ケイケイの映画日記
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2008年04月29日(火) |
「さよなら。いつかわかること」 |
足しげく通う、梅田ガーデンシネマでの予告編で知ってから、絶対観ようと思っていた作品。予告編だけでものすごく胸に響くモノがあったのですが、その直感は正しかったみたいです。小説でいうと、珠玉の短編と言う感じの作品です。2007年のサンダンス映画祭で、観客賞と脚本賞を受賞しており、この作品に感銘を受けたクリント・イーストウッドが、自分の作品以外で初めて、音楽を担当しています。監督はこれが初作品のジェームズ・C・ストラウス。
シカゴのホームセンターで主任として働くスタンレー(ジョン・キューザック)は、妻グレースと、12歳のハイディ(シェラン・オキーフ)と8歳のドーン(グレイシー・ベトナルジク)の二人の娘がいます。グレースは現在軍曹としてイラクに赴任中です。そのことで家族が寂しい思いをしている中、グレースの戦死の知らせが入ります。娘たちに言いだせないスタンレーは、突然ドーンの行きたがっていたフロリダの遊園地に、家族旅行に連れだします。
初登場シーンから、堅物で面白味ない男だろうと思わせるスタンレー。娘たちとの接し方が下手で、妻のいない家庭は明かりが消えたような雰囲気です。多分普通の良いお母さんなのだと思うのですが、それ故に妻・母というものが、如何に家庭では偉大な存在であるのかがよくわかるのです。さりげない演出ばかりですが、お母さんは最後まで電話の留守録の声(これがマリサ・トメイかな?)でしか登場しないのに、その存在感を浮かび上がらせるのが、すごく上手いのです。
そして旅の途中、何度も何度も留守録の妻の声に、娘たちに言いだせぬ辛さを語りかけるスタンレーが、とても効果的です。本当にまだ妻が生きているような、自然に相談するような語りかけが、スタンレーの中の妻の存在の大きさを表し、とても胸が痛みます。
子供たちとて、お母さんがいない寂しさを、必死で堪えています。訴えたり反抗したりせず、何も言わず我慢しているのは、子どもとしての、父スタンレーへの思いやりです。こんな良い子たちに育てたお母さんは、きっと素敵な人なんだと、ずっと感じていました。姉ハイディは妹といる時は無邪気ですが、思春期に入りかけの難しい時期で、母のいない寂しさから不眠症になっています。何度もこの旅は変だと感づいているのに、口をつぐむ様子が本当にいじらしくて。四歳下のドーンは、まだ相談するには子供過ぎます。ハイディの思慮深さと、長女と次女の違いを上手く表わしていました。
旅の途中、実家に寄るスタンレー。肝心の母は留守で、愛国心の強いスタンレーとは考え方の異なる、リベラルな弟ジョン(アレッサンドロ・ニヴォラ)だけがいました。父とは仲が悪いのかと叔父に問う姉妹に、「違うよ。考え方が違うだけだよ。お互い受け入れる事が大切なのさ」と答えます。私たちにはイラクの件では、アメリカが悪いと刷り込まれがちですが、こうしてアメリカにだって犠牲はあるはず。そのことを改めて思い起こしました。違った考えを受け入れる大切さを表しながら、最愛の人を亡くしたスタンレー家を描くことで、反戦の心も強く感じます。
旅が進むに連れて、段々と本来の絆が見えてくる父と娘たち。旅の間に妻が亡くなった事を、スタンレー自身がやっと受け入れたのだと思います。不承々々妻の出征を認めた彼には、ある秘密がありました。自分が出征していれば、こんな時家庭に妻がいてくれればと、どこかしらいつも、娘たちと向かい合うことを避けてきた彼には、必要な時間だったのです。この辺りは、父親なら誰しもが、深く頷けるのではないでしょうか?
