ケイケイの映画日記
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2008年05月29日(木) |
「Mr.ブルックス 完璧なる殺人鬼」 |
こういうタイトルが目に入ると、絶対観なくちゃと、ムラムラしてしまう己が哀しい(胡散臭そうなサスペンスが大好き)。落ち目のケビン・コスナー主演、共演はこれまた落ち目になって久しいデミ・ムーアという、哀愁漂うキャスティングもグッド。配給体制から考えたら、私の苦手なテンロクの某劇場で上映のはずなんですが、梅田ブルグというシネコンで上映ということで、速効レディースデーの昨日観てきました。
この梅田ブルグ、実は大阪市内で唯一私が足を運んだことのない劇場でね。メジャー作品が上映のほとんどなので、別に来る理由がなかったんです。でも時々ここしか上映のしない作品もあるんですが、稀代の方向音痴のわたくし、知らん劇場まで行くのが、億劫だったんですね。今回行きは「なんか違う・・・」と思いつつ、久し振りに「歩く歩道」なんか歩いちゃってさ、辿りつくのに15分かかりました。帰りは駅まで5分でしたが。そんな私のブルグデビュー作は、上々の手応えでした。
アール・ブルックス(ケヴィン・コスナー)は実業家として成功し、美しい妻エマ(マージ・ヘルゲンバーガー)や、一人娘のジェーン(ダニエル・バナベイカー)も得て、平和で幸せな家庭も築いていました。しかし彼には連続殺人鬼という影の顔があったのです。いつもは完璧に証拠を残さない彼ですが、二年ぶりの殺人の今回、カーテンが開けられていたのを見逃していました。危惧した通り、ブルックスが犯人だという証拠の写真を持った、スミス(ディーン・クック)という青年が、ブルックスの前に現れます。そしてブルックスの一連に事件を精力的に捜査する女性刑事トレーシー(デミ・ムーア)も、ひたひたとブルックスに近づいていました。
追い詰められるブルックス、というだけではなく、たくさんのプロットが詰め込まれています。出来の悪い娘に手こずるホームドラマ的な部分には、血の呪わしさという部分を前面に出して、少し風変りな味付けが面白い。仕事では辣腕ながら、私生活はまるでついていないトレーシーの日常を、上手く筋に絡ませて、デミの見せ場もふんだんに取り入れています。少々強引な切りまわし方の箇所もありますが、ほぼきれいに整理され、観ながら迷う事はありません。
殺人に手を染めることの強烈な罪悪感、それに反する悪魔的な背徳の喜び、この二つの葛藤をシニカルにブラックに見せるのが、ウィリアム・ハート扮するマーシャルの存在です。影のようにブルックスに添うマーシャルが何者なのかは、段々とわかってくる仕掛けです。ブルックスにとってマーシャルは、逃避場所のような存在なのです。
この二人のオジサンのツーショット場面が実に楽しいです。花の盛は過ぎたものの、多少なりとも清々しかった若い頃とは程遠い今の油濃さは、まだまだハリウッドで主演を張れる元気の素かもなぁと、感じました。しかし無駄にギラついているだけではありません。コスナーは凡庸で人柄の良い表の顔と、完璧な殺人を繰り返す冷血なクレバーさを持つ裏の顔とを、実に巧みに使い分け、好演です。特に獲物を射止める時のような目で引き金を引く時は、ゾクッとするほど魅力的。殺人鬼はセクシーで魅惑的でなきゃね。
私的に久々に観るデミもとっても良かったです。仕事は出来るけど仲間からは浮いていて、その上ダメンズの年下夫からは、法外な理由で法外な慰謝料を取られそうになるなど、踏んだり蹴ったりの役ですが、強気一辺倒の可愛げのなさには、同性として共感出来るのです。妥協すること、甘える事に不器用な人なのだと思っていたら、その理由はラストで語られます。なるほどと、更に好感度アップ。自分に自信がないのに、誰にも弱みを見せられず、敬い褒めてくれそうな年下夫と再婚したのですね。それで更に墓穴をほっちゃったんだ。仕事場でのカッコ良さと対照的な、私生活のダメさ加減が人間臭く、近年では出色の女刑事ではなかったかと思います。
一つだけ気になったのは、やはり罪もない人を殺して、魅力的に見えちゃくことです。まぁレクター博士もそうなんですが、こちらはサイコ的味付けがあちらより薄い分、気になりました。しかしラストの見せ方は、ブルックスが選択したことは、捕まるよりも殺されるよりも、もっと苦しく恐ろしい毎日が持ち受けているのだと、ちゃんと罰を与えており、この辺もクリアでした。
落ち目と言えど一世を風靡した人は、やはりものが違うなと、つくづく感じました。場面場面のカメラの切り替わり方も上手く、ちょっと変わったサスペンス物として、面白く観られる作品です。すぐ終わっちゃったら、どうぞDVDでご鑑賞下さい。
2008年05月27日(火) |
「アフタースクール」 |
木曜日に観るつもりでしたが、前倒しで観てきました。だって先に観た映画友達の皆さん、いつもの感想よりすんげぇ短いの。そんでもって内容には、ほとんど触れてないし。は〜ん、あの「運命じゃない人」を作った内田けんじ監督の作品だもの、きっと綿密な仕掛けがしてあるんだなぁと判断しました。この手の作品はどうしても内容が耳に入ってくるので、早く見るに限るのです。 いや〜、しっかり騙されました。でも騙されて爽快な気分です。
中学教師の神野(大泉洋)と一流企業に勤める木村(堺雅人)は、中学からの親友です。ある日木村が失踪してしまい、神野は彼を追う同級生だと名乗る探偵(佐々木蔵之介)と、行動を共にするはめになります。
すみません、何も書けません。 書くと本当に台無しになっちゃうの。お友達の皆さんのレビューが短いの、あれは良心の塊だったわけね。
映画を観てお友達の皆さんと語り合う時、いつも感じるのは、人は自分が観たいように観てしまうもんだ、ということです。もちろん作り手にはこう観て欲しいと、意図があって作っているはずなんですが、それから外れたり越えたりすることもしばしば、という経験は、どなたも心当たりがあるはずです。監督はそれを逆手に取ったんですねぇ。
キャスティングがすごく良かったです。「運命じゃない人」は、辛うじて山下規介と板谷由夏くらいしか名の知れた人はいませんでしたが、今回は今売れっ子の上記三人と、常盤貴子、田畑智子に、山本圭、北見敏之、伊武雅刀など、錚々たるメンバーです。前作ヒットの恩恵で使えた、名の売れた役者さんたちのイメージを、上手く作品に生かしています。いつものこの人の役だわと思う人あり、いつものこの人なんだけど、最後はこうなるはずなんだけど、あれ???の人あり、この辺も観客の視点を騙くらかすのに有効でした。田畑智子はチャーミングだとは思っていましたが、美人だとは思ったことはないです。でも今回は綺麗だったんだよなぁー。
「運命じゃない人」と異なるのは、後半以降の盛り上がり方です。同じ様に細部に練られた、ドンデン返しの種明かしがあるものの、にやにやしながら、ほほ〜と納得した前作以上の思いを、私には与えてくれました。どんな思いかは、観てのお楽しみに。
中学の同級生という設定は、とってもいいです。昔長男の中学の同級生で、札付きの不良の子がいたのですね。一度もその子と話した事はないのですが、その子は私が息子の母であるというのを認識していて、道で出会うと、口にしていた煙草をほうり投げ、引っ張っていたバイク(おいおい)を観られると、下を向いて逆方向に走っていきました。悪さをしているところを、同級生の母親に観られて、バツが悪かったのでしょう。中学生とは、まだまだそういう純情で純粋な時期です。これが小学校や高校の同級生と言う設定なら、微妙に間柄に変化があったと思います。
その子は無免許運転の車の事故で、17歳の時亡くなりました。このことも思い出させる内容でした。ほーら、内容わかんないでしょう?
