かと思いきや、オスカー助演女優賞候補に挙がったヴィオラ・デイビスが出てきてから、俄然展開に深みと面白さが倍増しました。ヴィオラが候補になるのも、むべなるかな。主要キャストが全てオスカー候補になった作品でもあります。原作・脚本・監督ははジョン・パトリック・シャンリーで、トニー賞&ピュリッツァー賞W受賞の舞台劇です。

1964年のアメリカ。前年にケネディが暗殺され、時代に変革の波が押し寄せていた頃。ニューヨークはブロンクスにあるカトリック学校でも、厳格で保守的なアロイシアス校長(メリル・ストリープ)に対し、進歩的で開放的な校風を目指すフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)とは軋轢がありました。若い教師シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)は、校内でただ一人の黒人生徒ドナルドをフリン神父が呼び出したのに疑問を抱き、校長に相談しに行きます。フリン神父の性癖に疑惑を抱く校長。詰問する校長に対しての、フリン神父の弁明に安堵するジェイソンでしたが、校長はますます疑惑を深めていきます。

前半は主な登場人物の性格描写に時間をさいていて、これが後半にぐんと生きてきます。校長はとにかく厳格で高圧的。有無を言わさぬ指導で生徒を束ねています。しかし老いた目の見えなくなったシスターを、その事が理事長にわかると学校を追い出されるので、ジェイムスに介護を頼むなど、一概に怖いだけの人ではないと描写してあります。

フリン神父は進歩的なだけではなく包容力があり、現代的な解放感に満ちています。気軽に生徒の恋愛話の相談に乗ってやる様子などからも、子供達からの信望も厚いとわかります。校長との違いは、食事の風景に端的に表れていて、印象に残ります。

ジェイムズは希望と熱意に満ちて教職についていますが、生徒からは、ややなめられているきらいがあります。とても優しく、純粋で人を疑う事を嫌います。

カトリックの世界もやはり縦社会で、校長と言えど神父の下に置かれているのが、要所要所の描写でわかります。力の無いジェイムズにはあんなに優しい神父が、校長に対しては高圧的な態度を取るのは、思想の相違以上に、彼女を抑え込む必要があるよう感じているように見えます。逆もまたしかりで、どんどん神父への疑惑を深めていく校長は、やや狂信的にも感じますが、疑惑以上に神父は彼女にとって、撃つ必要のある人なのだと感じます。
この辺二人とも、自分の思想に矛盾しているのは、気づいていない気がします。

厳格な指導の元なれど、ローティーンの子供達の楽しげな学園生活の描写が良い風通しになっており、心理描写の演技合戦も軽いジャブの応酬のように感じた前半から一転、ドナルドの母(ヴィオラ・デイビス)登場から、お話はぐっと佳境に。ここからは「疑惑」という言葉だけではなく、「寛容・不寛容」、優しさは弱さか?例え罪でも、生きる支えとなれば良いのか?などなど難しい問題が、各々登場人物の心に、矢のように降り注ぎます。

校長の正義は、ドナルドの母の強さの前には、とても卑小なものに感じます。息子の性質を知り、父親である夫も頼れない母。世界中の皆が敵であっても、我が子を守りたい彼女にとって、事実がどうあれフリン神父は神様のような人なのでしょう。彼女の言葉はとても現実的で、真実の解明など、どうでもよいのです。

校長にはその優しさと純粋さを、目の前の出来事から逃げているだけの弱さだと詰られるジェイムズ。反対にフリン神父は、彼女の良き特性であり、ずっと失わないで欲しいと言います。揺れる彼女。二人ともジェイムズに自分自身を観ているのではないでしょうか?校長はかつてジェイムズの様であった頃、その優しさを何度も裏切られたりしたのでしょう。フリン神父は、優しさ=寛容だと認識することで、自分の性癖に目をつむっていたのでは?その性癖以外、彼には欠点は見当たりません。同じ神の使いとして、ジェイムズのような人の存在は、彼には「いいわけ」として大きいのでしょう。

息詰まるような校長とフリン神父の対決場面の後、校長の告白と涙が胸に迫ります。決して懺悔ではなく。そして、限りなくクロを感じさせる事の真相は、結局グレーのままです。事実やうやむやで終わります。神に対し大罪を犯しても守りたかった正義は、歪曲して守られましたが、司祭や理事長の方針は、フリン神父へは「寛容」でした。フリン神父の爪と同じです。長く伸ばしていても、清潔ならば良いのでしょう。これはフリン神父の性癖自体、カトリックでは見て見ぬふりの事柄なのかと感じさせます。それだけ数が多いからかも知れません。