スタンレーが娘たちに真実を告げる場面では、もう泣けて泣けて。今書きながら涙が溢れて困っています。セリフは音を消して、様子だけ映しているのですが、その直前の「ケガしただけでしょう?私たちが一生懸命看病するから!」と、泣きじゃくる姉妹。この子供らしい言葉の重みが、しばらく私の耳と心から離れませんでした。
出演者は皆、本当に自然な演技で実の父娘のようでした。カッコ良さはまるでないけど、普段は寡黙で少々怖いけど、家族を心の底から愛しているスタンレーを、キューザックは朴とつに誠実に好演してました。姉妹役の二人はこの作品が初めての出演だと知り、びっくりです。とにかく自然で可愛くて、絶品なのです。特にハイディ役のシェランは、子どもらしい幼さと、思春期の入口特有の危うさや憂いを、透明感のある雰囲気で見せ、絶品です。サラ・ポリーの子役時代を彷彿させました。ドーン役のグレイシーは、天真爛漫で無邪気な様子が本当に可愛い!子役の、この年齢でしか出せない、自然な光の放ち方を、監督は本当に上手く引き出していました。
情感豊かな切なさとユーモアを画面いっぱいに描きながら、詩的な哀しさを感じる、とても素敵な作品です。深い余韻を行間に漂わせながら、誰しもが理屈抜きの暖かさと感動を覚える、とてもアメリカ的な作品です。この手の作品を観ると、あぁ私はやっぱり、アメリカ映画が一番好きなんだなと、強く感じます。「エイプリルの七面鳥」や「スパングリッシュ」のような、アメリカ映画の小品佳作を愛してやまない、私と同じ嗜好の方に、是非是非お勧めします。
2008年04月27日(日) |
「悲しみが乾くまで」 |
「ある愛の風景」「アフター・ウェディング」を監督した、デンマークのスサンネ・ビア監督が、ハリウッドに招かれて初めて撮った作品。最初ハル・ベリー演ずるヒロインが、どうも私には合わなくて、今回は外すかな?と感じていましたが、後半そうくるかぁ、という展開になりました。単なるメロドラマにはしなかったのは、ビア監督の面目躍如というところかな?
黒人女性のオードリー(ハル・ベリー)は、誠実で申し分のない白人の夫ブライアン(デビッド・ドゥカプニー)と、二人の子供とともに、精神的にも経済的にも満たされて暮らしていました。ブライアンは子供時代からの親友ジェリー(ベニチオ・デル・トロ)が、ヘロイン中毒となり弁護士も辞めた事に心を痛め、皆が見捨てる中ただ一人、彼を救おうと躍起になっていました。夫がそのことに一生懸命過ぎるのが唯一の不満のオードリー。そんなある日、ブライアンが銃で撃たれて、突然亡くなります。悲しみに沈むオードローは、自分たちが立ち直れるまで、ジェリーにしばらく自宅のガレージで住んでもらうように頼みます。
ビア監督の特徴である、繊細な人物描写は健在なものの、今回はヒロインのあまりのひ弱さに、前半はイライラし通しでした。
生前のブライアンの包容力も経済力もある姿を充分に映し、オードリーは可愛くチャーミングでありさえすれば良い妻であると、その辺は上手く印象付けていたと思います。しかし個人的には、描写のところどころに感心する部分もありましたが、少々長いと思いました。この辺りは、これほど長く描かずとも良いかと思いました。
ブライアンが亡くなってから、情緒不安定が激しいオードリー。子供に八当たりするかと思えば、一転抱き締めて眠るなど、この辺はとても理解出来ます。ジェリーに同居を頼むのも、「私たちを助けて欲しいの」と言う言葉で、彼女のか弱さが出ていました。
しかし夫がいればか弱くても良いのですが、夫はもういないのです。夜眠れない彼女は、夫の代わりにジェリーに横に寝て、眠るまでずっと抱きしめて欲しいと頼みます。気持はすごくわかる。私だって長年傍で寝ていた夫がいなくなれば、眠れぬ日々をすごすはずです。しかし彼女が腕の中で安心して眠れたのは、ブライアンだからであって、ジェリーではありません。これではジェリーに、男の肌が恋しいと誤解されても仕方ありません。いくら悲しみにくれていても、それくらいの分別はつくはずです。