実はね、今三男の高校に入って初めての定期テスト中なんです。なので映画は控えていましたが、これが全然勉強せんのだね。机に向かう気もなくて、今日は今日とて、試験中なのに友達と遊びに。ガミガミ言ったところでもう高校生ですからね。勉強してくれれば、母として嬉しいし、勉強しなきゃ、出来の悪い息子を持つと母親も気が楽だと、映画が観られるしね。どっちに転んでも私は幸せなのよー。なので劇中出てくる「お前の人生がつまらないのは、お前のせいだ」というのは、私も大きく頷きました。
2008年05月22日(木) |
「ハンティング・パーティ」 |
火曜日に観てきました。実は見損ねている「つぐない」を観るはずだったんですが、時間がずれこみ1時50分は無理っぽい。しかし火曜日はテアトル梅田の会員はポイント倍押しの日。ワタクシ只今8ポイントで、それを足すと10ポイントになり、次回はタダ。なので火曜日は、絶対テアトル梅田に行かなければならなかったのです。 そんな訳で、ボーダーだったこの作品を、2時30分から観てきました。これが結構面白かったのだな。
サイモン(リチャード・ギア)とダック(テレンス・ハワード)は、戦場ジャーナリストとして、賞も取るなど活躍していました。しかしボスニア紛争の生中継中、怒りにかまけたサイモンのレポートは大失敗。それ以降コンビは解散し、今はサイモンは行方知れず、ダックは現場を離れNYで安定した仕事を任されています。数年後、ボスニアで仕事をしていたダックに、特ダネを持ってサイモンが現れます。この特ダネに再起を賭けるサイモンの熱意にほだされ、同行するダック。新米プロデューサーのベン(ジェシー・アイゼンバーグ)も加わり、三人の道中が始まります。
三人の道中は軽快でコミカル、そして軽薄。道中は道中でも珍道中の類です。うっそー、マジですか?そんなアホな、な展開が続出。普通の飲食店の店主に銃で威嚇されるわ、CIAに間違われるわ、危機一髪の時には天の助けがあるわで、脚本は面白いけどご都合主義がありまくりです。と言いたいとこなんですが、あな恐ろしや、これ実話なんですって。
最初に「まさかと思う部分が真実です」とテロップが流れるので、最初から実話とわかって観るのですが、いやーほんとにね、事実は小説より奇なりです。ジャーナリストが特ダネを目指して突っ走る実話が、何故軽薄かというと、正義のため社会のためというより、私利私欲でお三人さんとも突っ走るからです。
サイモンはお金と、あることの(隠すほどのもんでもないが)復讐のため。ダックは命がけの現場のスリルが忘れ難く舞い戻り、ベンは自分を小馬鹿にする局副社長の父親を見返すためと、全然正義など関係ないのですね。
冒頭ダックが銃弾が飛び交う戦場の仕事で、エクスタシーを感じていたという独白があり(もっと直接的に訳してましたが、淑女が○○なんて書けませんわよ。戸田なっちゃんは訳されてましたが)、彼の本心は死と隣り合わせの戦場が懐かしいとわかります。うわ〜〜、出た〜〜、と思う私。常々私の10才年上の親友が言うのですが、「男はみんな何かクセがあるねん」。
クセとはひとクセと言う意味です。それがあれば、何もかも捨ててもいいほど、熱中したりいれ込んだりするものが、男ならみんな必ず一つはあるという意味です。「王妃の紋章」や「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」など、女っけまるでなしで、ストイックに自分の欲望を追求する強烈な男たちと、根っこの部分ではダックも同じなのでしょうね。いやいつでも降りられるのに、降りないサイモンやベンも同じなんでしょう。
こういうのを続け様に見せられると、「私と○○(←好きなの入れて)と、どっちが大事なのよ!」と金切り声を上げたところで、とっても不毛なことだわね、と感じます。こういうの、男に備わった本能なんですかね。赤ちゃんがおっぱい見たら、必ず吸いつくみたいな(比喩が違うか?)。
しかし、しかしですね、もう辞めといたらいいのにと思うのに、そのひとクセが瓢箪から駒、ジャーナリストの正義感を燃えたぎらせるきっかけとなるのですから、面白い。男っちゅーのはある程度自由に泳がせんと、ええ仕事できないんですね。これを観ると、「私と○○と!(以下省略)」は、もう言わないでおこと思います。だって結婚したり付き合ったりするっていうのは、そのひとクセにかかる時間を捨ててもいいほど、「私」が大事だからですよね?比べられるもんじゃありませんて。
そんな軽妙な部分だけではなく、ちゃんとマスコミは上っ面しか報道しないこと、大事なことは裏側にあると、ダックに語らせています。そして大物政治犯を通じて、世の中悪の流通が、わんさかはびこっているのだと、改めて知らせてもくれます。追う者と追われる者は、実は裏で繋がっているのですって。う〜ん、だからあの人も、まだ捕まらないのね、と言う風にきちんと描いていて、社会派作品としても手堅く、決して面白おかしくだけではありません。
キャスティングがとっても良かったです。女がしくじりの始まりで、その女絡みで復活するなんて、ギア様しか出来ない役です。来年還暦で異性関係で哀愁を漂わせる役柄で違和感ないなんて、ギア様しかいませんて。ハワードは三人の中では、一番普通の良識ある役柄です。そんな彼から私の感想が生まれたのは、ひとえに彼の好演あってのものです。アイゼンバーグは、二枚目の線は多分無理っぽいので、こういうコミカルな脇役で結果を出せば、投角を表わすかも?