校長の正義事態、彼女の私怨が混じっているように感じ、素直に受け入れ難いものがあるものの、長年シスター=女性であることで、虐げられていた背景に思いを馳せると、納得もできます。そしてあの涙。鉄の意志を持つように見える彼女こそ、か弱い心の持ち主なのでしょう。自分のしたことに対して、神を恐れ、本当にドナルドのためになったのか?自己満足の正義ではなかったか?何より欺瞞に満ちた自分を許せなかった。私は涙の意味をそう取りました。

ストリープとホフマンの対決場面は、確かに素晴らしいですが、二人の演技力を持っては、このレベルは軽くクリアかとも思いました。私は一瞬にして場をさらったデイビスと、どんな役柄を演じても、常に「可憐さ」を漂わせるアダムスの方が印象に残りました。


時代背景を考えると、当時の混沌としたアメリカの縮図が、四人の登場人物に凝縮されて、映し出されているのかも知れません。しかし今の時代でも充分に通用する心理描写です。さしずめ揺れ動く心を体現していたシスター・ジェイムズが、一番一般大衆に近いのでしょう。私は真実の追求よりも現実を優先し、何が一番大切で必要か、揺るぎない強さと意思を持つ、ドナルドの母に一番共感しました。




2009年03月09日(月) 「ジェネラル・ルージュの凱旋」




前作「チーム・バチスタの栄光」の続編。と言っても田口・白鳥コンビは健在ながら、全く別のお話です。前作も平凡な出来ながら、窓際心療内科医師・田口役の竹内結子の、とぼけた味わいがとても気に入ったので、早速初日に観てきました。それにまぁさぁ、医療業界の末端の末端の受付業務(それもずっとパート・・・)をしているわけですよ、ワタクシ。だからやっぱし、観なくっちゃね。この作品の舞台の大学病院なんか、医事課は死ぬほど大変だろうなぁ、レセなんかきっと徹夜だよ、と関係ないことが頭をよぎったのはさておき、俳優陣の頑張りで、踏みこみの甘い部分も多かったですが、まずまず楽しめました。厚生労働省お役人の阿部ちゃんの役は、原作通りなら、現役医師で原作者の、海堂尊の皮肉が込められていると思います。監督は前作と同じ中村義洋。

バチスタ手術問題解決の功績が認められ(?)、心療内科医師の田口(竹内結子)は、院内の諸問題を扱う倫理委員会の委員長に任命され、気が重い日々。そんな彼女の元に、「救命救急センター長の速水医師(堺雅人)は、医療器具メーカーと癒着している。看護師長の花房(羽田美智子)も共犯だ」との怪文書が舞い込みます。その頃、間の悪い事に、当の医療機器メーカーの担当者(正名僕蔵)が、院内で自殺します。田口が怪文書を院長(國村隼)に見せたところ、解明して欲しいと頼まれます。仕事は出来るが、院内に敵も多い速水。難しい仕事だと田口が戸惑っているところへ、いっしょにバチスタ事件を解決した、厚生労働省役人の白鳥(阿部寛)が、患者として運び込まれてきます。そして彼にもまた、同じ怪文書が舞い込んでいたのでした。

冒頭荷が重過ぎる委員長役にトホホとなりながら、ますます窓際感際立つボ〜とした竹内結子のユーモラスな姿に、これは彼女の当たり役だなぁと再確認。磨きがかかった天然ぶりが、重くなりがちな内容を救い、作品を支えます。

内容は昨今マスコミを賑わしている、患者のたらい回しと表現される、救命救急の受け入れ態勢を主軸に据えています。最近は医療崩壊が盛んニュース番組の議題に上る事が多いですが、ドクターヘリに多額の費用がいることでなかなか導入が進まないこと、不眠不休の医師や看護師の献身的な姿で、何とか医療崩壊がとどまっていること、慢性的に病院が赤字なことなどが、描かかれています。手一杯なのに、酔い潰れて大学病院に運ばれてきたり、骨折くらいでやってくる白鳥など、患者側の「ブランド志向」にも、反省を促しています。

でもそれがわかるのは、私が末端とは言え、業界の人間だからかも知れません。医療崩壊の抜本的な問題は、国の医療費にかける額が少ないことと、慢性的に人手不足なこと。それと所謂コンビニ受診。大した病気やケガでなくても、お気楽に夜中に病院にかかってしまうことです。国は今、かかりつけ医制度というのを、推奨しています。何でもかんでも大病院にかかるではなく、まずは何でも相談できる町の開業医で診察してもらい、必要ならば検査や手術・入院先を紹介して、小康になったらまた元の開業医の所に戻るという方法です。これは病院の規模で格差をつけているのではなく、役割分担で、急性期の病院の負担を減らそうという試みだと思います。せっかく現役医師が原作者で、ヒットの期待できる作品なので、この辺もっとアピールしても良かったかも。

そしてラストの方でちょっと出てくるのですが、医療者側と患者側の溝です。断腸の思いで、もう助かる見込みのない患者を切り捨てる医師の気持ちはわかりますが、切り捨てられた方は、抱きしめてもらったところで、癒されることはありません。どうも医師側の苦労ばかりが強調されて、二方が歩み寄る場面がありません。原作者が医師なので、視点が医師寄りなのは、しょうがないのかしら?