子供たちから信頼され、ブライアンの残した家庭の中に居場所を見つけるジェリー。麻薬も止めています。しかし段々ジェリーが家庭の中で存在感を増していくと、今度はオードリーがそれに激しい抵抗を見せます。心のどこかで夫の代わりになってもらいたかった彼女ですが、夫は自分にとって子供たちにとって、かけがえのない存在だったのだと、皮肉なことに悟るのです。
ジェリーをなじるオードリー。この辺からの彼女の子供じみた行動に、私は少々辟易してきます。か弱いのではなく、ひ弱く身勝手な彼女にイライラ。こんなんじゃ、いくらお金には困らなくても、子どもを一人で育てていけるのかしら?丁寧な描写なので、同情や共感できる人もいるでしょうが、私の持つ母親としての美意識からは、とても鼻につきます。「アフター・ウェディング」で多用された目のアップが、今回も多いのですが、それもニ番煎じ的に感じ、もう一つでした。今回はさすがのビア監督も、私にはダメぽいなぁと思っていると・・・。
とあることがきっかけで、ひ弱いオードリーは、崖っぷちで母性と言う女の底力を見せてくれます。ジェリーが夫の代わりになるのではなく、オードリーがブライアンの代わりになることで、二人の関係は新たな方向へ進むのです。この辺の転換は鮮やかで、やっぱりこの監督は力量があるなぁと、感心しました。
お互いの寂しさからなのか、愛なのか、二人の間の微妙な感情、アリソン・ローマン扮する女性から、立ち直るきっかけや影響を受けるオードリーの様子、子供たちの素直な感受性、心の拠り所を求めさすらうジェリーの様子など、ビア監督の人間を観察し描く力は、やはり非凡なものでした。ラストも後味の良いものです。
そうは感じても、デンマーク時代のニ作品と比べると、個人的にはいささか物足らない出来です。人が上手く描けていても、イマイチ胸に迫るものがありませんでした。デンマーク時代には丁寧で繊細な描写と感嘆出来たのが、少々辛気臭くも感じています。ベリーの役は当初白人女性の役だったらしいですが、彼女のたっての希望で実現したとか。それなら黒人女性がヒロインであることの味付けも、あった方が良いと思います。舞台はアメリカなのですから。
う〜ん、さすが中国四千年。色んな意味で、「ものすごい」と評判の作品を、22日になんばパークスで観てきました。キンキンキラキラ、帰りの電車の中でも、まだ目がチカチカしておりました。美術に膨大なお金がかかっている割には、内容が薄いと聞きましたが、まぁこれくらいなら、許容範囲かな?もちろん文句もあるんですがね。でもスクリーンで観る価値充分の見応えでした。「王妃の紋章」って、こういう意味だったのかぁ。監督は北京オリンピックのオープニングの演出を担当するチャン・イーモウ。
絶対的な権力を誇る国王(チョウ・ユンファ)。しかし王妃(コン・リー)との仲は冷え切り、あろうことか、前夫人の息子である長男(リィウ・イエ)と王妃は不義の仲です。そんな二人を無邪気を装いながら見つめる三男(チン・ジュンジェ)。そんな時、武芸に長けた二男(ジェイ・チョウ)が僻地の赴任地から戻ってきます。次男を溺愛する王妃は、次男を国王にと画策します。
まずはビジュアルから。ところどころCGを用いながらも、今時ではなかなか観られぬ絢爛たる人海戦術で、宮廷の様子を描きます。下っ端の下女から、高級官僚に至るまで、その衣装の豪華さや、目を見張ります。調度品も彫りものや細工が素晴らしく、こちらも目を見張ります。贅沢の限りを尽くしたその暮らしぶりは、本当にすんご〜〜〜い!と感嘆。そしてユンファとコン・リーという、当代一の中国の大物俳優二人が、この絢爛たる世界感に、全然霞まないのがまたすごい。最後の最後まで、この豪華な様子はペースダウンせず突っ走ります。
中国映画らしく、クン・フーあり剣ありです。そして大がかりな戦いの様子。内容が「壮大な夫婦げんか」と聞いていたので、アクションは頭になく意外だったため、私は普通に楽しめました。
で、ドラマ部分です。不義密通あり、家庭内下剋上あり、過去の秘密あり、「ほにゃらら」ありと、愛と欲望と憎悪が限りなく渦巻いています。「ほにゃらら」なんてね、「秘密のあの人」登場時に、私なんか速効わかったんですが、ラスト近くで隣のご婦人が、「まぁ、『ほにゃらら』だったのね!」と、軽く叫ばれたので、他の方はわからんかったのかしらん?