エンディングで、どこが真実かどこが脚色か教えてくれるので、お見逃しなく。一層うっそー、ありえへん!と思う事間違いなしです。すぐ終わっちゃいそうなので、お時間があれば観て下さい。
2008年05月16日(金) |
「最高の人生の見つけ方」 |
ヘビーな作品が続いているので、かったるいかなぁと思いつつ観てきました。しかしジャンルが全く異なるため、別腹で楽しめました。ニコルソンとフリーマンの共演、監督がロブ・ライナーと言う事観ましたが、同じようなテーマは多いし、観る前は「良いだろうけど、普通の作品」の域は出ていないだろうと思っていましたが、鑑賞後は大幅にポイントを上乗せしたくなった作品です。
大富豪のエドワード(ジャック・ニコルソン)は一代で巨額の富を築くも、四回の結婚は全て離婚という、孤独な身の上。カーター(モーガン・フリーマン)は大学一年の頃にできちゃった結婚し、大学は退学。以来三人の子供のため、自動車修理工として、油まみれの45年間を送ってきた甲斐あり、妻や子供たち、孫に囲まれた暖かい家庭を築いています。二人は病院で同室となります。水と油の二人には共通点がありました。余命半年なのです。かつてカーターが大学生時代、恩師から教わったのが「棺おけリスト」なるもの。死ぬまでにしたいことを書きだすのです。面白がったエドワードは、それを実行すべく、二人で病院を抜け出し、世界中を旅しにに出ます。
予告編を観た人が感じる通りの作品です。想像通り予定調和でお話が進みますが、少し視点をずらして彩られた小技が利いて、味付けに新鮮さがあります。
確かに大富豪でも孤独なエドワードは、カーターにより友情のなんたるかを知り、お金儲けより充実した世界を知ります。しかしエドワードにその思いを抱かせたのは、お金の力もあるという描き方です。
私がこの作品を観ようと思ったのは、予告編でフリーマンが叫ぶ「45年間も油まみれで家族のために頑張ったんだ!好きにさせてくれ!」を観たから。この感覚は中年以降の主婦の専売特許だと思っていたのですが、考えてみれば、世のお父さん方の大半は、肯く言葉なのです。うちの夫もそうでしょう。私は自分だけが頑張っていたかのように、そのことを忘れていました。
もうすぐ亡くなる45年も連れ添った夫が、自分ではなく、つい昨日まで見ず知らずだった人といっしょに過ごすことを選ぶなど、妻としては大変心寂しいことです。妻のバージニアの気持ちがとってもよくわかる。でも私がカーターと同じ境遇なら?と考えた時、ものすごくカーターの気持ちもわかるのです。子供を育てるのに必死になり、ぎりぎりのお金でやりくりし、休日に休みたくても子供のためにと、試合の応援や遊びに連れていったり、あくせく動いていたはずのカーター。
貧しくとも暖かい家庭を手に入れて、妻は優しく子供たちは良い子に育ったのだから、これが幸せなんだと、思い込もうとしてたはずのカーター。本当の自分の人生は、他にあったんじゃないか?と考えたとして、当然だと思うのです。
しかしそんなカーターの気持ちを翻らせたのは、エドワードの孤独な身の上ではなく、彼の財力でした。アフリカで本物のライオンに囲まれて「ライオンは寝ている」をのんびり歌ったり、本物のレーサーのように車を走らせたり、スカイダイビングしたり、ピラミッドを観たりと、カーターの人生の辞書にはお金がかかり過ぎて、なかったことばかり。たっぷり楽しんだカーターは、絶景の景色を観る時、この景色を妻といっしょに観たなら、もっと楽しいのだろうなぁと、きっと感じたのだと思うのです。思い込もうとしたのではなく、自分の人生は本当に価値のある幸せなものだったのだと実感したのが、エドワードに向けての「君は僕を夫に戻してくれた」という、言葉だったのでしょう。
何よりこれは、エドワードの財力を肯定していることだと感じました。こうした設定では、「家庭の愛>お金」で描かれることが多く、私は常々お金が否定されがちなことに、疑問がありました。エドワードは16歳から働いている、と語ります。学歴のことも出ないし、そんな若い時から働きづめなのは、親と早くに別れたのでしょうか?そんなバックに何もない人が、たった一代で「大統領にも会える」人になるのは、いかばかりの苦労があったろうと思うのです。こんな立派な地位まで来た人が、たかが嫁や子供がいないくらいで、それまでの人生が否定されるのは、絶対におかしいって。全く境遇の違う二人の老人の人生を、両方肯定して描いているところに、私はとても好感が持てました。
後半大急ぎで実行される「棺おけリスト」のミッションですが、荘大だった前半と比べ、どれもこれも小ネタばかり。しかしそんな小ネタは、人生の辞書にはなかったはずのエドワードが、次々こなしていきます。彼もまたカーターのお陰で、日常の小さな事柄への、感謝の気持ちが芽生えた様子を映していたと思います。
私がもう一つ気に入っているのは、エドワードと秘書トマス(ジョーン・ヘイズ)の関係です。そうとう偏屈で強情だとわかるエドワードですが、そんな彼にトマスは、ユーモア交じりの憎まれ口叩いたり、皮肉を言ったりするのです。そしてトマスの進言には、何故か素直に従うエドワード。エドワードの周りには、同じく死が間近のカーター以外は、誰もそんな人はいません。トマスが雇われている以上の、エドワードへの暖かい感情を感じさせるのが、とても素敵です。
幾らでも盛り上げる事が出来るはずの、エドワードと別れた娘の再会場面は重要視せず、トマスの存在がいかにエドワードにとって大切であったかを感じさせるラストは、ひとひねりした仕掛けがあって、とても心に染みました。それは人生において、一番大切なのは必ずしも家族だけである必要はない、とも感じさせます。死がテーマなのに、全体にとても明るく温かく、ユーモアに満ちている点も良かったです。色でいうと、オレンジ色かな?