他にも救命救急のスタッフの慢性的な疲労感、己を支えている使命感なんかも、あんまり伝わってきません。唐突な犯人の出現はびっくりだし、伏線もほとんどなしなので、推理物としてのカタルシスが全くないです。えっ、この人あんなことして、お咎めなしなの?と疑問の人がいたり、冷徹な営繕屋っぽい事務長(尾美としのり)が我が身を振り返る理由も、あれではお安いなぁ。

しかーし!それらをカバーするのが、「笑顔で喜怒哀楽を表現する男」堺雅人の好演です。一見傲慢で、己の自己顕示欲のために周りを振り回しているような速水を、それだけではない含みも感じさせて演じ、タイトルの「ジェネラル・ルージュ」役に恥じない名演技です。諮問委員会での演技は、医師の医療への熱い正義を、余すところなく演じていたと思います。最初冷たい印象だった花房看護師長を、段々頬に赤みの差す、柔らかい女性へと演技を変えていった羽田美智子も好印象でした。主軸のこの二人の「ゲスト」がとても良かったのが、鑑賞後の印象をアップしました。

ラストにドクターヘリに乗って来た人は、原作者の大いなる皮肉かと。気骨あるお医者さんたちは、とうに国を見限っているんですかねぇ。全体にコクとキレは不足しています。でも発泡酒に例えるなら、まずまずの味かと。プレミアムビールはおいしいけど、値段が高くて買いにくいですよね。その点廉価版の、それも売れている発泡酒は、更に量販店でも値下げされるので買い易いし、そこそこ満足するでしょう?そんな感じの作品です。


2009年03月01日(日) 「少年メリケンサック」

やっと観ました。面白くてびっくり!だってもっと微妙な感想かと思ってたんだもん。「オトナコドモな男」の悪ふざけ満載の演出ですが、私は「本当に男ってバカだわ・・・」と、愛でながら観てしまいました。でもバカだけじゃないぜ!監督脚本のクドカンは、諸先輩方に彼なりの敬意を表して演出していて、私はグッときました。中身もちゃんとありますよ。

メイプルレコードの契約社員のカンナ(宮崎あおい)は、二年間働いても結果を出せずクビ寸前。最後にと社長(ユースケ・サンタマリア)に提案したのが、ネットで大評判のパンクバンド「少年メリケンサック」。気に入った社長から契約して来いと言われたカンナは、張り切ってベースのアキオの所在を見つけ出したのですが、そこにいたのは50歳のおっさんになった、アル中気味で身を持ち崩したアキオ(佐藤浩市)。何とネットでアップされた動画は、25年前のものだったのです。どうするカンナ?

パンクロックが注目を浴び始めたのは、確か私が中高校生の頃で、セックスピストルズやラモーンズ、トーキングヘッズなど、私も耳にはしていました。その頃は「普通のヘヴィメタ」やハードロックを中心に聞いていたもんで、アナーキーな若者の社会への怒りを、大人は眉を顰める風体(←ここ重要だ)で表現するロック、てな感じで受け止めていました。だからパンクの精神なんて、カンナ同様あんまりわかっちゃいないのです。クドカンは私より更に年下の1970年生まれ。だから体感していたわけじゃない。でも彼なりに勉強して下地を作り、日本の音楽シーンを懐古しながら、きちんと作ってあります。

アキオが引き抜かれたアイドルポップグループにモデルがあるの、わかりました?あれは「ドラゴン・ボール」の主題歌(ちゃ〜ら、へっちゃら〜♪の方)を歌う、今やアニソンの大御所・影山ヒロノブがいたバンド、「レイジー」がモデルです。扮装であれ?と気づき、洋もののニックネームがつき(影山氏はミッシェル。アニソン好きの二男と彼の話をする時は、我が家は今でも『ミッシェル』だい)、極めつけはヒット曲。「赤頭巾ちゃん、なんとかかんとか」みたいなタイトルでしたが、レイジーの代表的なヒット曲は「赤頭巾ちゃんご用心」でした。でも彼らには消してしまいたい曲だったというのは、解散後知りました。簡単にレイジーを紹介しますとですね・・・