王が王妃にした仕打ちは、あれは不義密通を知ったからでしょう。王妃が長男を誘惑したのは、蜜月の王と長男の間を嫉妬したから。それは王が自分が生んだ王子たちより、長男を可愛がるのを見て、前夫人の面影を追い続ける、王に対する妻としての哀しみだと感じました。王妃の病である「虚寒症」って、いわゆる血の道かな?ということは、更年期障害かもですね。ホルモンバランスのくずれは、段々女として下り坂になっていく自分を自覚させられ、より一層哀しみを増大させたのかも。
次男への溺愛ぶりも理解出来ます。そりゃ自分の産んだ子を、国王にしたいでしょう。素養だって長男よりあるのは明白だしね。この辺までは全然OK。
しかし王は、何故こんな血も涙もない冷血漢になってしまったのか、その辺を全然描いていないので、「秘密のあの人」に対してのチグハグな対応に謎というか、ツッコミたくなってしまいます。それ以外でも、本当にひどい男ですよ。何故こんな男になってしまったのか、背景を描かないと。いくらユンファが貫禄と押し出しのきいた男っぷりを見せてくれても、薄味な造形は否めません。
コン・リーは、王・長男・次男に対し、妻・女・母と、それぞれ微妙に表情からしぐさまで変え、さすがの演技ぶり。あんな豪華な衣装と役柄に霞まない抜群の存在感で、本当に彼女しか出来ない役だなと思いました。
三男の行動もそう。いきなりなんやねんと、びっくり。別に三男をひがますような親ではなかったけどなぁ。息子が三人もいりゃ、あんなもんでしょ。王と王妃の態度も解せません。三男の扱いは強引過ぎで、無理にこの役は、作らなくても良かったと思います。余談ですがこの子ね、エディソン・チャンに似てるんですよ。時節柄本人は嬉しくないでしょうが。
この辺のことが不満なのにで、ギリシャ神話的悲劇ではなく、東海テレビの昼メロ的ドロドロの印象の方が残りました。
でもそれ以上に私がツッコミたくなったのは、長男役のリィウ・イエ。個人的に全然魅力が感じられず、あのコン・リーが不覚にも愛してしまう人には思えません。なんつーかね、漫才コンビで言ったら、超抜きんでているボケ役の横で、ただ合いの手を入れるだけのふつつかな相方みたいな感じというか。とにかく存在感が薄いのです。その点、一見容姿は平凡ですが、次男役のジェイ・チョウは、なかなか凛々しくて良かったです。
国王と言っても、家庭は家庭。その始まりは夫婦のはず。その夫婦間のことをおろそかにしては、いくら他で懸命に補っても手から水はこぼれてしまいます。家内安全・家庭の平和は夫婦和合から。壮大かつ豪華絢爛なこのお話から学んだのは、平凡な庶民にも通じる教訓でした。
ロバート・レッドフォードの七年ぶりの監督作品。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉は、確かマッカーサーの言葉だったと思いますが、70〜80年代のハリウッドを支えてきたこちらの老兵は、消え去りません。今の自分の立場と同じ、非常に地味な立ち位置から自国民に向けて、強いメッセージを発しています。成熟というより老熟とでも呼びたい造りは、インテリジェンスのある、とても気骨溢れるものでした。
ジャーナリストのジャニーン・ロス(メリル・ストリープ)は、大統領への野望に燃える共和党の上院議員アーヴィング(トム・クルーズ)から、面談を持ち込まれます。かつて彼のことを「新進気鋭の若手議員」と紹介してくれたジャニーンを使い、売り込みをかけてきます。しかしジャニーンは、そこに胡散臭い情報操作を感じます。その頃大学教授のマレー(ロバート・レッドフォード)は、優秀で見どころがあったのに、最近授業に身が入らない学生トッド(アンドリュー・ガーフッィールド)を呼び出します。そしてアフガンの戦いに志願した、二人の自分の学生ロドリゲス(マイケル・ぺーニャ)とフィンチ(デレク・ルーク)のことを、語ります。