あんな両極端な人が、すぐ仲良くなれるのか?という疑問がありましょうが、親がガンだった、そして自分は子宮筋腫の手術を受けた、この私がお答え致しましょう。「同病相憐れむ」とは、本当の話です。同室の人とはすぐ仲良くなっちゃうし、母が入院している時は、病室の外で看病している者同士、何度泣いたかわかりません。入院・手術・がんというキーワードが出てきたら、もう誰とでもお話出来る私がいるわけ。それほど病気や死とは、人の心を弱らせ強くさせ、そして浄化もしてくれるものなんだというのが、私の感想です。
予定調和で終わったというご意見も大いに理解出来ますが、観て損するような類の作品ではありません。何を観るか迷ったら、どうぞこの作品をご覧下さいませ。
スティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督の作品です。キングの映画化は、多分今回も毎度お馴染み、クリーチャーが襲うお話だろうとは予想がついていました。でも今回監督がダラボンということで、少し毛色が違うだろうと予想を立てていましたが、少しどころか、私は傑作だと思います。驚愕のラストと言われて、そうだった試しは少ないですが、今回は本当にそう。後味最悪ですが、すごく深い意味があると思います。アプローチも鑑賞後の感想も全然異なりますが、「エミリー・ローズ」のように、神の存在を身近に感じる作品です(私はね)。
田舎町に住む画家のデヴィッド(トーマス・ジェーン)は、息子ビリー(ネイサン・ギャンブル)と妻の三人暮らし。大変な嵐の過ぎた翌朝、気にかかる霧を川の向こうに確認します。嵐のため破損した物の修復や食料の買い出しに、デビッドは妻を家に残しビリーを連れてスーパーマーケットへ。同じ目的の客でごった返す中、客の一人が、町人の一人が霧の中の何者かに襲われたと駆け込んできます。たちまち霧に包まれるマーケット周辺。閉じ込めらた客と従業員たちは、不気味で巨大な物体を確認します。
仲の悪いよそ者の隣人ノートンとも、こんな時なのでと手を貸すデヴィッド。この町は片田舎なので、隣近所の人は皆顔見知りなのが、スーパーでの様子でわかります。皆善良そうな人たちです。
それが得体の知れない物に襲われ、命に危険が及ぶと、段々様相が変わっていきます。猜疑心の塊になる人、エゴむき出しの人、自分の主張ばかりする人。人が変わったようになる人達の中、冷静なデヴィッドはサバイバルのリーダー格になって行きます。この辺り丁寧に人物描写が出来ているので、出演者は無名の人が多いですが、キャラ立ちが鮮明で、たくさんのキャストの交通整理が出来ています。
この中で異彩を放つのがマーシャ・ゲイ・ハーデン演じる変わり者の主婦・カーモディです。神と話が出来ると豪語し、預言者めいたことを言いだし、この一大事は、神が神を恐れぬ人々に鉄槌を下しているかのように語りだします。彼女の扇動の様子がとっても怖い。町では嫌われ者だったはずの彼女が、預言が2,3当たったということで、段々シンパが増えていきます。その求心力やもの凄く、たった三日間のことなのに、彼女はあたかも救世主のように振舞い、祭り上げられます。藁をもすがりたい時の群集心理の恐ろしさを、的確に表してるのでしょう。
正しい選択を出来る人なのに、カリスマ性に欠けるデビッドの周りからは、段々人がいなくなっていきます。迷える人々には狂気じみていても、「強い指導者」を欲するのでしょう。この辺は実社会でも起こる事です。スーパーの従業員オリーの語る「ひとつの部屋でふたりいたら、最後は殺し合いになる。だから政治と宗教があるんだ」が、とても印象的。政治のデヴィッド、宗教のカーモディ。宗教が覆い尽くす様が、とっても恐ろしい。
不気味な生物たちがスーパーを襲うシーンは、武器とも言えぬものを上手く使い、閉塞的な空間を上手く使って、見応えあるものにしています。拳銃はたった一つしかないのですが、その使い方もポイントを押さえていて、秀逸でした。登場人物の心理的な演出もリアリティに溢れていて、良かったです。
しかし自分が預言者だと言っていたカーモディですが、実は預言者は別にいました。彼女ではなかったのです。以下ネタバレ。(ネタバレ終了後に文章アリ)
最初の方で危険を省みず家に帰ると言い張った女性こそが、「預言者」だったわけですね。手助けしてくれぬ人々に「地獄に堕ちろ」と、残しています。
私はカーモディが語るように、あの怪物たちは神の使いのような気がしてなりません。脱出しようとデヴィッドの車に乗ったのは、老人の男女と30代の男女、そしてビリーです。これはどう見ても「家族」でしょう。立ち止った車に、とてつもなく大きな怪物が通りかかりますが、素通りします。私には神の使いに、彼らは「必死で協力する家族」に見えたのかと感じました。
デヴィッドは息子ビリーから、「絶対僕を殺させないでね」と約束していたのに、自ら息子を殺してしまいます。息子を守れなかったデヴィッドの横を通り過ぎた預言者の女性は、しっかり二人の子供を抱いていました。デヴィッドがこの女性に家まで送ってくれと言われた時、ビリーに「ママに会いたい」と言われた時、彼は命がけで妻の元に駆けつけるべきだったのだ、と言われているようです。
同じようにマーケットを出て行ったノートンは、猜疑心から別行動をとったので、亡くなったのでしょう。隣人を愛せなかった罰なのかも。
カーモティに一度巨大な昆虫が止まったのに、何もせず離れたのは、あの時彼女は人々を救いたいと心から願っていました。しかしこのことで、自分が選ばれし人間だと勘違いし、傲慢で尊大になってしまったので、死を与えたのだと思います。
ネタバレ終わり
家族を愛せ、隣人を愛せ。小さな自分の世界も愛せずに、どうして他人が愛せましょうや。人の痛みを自分の痛みと置き換えて考えられるなら、無益な争いは起こらないはずです。このことが言いたくて、ダラボンはラストを原作と変更したのかと、感じています。