レイジーのメンバーもスカウトされた時はヘヴィメタでデビュー出来ると思いこんでの上京だったのに、蓋を開ければ恥ずかしいアイドル路線。アキオと同じように、ヘヴィメタルをやりたくて発展的に解散。その後ギタリストの高崎晃とドラムの樋口宗孝(故人)は、多分日本人のヘヴィメタでは世界で一番成功した、「ラウドネス」を結成。キーボードの井上氏は現在音楽プロデューサーで、音楽関連の会社ランティスの社長です。だからユースケの役は、彼がモデルかも。ちょっと渋谷陽一も匂ったけどね。

アキオ・ハルオ(木村祐一)兄弟の父役に犬塚弘を配してるのも、ちゃんと彼が、クレイジー・キャッツでベーシストだったと知っているからだと思います。寝たきりの役だったけど、あの中指立てての強烈なシーンは、年齢からすると(80歳前後)とってもブラックだけど、クドカン流のリスペクトじゃないかなぁ。その後のアキオを引き出したのは、父ちゃんの姿だったと思います。

兄弟の確執も、私には納得出来る作りでした。兄を尊敬していた弟の方が先に人気が出て、嫉妬する兄。上下関係がきちんとしていた兄弟だったのに、音楽業界の魔物に取りつかれ、大事なものを見失います。そして人として絶対してはいけないことを、弟にしてしまった兄。でも兄に愛憎混濁の思いを抱きながら、まっとうに生活する弟と、朽ち果ててしまった兄の対象的な姿を描く事で、兄の深い悔恨を表現していたと思います。

他にも胡散臭くも存在感大のピエール瀧(チャーミング!)扮する音楽プロデューサーの、バンドの人気作りの裏側のノウハウなど、これは実際にもあるんだと思いました。その他の出演者も、田口トモロヲ、ユースケ・サンタマリアも、今では俳優の印象が強いですが、元はバンド出身者だというのをわかっての起用だと思います。

しかし!それをですね、いいセリフだなぁ、いいシーンだなぁと思うと、確信犯的に外して、絶対感動させないわけです。この間の取り方が、私にはクドカンの「照れ」に感じられて微笑ましかったです。わかる人だけわかればいいという、上から目線じゃなくて、気付かれたこっ恥ずかしいので、スルーして下さいみたいな。あぁ可愛いわ。なので汚物や下ネタまみれの連続シーン、田口トモロヲの涙(必見!)、失意のカンナをの傷口を更に拡大するような囃し立て方をするおっさん達のバカバカしい様子に大笑いしつつも、本当は大人に成りきれないのではなく、大人になってしまったのを自覚している中年男たちの、寂しさや哀愁も、同時に感じてしまいました。

宮崎あおいが絶品。今年早々の作品ですが、是非今年の主演女優賞に覚えておきたいです。オーバーアクトも全然暑苦しくなく、絶妙のコメディエンヌぶりです。ガーリーなファッションもとっても可愛いんですよ。辛いことしんどいこと、悩むこと、みっともないことから逃げまくっている、可愛いけど幼稚な彼女。今時の若い子だと感じさせます。仕事だけではなく彼氏との事も。しかし全然立派ではないおっさん達の世話をして「育てて」行く事で触発されるのです。彼女自身も逃げていた事柄に、否応なしに立ち向かわされ責任を負わされ、世の中の厳しさも責任と言う言葉の意味も知ります。一皮も二皮もむけて成長していくカンナの姿は、ダメ親父を矯正していく娘のようです。

私が好きだったセリフは、アキオの「若い時は大人にみっともねぇって言われて、今はガキどもにみっともねぇって言われてんだから、ずっとみっともなくていいじゃねぇか」というセリフ。社長に喰ってかかるシーンや、カンナの彼を評しての核心をついたセリフなど、やはり50男ならではの鋭い含蓄があります。しかし洞察力があっても、それが自分の人生に反映されているとは言い難いわけ。この辺は自分にも思い当たるので、ぐっときました。哀しいかな、そうなのよ。わかっちゃいるけど、ダメなんだなぁ。そしてずっとみっともなくていいと言い切れるのが、男の強さだと思う。こう言う時私は「腐っても男は男」だなぁと感じます。

ドラムのヤング(三宅弘城)が、「頑張ってやろうよ!今しかないんだから。来年は死んでるかもしれないだよ!」というセリフは、レイジーのメンバーが、50前後で既に二人亡くなっているのを知っているので、しんみりしました。が、そこで田口トモロヲのセックス・ピストルズ再結成の件で脱力&爆笑。一瞬えっ、シド・ビシャス死んでるじゃんと思いましたが、オリジナルメンバーでってことなんだって。「結局金だね」という結論で、また爆笑。そうそう、中年てお金要るんですよ。中年と若者の間に位置する年齢のクドカン、両方に理解を示して、彼なりの「悪ふざけ」でエールを送っている作品でした。


ケイケイ |MAILHomePage