今や完全に一線からは退いたレッドフォードですが、かつてはハリウッドの屋台骨をしょっていた人で、初監督作品の「普通の人々」では、オスカーも受賞。とても美しい人でしたが、清潔で誠実な雰囲気が漂うのが魅力で、一度くらい彼の虜になった、私前後の年齢の女性は多いと思います。私も高校生の時、大毎地下劇場で「追憶」と「スティング」の二本立てでノックアウト(昔も今も私の異性の好みは、誠実・知性的・面白みが薄いが三本柱)。ブラピが注目され始めた時、レッドフォードにそっくりだと、言われてましたよね。
毎年ユタ州で開かれるインディーズ作品最大の映画祭、「サンダンス映画祭」は、独立系の若手映画人を支援するため、レッドフォードが始めたものです。サンダンスの名は、←の画像の、私の大好きな「明日に向かって撃て!」の彼の役名・サンダンス・キッドから取ったものです。以上有名なお話ですが、もしお若い人が読んで下さっていたらと思い、書きました。レッドフォードがいかに偉大な映画人であるか、知っていただけたら嬉しいです。
映画はアーヴィングとジャニーン、マレーとトッド、そしてロドリゲスとフィンチの様子が、交互に描かれます。
アーヴィングは野心家ながら、なかなか賢い人で、巧みに手の内を見え隠れさせながら、ジャニーンを惹きつけます。「私もあなたも、未来の為、過去を反省することが重要だ」など、政治には疎い私も肯く論法で、かつての「自分たちの」あやまちに言い及ぶ場面では、優秀なベテランジャーナリストであろうジャニーンが、言葉に窮します。この二人の場面は、映画的娯楽度は薄いのですが、あまり観慣れないプロットなので、興味深く観られます。
アーヴィングの役にトムを起用したのは、彼のカリスマ性とスター性で娯楽不足を補いたかったのかな?なかなか良かったです。受け身の芝居が要求されるストリープは、いつも通り完璧な演技で、私は退屈しなかったです。
トッドに思い通りの人生ではなかったと語るマレーは、今は優秀な人材を見付けだし、「正しい道」に進んでもらうのが楽しみだと語ります。しかしその「正しい道」は、マレーが決めるものではなく、彼ら自身が決めるものです。自分の誘導が軽率だったので、フィンチとロドリゲスは志願したと悔やむマレー。
黒人のフィンチとメキシコ系のロドリゲスは、アメリカに置ける格差社会の象徴なのでしょう。奨学金の取りにくさ、志願から戻れば授業料は無料だと、彼らの口から言わせます。授業の様子では、社会制度を底辺からコツコツ改革するという彼らの案に、鼻で笑うような白人の同級生たち。そこには蔑視や嘲りも感じさせます。ここの大学は恵まれた白人層の学生が主流で、フィンチたちは、異端です。結局アメリカの富裕層では、マイノリティーをまだ「アメリカ人」とは認めない空気を感じます。色々な政策で、格段に差別はなくなったと、遠くの日本からは感じますが、政策によって守られているということは、まだ「守られる存在」なのですね。そこからの脱皮が「アメリカ兵」としての志願だったと感じました。
彼らが敵に囲まれた中、引きずる足を無理やり立ちあがったのは、「アメリカ人としての誇り」なのでしょう。名誉と言う言葉も浮かびます。確かに泣かせる場面なのですが、それだけの意味で、監督は演出したのでしょうか?彼らの行動は尊く潔いけれど、そうさせたのは、アメリカと言う国の責任だと、言いたかった様に感じました。
でもそれって、遠くのベトナム戦争の時代から、ずっと同じなのではないでしょうか?描き方が古いのではなく、2001年を題材にしたということは、これがまだまだ真実なのかもしれません。