大昔、まだ三男も生まれていない頃、小さな軽自動車で家族四人丹後半島まで旅行したことがありました。高速道路を走っていると、大きな車が横を通ると、震動でうちの軽はガタガタ揺れるのです。夫は運転にひやひやし通しだったらしいですが、私は家族四人ともいっしょだもの、死んでも安心だと思っていたので、全然平気でした。それから一年後に誕生したのが、三男です。この作品を観て、その時の感情が懐かしく蘇りました。家族はいっしょにね。
2008年05月09日(金) |
「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」 |
昨日やっとこさ観てきました。長尺の190分と言う時間と、テアトル梅田かナナゲイでしか上映がなく、なかなか時間が取れませんでした(観たのはテアトル梅田)。何だか延ばし延ばしにしていた、夏休みの宿題をやり遂げた気分です。これも超長い作品ですが、本当にあっと言う間の190分でした。監督の若松孝ニは、実際に赤軍派メンバーと関わりがあったと聞いていたので、弁解や擁護が過ぎて腹立たしかったり、または反省の色が濃すぎて厳しかったりするのかと、観る前は思っていましたが、どちらもハズレ。痛々しく凄惨な場面は多かったのですが、思っていたより厳しくない作品でした。そして熱くて冷静な作品でした。これが事件から30数年過ぎ、監督自らが支援した連合赤軍への「総括」なのだと感じます。
お話は三部構成のようになっていて、1960年から70年代初頭までの学生運動の歴史と、連合赤軍が出来るまでをまとめているのが第一部。第二部は、有名な山岳ベースでのリンチ殺人事件。そして第三部が、やはり有名なあさま山荘事件を描いています。基本はノンフィクションで、登場人物は全て実名。フィクションが少し入る構成だと、テロップが入ります。ナレーションは原田芳雄。
あさま山荘事件が起こった時は、私は小学校五年生。日本中が固唾を飲んで見守っていた事件であり、何度もテレビのニュースで放送された警察の突入場面と、毛布にくるまれタンカに乗せられて、無事救出された人質の奥さんの映像は、今でも脳裏に浮かびます。それほど強烈な事件でした。リンチ事件は、あさま山荘の事件が解決した後、明るみに出た事件だったと思います。
時間の他にも私が観るのに少々腰が引けていた理由は、リンチ事件の事で、当時一気に世論は赤軍派への批判が高まり(当たり前ですが)、子供心にネガティブな刷り込みが激しく、ちゃんと史実として映画として、本当の事が理解出来るのだろうか?という心配がありました。どうしてそんな事件が起こったのか、当時やその後マスコミに流れる記事だけ読んで、わかったようなわからないようなまま、今の年齢になってしまっていたからです。作品は私のような者でも、一から理解出来るよう作ってあり、当時生まれていなかった若い世代にも、わかり易く作ってあります。
学生運動の成り立ちから60年代末期まで、それが芯から国の行く末を憂いて起こした若者たちの運動だったと理解でき、決して仇花ではなかったと感じます。しかし段々暴走が始まり、武力抗争へと流れて行く過程は、若げの至りだけではなく、周囲の大人の指導不足と言う気もするのです。彼らの熱い心をきちんと受け止め、理想と成りえる大人がいなかったのかと、感じます。
国家権力に対抗するという名目で、テロまがいのことや民間人を襲うなど、思想のためなら手段を選ばなくなる彼ら。この暴走が激しくなった頃からが、私の学生運動を認識し始める頃です。当然警察の取り締まりも強化。大物運動家が次々逮捕される様子を映し、残りのメンバーが追い詰められるようにして、海外や山岳ベースに渡ったのがわかります。
そしてあのリンチ事件。この事件の主犯格は、赤軍派幹部だった森恒夫と革命左派幹部だった永田洋子だと、広く知られています(この二つが合体したのが連合赤軍)。私は知らなかったのですが、森は一度抗争の前に敵前逃亡しています。そして赤軍派には帰れず、町工場で工員をしていました。彼の出身大学は大阪市大。そのまま卒業してしていればエリートコースだったはずですが、当時大企業は就職の際に身辺調査をするのが常で、一流企業へ就職するのは、多分無理だったと思います。そんなとき大学の先輩である田宮高麿が、赤軍派への復帰を呼びかけます。そして田宮はほどなくよど号でハイジャックを起こし北朝鮮へ。他の幹部も逮捕されて、知らぬ間に森が最年長の幹部として、指導者となって行きます。
あぁこれがリンチ事件の核心だったのかと感じました。学生運動にも社会でも浮かび上がる術を失った森には、田宮の誘いは涙が出るほど嬉しかったはず。誰もいなくなった赤軍派で、実力不足のまま指導者になった森は、必死に理論武装して、他の活動家に弱みを見せられなかったのでは?と感じました。総括と称し、暴力で他の兵士を従わせようとしたのは、やられる前にやる、そんな思いもあったのかも。同志と呼び合うには、本来平等のはずですが、自由のない有無を言わさぬ縦社会を築いたのが、とっても皮肉です。
対する永田洋子の考察は、私が観聞きしたものと似たようなものでした。永田洋子は女性性を著しく否定した人で、美容や容姿に気を使う事を嫌悪し、男性兵士と仲良く話すと、それは男に色目を使っているとなります。要するに女を捨てる事を強要するわけです。永田はある持病を持ち、そのため容姿が悪く、殺された女性兵士は皆美しかったのも相まって、彼女たちに嫉妬したからだ、というのが定説です。演じるのも微妙に美の足らない並木愛枝ということで、今回もその域を出ません。
しかしそんなことで、人が殺せるでしょうか?私がこの事件で当時一番震撼したのは、妊娠8か月の妊婦も殺害されたということです。そんなこと、同じ女性が出来るのか?自分は夫である坂口弘と行動を共にし、のちには思想から理想的だと思うと、森に乗り換えます。これは女らしさではないのでしょうか?蛇のような目で遠山美恵子(坂井真紀)を見つめ、森以上に過激に総括を求める彼女。そこには森よりも上になりたい、そういう風にも感じられます。征服欲が強過ぎたから?イマイチ私の解釈では、彼女に謎が残りました。
リンチ事件は、観る前は、追い詰められてトランス状態になった兵士たちが引き起こしたものかと思っていました。しかし私が観るに、やる者やられる者、皆正気でした。お化粧をしていた、風呂に入った、車の止め方が悪かった、恋仲の男女がキスをして神聖なベースを汚した、などなど、信じられない些細な理由で、総括なるものを求められる被害者たち。いつも次は誰かと怯えていたろうとは、想像に難くありません。
二人の命令で、凄惨なリンチが繰り返されます。被害者女性の一人が「私は森さんや永田さんの言う事が、全然わからない」と泣きじゃくります。私も全然わかりません。これは単に私の頭が悪いだけじゃなく、難しい言葉を駆使して、屁理屈をこねまわすだけの、机の上の空論に振り回されている彼らを、意図的に観客に知らせるためだと思います。だからわからなくて、当たり前なんでしょう。
ほとんどが一般的には知られていない俳優を使っている中、重要な主要キャストである遠山美恵子だけは、名のある坂井真紀を使っています。当初実年齢30前後の彼女だけ、劇中から浮いて見え違和感がありました。しかし共産思想を信じ「地下にもぐって(山岳ベースに行くこと)、生まれ変わりたいの」と言う彼女は、まるで滝に打たれに行くような清々しさです。山岳ベースで訓練に汗を流し、笑顔を見せ、訳の分らぬ幹部の総括の問いに戸惑い、同志を殴れと言われて涙を流し拒否する彼女は、きっと私たち観客なのでしょう。だから感情移入し易いように、観客が親しみを覚える坂井真紀をキャスティングしたのかと感じました。十分彼女に同情し痛みを分かち合った後での、あの凄惨なシーンは、本当に辛くそして猛然と怒りが湧くのです。
森の演説の中で、「プロレタリア精神を大切にし、人間性を重んじ」と出てきますが、彼が永田が兵士たちを問題視したのは、その人間らしさでした。この矛盾に観客は気付くのに、彼らはわからないまま、映画は続きます。自分たちだけの内にこもると、何も見えなくなってしまうのですね。
そしてあさま山荘事件。森・永田のいない場所では、少しずつ彼らの呪縛から解放されて行くのも感じます。ここのシーンで不満だったのは、彼らの母親が外から説得する時の声が、全然若すぎるし、演技も下手。ここまで細部にこだわって作っていたのに、興覚めしてしまいました。
そして人質救出直前、今までの落とし前をつけるという坂口に、未成年だった少年が、「何が落とし前だ!みんな勇気がなかっただけじゃないか!」と叫び、他のメンバーを黙らせます。勇気がないには、たくさんの意味が含まれるのでしょう。権力に武力ではなく立ち向かう勇気、リンチに対し間違っているという勇気、そして共産主義がなんであるか、革命が何であるか、本当は何も分かっていなかった自分に向き合う勇気。この叫びが、本当にあったのかどうかは、わかりません。しかしこの叫びこそ、若松監督の心なのではないかと思います。
この事件の主犯メンバーだった森は拘置所で自殺。永田・坂口は死刑を待つ死刑囚。吉野雅邦は無期懲役。坂東国男は超法規的措置で人質と交換で海外へ。その他の山岳ベースの生き残りメンバーは、既に出所しています。本当に彼らが心から同士の死を悼み、反省するなら、この作品を観るべきだと思うのです。彼ら以外でも、連合赤軍にかかわった人たちは皆。この事件がなかったら、日本の学生運動の歴史は、確実に変わっていたと感じます。映像で観るのは辛いでしょう、苦しいでしょう。しかし観て感じ自分の本心を知って欲しいと願います。決してなかったことには出来ない事件ですが、それが被害者への贖罪にもなり、事件からの解放になることだと思います。若松監督もこの作品を作る事で、解放されたかったんだなぁと、私は思います。
2008年05月08日(木) |
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」 |
う〜ん、困ったなぁ。とっても重厚で立派な作品です。それは絶対認めます。長尺の作品なので、観る前はひるんでいたのですが、それも筋運びの巧みさと格調高い演出で、杞憂に終わりました。でも好きな作品かと言われれば、超微妙。でも嫌いかと言われれば、それも違います。う〜ん、困ったなぁ。監督はポール・トーマス・アンダーソン。
20世紀初頭のアメリカ。ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ・ルイス)は、息子HW(ディロン・フレイジャー)を伴い、油田を求めて土地の買収に渡り歩いています。油田の発掘に、自分の全てを注ぎ込むダニエル。その彼に、サンデー家の息子ポール(ポール・ダノ)が、自宅から油田が発掘できると、話を持ちかけてきます。
19世紀末期から約30年、油田の発掘に人生を賭けた、ダニエルの生涯が描かれます。油田の発掘風景は、とても重労働かつ危険と隣り合わせで、真っ黒になりながらの発掘作業を、丹念に演出しています。取り分け石油が噴出する様子は壮観で、この油に、男たちの夢と金が詰まっているのかと思うと、感慨深くもありました。ダイナマイトで爆発する場面、発掘作業中ガスが噴出して、大火事になる様子なども、ちょっとしたスペクタクル場面として楽しめます。
口先三寸で油の出そうな土地を買い漁るダニエル。まだ幼い息子を仕事の相棒と紹介し、「家族で仕事をしている」と、人々を安心させます。息子HWとは、ある秘密があります。私は赤ちゃん時代のHW役の子の、助演賞モノの好演でわかりましたが、少し謎めいたまま、そのまま素通りした方もあったでしょう。しかしこの赤ちゃんの表情やしぐさを引き出した監督は、とっても偉い!