トッドは、誰が政治をつかさどっても同じだと語ります。この辺は日本の若者と同じ。政治や勉強に興味をなくしているトッドに、フィンチたちを引き合いにだし、それでいいのか?と促すマレー。マレーはレッドフォード自身、トッドは観客なのです。レッドフォードは有名な民主党支持者ですが、今の自分の立ち位置を考えて、啓蒙するより、観客自身に考えてもらう手法を取ったところが、控えめな知性と、強い気骨を感じました。
ジャニーンの背後にも、忍び寄る寒々した老後を感じさせます。これもアメリカが抱える現実なのでしょう。戦争で亡くした多くの若者の墓の前で、彼女が流した涙が、とても印象的。ジャニーンは矛盾を感じながらも記事にするのか?トッドは再びに勉学に意欲を持つようになるのか?映画に答えは出てきません。
しかしジャニーンがトッドが、そして観客がいかなる行動を取ろうとも、決して監督は責めたりしないでしょう。そういう父性的な包容力も感じます。この作品を観て、国について政治について考える、そうして欲しいとの思いが強く残りました。決して面白味のある作品ではありませんが、70歳と言う年齢で、このような志の高い作品を作ったレッドフォードを、私はリスペクトしたいと思います。
面白かった!地味な社会派サスペンスですが、重厚にじっくり描いていて、とても見応えがあります。監督は「ボーンシリーズ」三部作の脚本で有名なトニー・ギルロイの初監督作品で、農薬会社の敏腕弁護士カレンを演じたティルダ・スウィントンが、本年度アカデミー賞で、助演女優賞を受賞しています。
ニューヨークの大手法律事務所に勤めているマイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)は、本業の弁護士より、表沙汰に出来ない事件をもみ消す、”フィクサー”としての仕事が大半です。私生活では離婚したり、従兄の借金を肩代わりさせられたりと、全くついていません。そんな時同じ事務所に所属する、辣腕弁護士で親友であるアーサー(トム・ウィルキンソン)が、長年に渡り弁護していた大手農薬会社・Uノース社と原告訴訟団との大詰めの話し合いの途中、突然服を脱ぎ出すという奇行の走ります。上司であり雇主であるバック(シドニー・ポラック)から、事態の収拾に向かわされたマイケルは、アーサーが原告団有利の証拠を掴んでいることを知ります。
実はクルーニーと私は同じ年。Uノース社の弁護士役のスウィントンもほぼ同世代で、この作品の役柄も同じような年齢です。若くはないが、さりとて老いてもおらず、人生はバラ色ではないと、今までの経験から深く知っているので、先のほとんど見えているこれからの人生を、どうやり過ごすか?頭を悩ます年代です。
裏稼業でいくら稼いだとて、不安定な人には言えない仕事に不安を感じたマイケルが、「安定」を求めて手を出した副業でスッテンテンになるのは、これもこの年代の特性かも。守りの人生に入りたかったのでしょう。私にはよくわかる。
上司バックが、「裁判所勤め(マイケルの以前の仕事)では、その他大勢でお前は終わったはずだ。今の仕事(フィクサー)はお前でなければ出来ない仕事だ」と、語ります。これはマイケルの愚痴を諌めるだけのリップサービスではないでしょう。何故なら人は誰でも、唯一無比の自分自身というものを、確立したいと願うはずだから。しかし哀しいかな、年齢を重ねるごとに、その願いは、その他大勢でいいから、安定した身分になりたいと変わっていくものです。やはり同世代だろうマイケルの刑事の弟に、年金に執着しているような言葉を吐かせるのも、それを象徴していました。
カレンとて同じです。上司の取り計らいで上り詰めた今の地位を、いつどこで誰にとって代わられるか、常にその不安との戦いです。唯一無比でいることは、とても辛いことでもあるのです。自信満々な公の場の彼女と、落差のあり過ぎるプライベートでのカレン。美しくない、下着からはみ出した彼女の贅肉は、若くない年齢を表わし、インタビューの予習を一人で繰り返す姿からは、ピリピリした孤独が漂います。