同じように、腹違いの弟と称するヘンリーという男が現れるや、側近として重用するダニエル。一見すると、自分の仕事に血縁者を利用しているように見えますが、心の拠り所として息子や弟が必要だったのは、ダニエルの方だったと思います。「血縁者」という、おおまかな括りに捉われるダニエル。それは育った家庭環境から来るのでしょう。サンデー家の父親が、娘のメアリーを殴ると聞くと、それが許せない彼。彼の一連の行動は、血縁者・家族というものに対して、とても複雑な感情を持っていると感じます。
彼は誰も信用せず、劇中ただの一度も心を許した女性も現れません。裏切られることを恐れていたのでしょう。でも信頼されたいと思う心はあるのでしょう。劇中、ダニエルなりに愛を示したのは、この二人だけだったと思います。利用したと皆に思われているHWにしろ、それだけで男手一つで乳飲み子を育てられるものではありません。自分の生きるかすがいとして、HWが必要だったと思うのです。
これらの事から、一見豪放で野卑な男の見えるダニエルですが、独りでいる事の出来ない、小心者で孤独な男の姿が浮かび上がります。私が痛々しく感じたのは、そのことに彼自身が気づいていないという事です。際限ない欲望に目が眩むと、人とは自分の心の内も気づかぬものなのでしょう。
重要な登場人物として、サンデー家の長男で、ポールの双子の兄イーライ(ポール・ダノ二役)がいます。インチキ宗教の教祖にして、口先三寸で自分の野心のためなら、簡単に神をも裏切る男です。あくなき欲望に対しての一連の行動は、ダニエルととてもよく似ています。これが最後までお互い憎しみ合い利用しあった故なのでしょう。
失笑するようなイーライの様子を映して、一見カルト宗教に走る人々を嘲笑しているような演出です。しかし本当の目的は、お金のために簡単に神の前で、嘘をつき自分を偽る事の出来る二人を映し、彼らの行動の諸悪の根源は、神の存在を信じなかったからだ、と言っているように、私には感じるのです。
と、このように痛みも理解も出来るのですが、どうもイマイチ心に迫ることがないのは、誰も共感出来なかったからかも知れません。ルイスはいつもながらの完璧な演技で、オスカー二度目の受賞は、誰も文句ないと思います。彼の作品は「存在の耐えられない軽さ」が一番好きなのですが、本当はこの人、とっても美しい人ですよね?こういうエキセントリックな役柄もいいんですが、普通の二枚目の彼も観たいと思いました。
ポール・ダノはとっても健闘していたと思います。思いますが、ルイスとタメを張るイーライが彼では、少々荷が重かったかな。何度もこれが若い時のエドワード・ノートンなら、3割増しくらいで格が上がったろうと思いつつ観ていました。これも食い足りない理由かも?
以上とっても出来の良い作品だと理解出来るけれど、編愛する作品ではなかった、ということでしょうか?私は音楽はいつもボーと聞いているのですが、今回のスコアは身震いするほど感激しました。何と言うか、場面場面ではミスマッチのようなのですが、どの場面も暗い躍動感を感じさせ、ダニエルという男を、的確に浮かび上がらせていたと思います。
観る価値は充分の作品です。でも多分早くに終わっちゃうかなぁ。
三日に夫と観てきました。我が家は夫も医療関係なので、この日からがGWの始まりです。夫と同年代の男性の映画友達の皆さんは、多趣な方が多く、休日の使い方もお上手ですが。しかし我が夫は生憎と無趣味のステロ型の中年男でして、休日は家でゴロゴロ、予定がなければ一日中パジャマで過ごすのが至福の人なわけね。当然疲れなんか取れるはずもなく、またしんどい次の一週間に突入で、とにかく一年中「しんどい」から解放されない、日本において最大公約数的な中年男性です(可哀想なんよ、お父さんたちは)。ほっとくと干物になるのですね。でもうちの夫は男前で、干物にするにはもったいなく、時々私が連れ出すわけ。
本日は夫の服を購入するのが私の目的。「お父さんの服買いに行くで」というと、「また今度」というので(面倒臭いから。そのくせヤツしたがる)、「お父さん、定期買わんとあかんやろ?いっしょに難波行こう」と連れだし、騙くらかして高島屋へ。本人も気に入った品をゲットし上機嫌になったためか、「もう難波で『紀元前一万年』観て行こう!」と仰る。えぇぇぇぇ!明日ラインシネマで観るんとちゃうん?この作品と「最高の人生の見つけ方」と観たら、ポイント溜まるので、「チャーリー・ウィルソンズ・ショー」はタダで観る予定やったのに、とは私の心の声。布施に戻って観ようや、などど言うと臍を曲げて「もうめぇへん!」と言うのは、ながーい結婚生活で学習している私。「そうやね〜、ほな難波で観て行こうね、おとーさん」ということで、なんばTOHOで観てきました。お金はラインシネマで落としたい私の気持ちも、説明しても長くなるし。映画は予想通り、とってもローランド・エメリッヒな作品でした。
紀元前一万年の世界。狩猟民族の若者デレー(スティーブン・ストレイト)は、同じ村の少女エヴァレット(カミーラ・ベル)と恋仲です。エヴァレットは幼い頃、自分の村を「四足の悪魔」に襲われて全滅して生き残りだったのを、この村の巫女に育てられたのです。その「四足の悪魔」が、デレーたちの村を襲い、たくさんの村人を拉致して行き、その中にエヴァレットもいました。彼女を救うため、命をかけてデレーは追いかけます。
とっても普通の作品です。キャッチ・コピーの「誰も見たことのない世界は、「過去」にあった。」というのは、それは嘘です!というくらい、観たことある光景ばっかです。確かにCGでは、観たことないかも。脚本の方も小耳に挟んだところでは、監督エメリッヒは「構想から撮るまでに15年かかった」と仰っているそうですが、あんた、これで15年か?というツッコミ満載です。
デレーの父親が尊い思いを抱いて、村を出て行ったプロットが上手く生かせていません。デレーが何故あのサーベルタイガーを救ったのか、私には謎。これが重要な伏線になっているので、余計に気になります。いっしょに闘う村の長ティクティクが、大怪我しているのに、ターミネーターばりに速効治るのが不思議。エヴァレットに横恋慕する敵の隊長など、とってもいい味を出していたので、もっとキャラに肉付けして、醜男が美女に叶わぬ恋をした切なさを出せば、ぐっと作品が味わい深くなったでしょう。決定的なのは「ラスボス」。あんなもんで、あんなんになるか〜〜〜?(ネタバレなので、特に伏す)。この既視感、何やったやろ?ああそう!「スターゲイト」といっしょ!とにかく、部分部分で説明は一応はつくんですが、小さな脱力を繰り返すわけ。
だけど私は、この作品を割と気に行っています。だってエメリッヒですもの、大味な大作だと予想して観たかったんですから。エメリッヒと言う人は、大筋に疑問が残っても、枝葉の部分に人の好い愛嬌があって、私は嫌いではありません。(スティーブン・ソマーズも割と好き)
この作品も、最初村の長になれたはずのデレーは、卑小な自分の心に気づき、証しの杖を返してしまいます。しかしのちのちの展開を観れば、彼が「選ばれし勇者」であったのは明白で、自分の運命から逃げても、それは追ってくるものだと感じられます。
肌の色の違う、言語も違う者同士の正義のための結束は、観ていて気持ちの良いものです。
母を殺され一人ぼっちになったデレーの村の少年と、他部族の少年の心の交流がほほ笑ましく、デレーの村の子の復讐の果たし方が一捻りあって、ジーンときました。
デレーの父から幼い息子を託された村の長ティクティクが、血に惑わされることなく、自分の息子とデレーを分け隔てなく見守る様子が、器が大きくて観ていて清々しいです。
デレーの村では悪者だったマンモスが、敵に捕まり倒れるまで働かされているのを観た少年の、「マンモスが可哀想だ」の一言は、昨日の敵を憐れむ素敵な感受性です。サーベルタイガーの存在など、仲良くとは違う意味で、この時代は、生き物と人間の共生が大切だったんだなと感じました。
エヴァレットを演じるカミーラ・ベルがめちゃめちゃ可愛い!顔が泥だらけでもあんなに清楚で可愛いのですから、そりゃ男たちが命をかけるのも、すごーく納得でした。神秘的な運命の少女にピッタリでした。
ベルに比べて、主演のストレイトは、可もなく不可もなくで、既にもう顔も忘れかけです。これでブレイクしそうにはないなぁ。私の予想が外れれば嬉しいですが。
以上、すべて大味なんですが、枝葉の部分でたっぷりほっこりしたので、私は満足でした。夫の感想はというと、私のツッコミ部分が気になって、あんまり楽しめなかったそう。お父さん、そういう観方は甘いのよ。だって、ローランド・エメリッヒの作品なんやから。
2008年05月03日(土) |
「相棒-劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン」 |
1日の映画の日に観てきました。私は小さな開業医で受付をしておりまして、GWは暦通り出勤。でも木曜日は定休日なんですね。最近はあっちこっちの劇場で会員になっているので(全部で7つ!)、千円もさほど有り難味がないんですが、でも仕事休みと重なっているとなれば、やっぱ何か観たいでしょ?
ということで、なんばTOHOまで「つぐない」を観に行ったんです。そしたら30分前に着いたのに、ソールドアウト!もう一館上映している、テアトル梅田まで行っても良かったんですが、しかしここも会員なので、常時千円で観られるのです。いつも千円で観られる劇場で、わざわざ千円の日に観に行くのは、いかかがなもんか?ということで、家まで戻り、チャリを飛ばして、ラインシネマでこの作品を観る事にしました。何故戻ったかといいますとね、ワタクシ地元で観られる作品は、地元でお金を落とす主義。だってラインシネマが潰れると、映画的死活問題ですから!
ラインシネマなら空いてると思っていたのに、すごい人気なんですね、この作品。5分前に滑り込みで着くと、最前列しか空いていませんでした。どの劇場もすごく大ヒットしているとか。映画自体は、出来が良いとは言い難いのですが、核にあるものに良心が伺え、好感がもてます。
二人だけの特命係に配属されている杉下右京(水谷豊)と亀山徹(寺脇康文)。謎の暗号が残された連続殺人が多発し、国会議員の片山雛子(木村佳乃)もターゲットと判明し、護衛にあたる二人。手がかりを辿り、三万人のランナーが出場するマラソン大会で、犯人が爆破計画を仕掛けていると判明します。
実はドラマの方を時々(ほんの時々ですが)観ています。そのどれもが、テレビドラマという枠の中での過不足のない問題定義が上手く、上質の番組だという認識がありました。なので映画化されると聞いた時、ピンと来るものがあったんです。その予感は当たっていました。
正直出来としては、期首変時に特別に二時間ドラマ枠で放送されるくらいの出来でした。SNSをモチーフに持ってきたりして、現代感を出そうとしていますが、上手く機能しているとは言えません。盛り上がりの見せ場になるはずのマラソン大会も、不必要なダミーの連続だし、直接の犯人の動機と絡ませるには、無理があります。本仮谷ユイカ扮する少女は清楚で良い雰囲気ですが、この子の現状を問題定義の主に置きたいばっかりに、柏原崇扮する塩屋との関係性の示し方が不味い。そして決定的なのは犯人。あの特徴のある演出では、観客に気付けと言わんばかりです。
この作品が問題定義したかったのは、数年前に日本に起こったある事件が元になっています。「自己責任」という言葉が流行りましたよね。あれです。これだけ難点をあげつらっているのに、私が好感を持ったのは、せっかくドラマを映画化するならばと、派手なドンパチや華やかな特別ゲストのキャスティングではなく、「相棒」というドラマの世界観を踏襲しながら、過去の出来事を見つめ直して欲しいという、作り手の誠意のある心意気に感激したからです。今後の国際情勢から考えて、とても意義のある問題定義だと感じました。
テレビ局というのはマスコミ側ですし、この脚本で映画化にGOサインを押したのは、自分たちの反省と次への自戒もあると思うのは、考え過ぎかな?犯人に対し、「あなたの言う事は正しい。だかやり方が間違っている」と、きっぱり言い切る右京。私は頭脳明晰かつ優秀な彼が、何故こんな窓際に置かれているのか、詳しくは知りません。でも砂を噛むような思いをし続けているはずの彼から言わせたこの言葉は、とても重みがありました。
ドラマを観たことがない方でも、簡単な説明を随所に入れているので、人間関係は把握し易いと思います。オチはあるはずもない事ですが、誰もが納得できる方法で、作り手の問題定義への答えも、明確に出しています。ドラマの映画化という観客層から思えば、これくらいの作りの方が、優しくて良いと思います。大ヒット中らしいので、多くの日本人が「あの事件」に対して、もう一度考える機会に恵まれるかと思います。
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