アーサーは彼らより一回りくらい上の年齢でしょう。弁護士というのは、依頼人からの要望に応えるため、清濁併せ飲んで、自分で浄化する力が必要な仕事だと思います。法廷は必ずしも真実が明かさせる場であるとは、限らないから。濁の部分を飲み続けた結果が、アーサーの心の病の発症なのだと思います。アーサーより更に一回りほど年上そうなバックは、色んな意味で屈強な心の持ち主であったろうとは、想像に難くありません(ポラック好演)。
しかし真実を明るみにしようとするアーサーは、とても生き生きしているのです。病気でネジが緩んだ明るさではなく、心の底から開放感を得ているようでした。長年公私ともに支えてくれた妻は亡くなり、娘とも疎遠。守るべきものが無くなったアーサーが、長年心に溜まった澱から解放されたいと思うのは、とても自然なことです。有能弁護士から変貌してしまったアーサーが、時折見せるかつての鋭さなど織り交ぜて、ウィルキンソンの演技は絶品。彼も助演男優賞候補だったので、今年のオスカー審査員は、すんごく悩んだと思います。
じっくり陰影を刻んで登場人物を描いた後は、巨大な会社の影の部分が暗躍し、お馴染みの展開になって行きます。敵役のカレンの焦燥感や、いっぱいいっぱいの心のキャパなどを丹念に描きながら、実行する配下の人間の冷徹ぶりは、とても良い対比になっています。こう言う場合は、誰が命令したか?が、とても重要なのだと描いています。
全てを知ったマイケルは、どう出るか?じっくりマイケルという男と付き合ったラストのオチは、ほとんどの人がわかったと思います。マイケルの取った行動は、息子ヘンリーに恥じない父親になりたかったからではないでしょうか?彼自身、不甲斐無い父親であるとの思いがあったでしょう。しかし離婚してからも交流を絶やさない父子。ヘンリーは父を慕っています。従兄を例に出して、ヘンリーに言って聞かせたことは、あれはマイケル自身が自分に言い聞かせていたのでしょう。あの時から、マイケルの腹は決まっていたのじゃないかと思います。
アーサーが年甲斐もなく恋した平凡な娘、息子への愛、ヘンリーとアーサーが感銘を受けた赤い表紙の児童小説、そして馬。彼らの良心を目覚めさせた、他人にはわからない、その人だけの思いがいっぱい詰まった物や人。そのお金では計れない価値を、形として立証したのが、「正義」であったと私は感じています。
ネットを使った殺人ゲームを、R15でサスペンス仕立てで見せるなんて、B級ムードぷんぷんなんですが、そういうの、とっても好きなのが私。それにしては主演がダイアン・レインなんて珍しいなと思っていたら、作り手は彼女で作品の格を上げて、真意を伝えたかったのかと思います。後味の悪さは残るものの、見応えのある作品でした。
FBI特別捜査官のジェニファー・マーシュ(ダイアン・レイン)は、サイバー犯罪が専門です。警察官だった夫亡きあと、8歳の娘と母親との三人暮らしです。いつものようにパソコンに向かっていると、“killwithme.com” という不審なサイトを見つけます。衰弱していく猫の死までをライブ中継したそのサイトは、次のターゲットの人間を捕まえ、ライブ中継します。アクセス数が増えると、ターゲットが死に至る細工が施してあるのです。急速に加速するアクセス。ターゲットは死に至ります。FBIが懸命に捜査する中、第二のライブ中継が始まります。
犯人は、実は早い段階でわかります。一見犯人は、サイバーオタクの愉快犯的無差別殺人に思えたのですが、その実動機は、極めて古典的でもあり今日的でもあります。ふと日本でも数年前、ワイドショーの人権侵害が討論された時代があったなと、思いだしました。
殺され方が非常にむごたらしいく、細工の仕方がすごくリアルです。私はホラー映画が好きなので、この手のシーンで気持ちが沈むことは、あまりないのですが、今回はどうも・・・。嫌悪感をすごく刺激するのです。私がホラー映画の残虐シーンが大丈夫なのは、それが作りものだとわかっているから。本物の惨劇を集めたようなものは、観たことがないし、観たいとも思いません。
そういう人の分別心を壊したのは、ネットだと思います。事件が起こるとすぐさま動画がアップされ、そこに悪意はなくとも、興味本位や好奇心で観てしまう。手を伸ばせは、そこに刺激的な映像が観られるとなると、理性や道理などより優先してしまう人の真理を、映画ではものすごいスピードのアクセス数で表わしています。
ネットの最大の特徴は、匿名性だと思います。しかしいとも簡単に自分の素性が割れ、パソコンや携帯までもがハッキングされるのだ、自分に悪意がなく、罪の意識はなくとも、この作品のように恨みをかうことがある。日頃わかっているつもりなのに、ついつい忘れてしまいがちなことを、この作品では、何よりも尊い人の命を用いて、煽情的に警鐘を鳴らしているように感じるのです。
ダイアン・レインの起用と主人公ジェニファーの造形は、猟奇的なシーンが多いこの作品の質を確実に上げ、決してキワモノ的なものにはしませんでした。ジェニファーが夜勤を希望しているのは、娘と過ごす昼の時間を大切にしたいから。有能に働く以外にも、母としての自分にも手を抜かない人です。レインの皺や生活感を残した、美人女優で鳴らした人には珍しいナチュラルな年齢の重ね方は、ジェニファーの誠実さと一致します。
シャワーシーンもあくまで生活感を出すためで、ヌードはなし、同僚刑事との心のふれあいも、あくまで同僚としての好意であって、恋愛には発展させない辺りも、テーマの絞り込みがこちらに伝わり、良かったです。
ネットの犯罪は例外もあるでしょうが、圧倒的に年齢層は若年のはず。犯人の「僕がこんな小さな子を、手にかけるわけないじゃないか」という独白は、「敵は大人」ということなのでしょう。大人とは社会とも言いかえることが出来ると思います。ラストシーンで見せた、ジェニファーのFBIとしての威信は、あれは大人として、若い人に見せつける威信でもあるのだと思います。それを社会人として母として、立派に務めを果たすジェニファーで描いたことに、深い意味があると思いました。
私のようなネットの住人には、とても考えさせられる作品で、猟奇的なシーンはOKと言う方には、ぜひ観ていただきたいと思います。しかし「グッドシェパード」や「ボーンシリーズ」で、CIAは散々な描き方ですが、FBIはアメリカ人の正義をまだまだ担っているようです。ちょっと二か所ほど、えっ?天下のFBIの、それもサイバー専門捜査官が、こんなにたやすく引っ掛かるかなぁ?、と思うシーンはありましたが。
最後にジェニファーの同僚役で、トム・ハンクスの息子の、コリン・ハンクスが共演していて、好演していました。ちょっと個性は薄いですが、今は偉大なお父さんだって、若い時は愛すべきイモ兄ちゃんだったです。お父さん譲りの好青年ぶりで、私は良かったと思います。この好青年っぷりが、実は作品の鑑賞にすごく影響しているんです。ご覧あれ。
2008年04月13日(日) |
「いのちの食べかた」 |
ドイツ・オーストラリア合作の、食品がどのように加工されるかを撮ったドキュメンタリー。全国で劇場を替えてロングラン中です。それも納得の仕上がりになっています。
実は今月の四日姑が亡くなりました。その直前に主治医から持ち直したと説明を受けたので、集中治療室を出たら、これから忙しくなって当分映画はお預けになるからと思い、ガーデンシネマで「トゥヤーの結婚」と、はしごして観た作品です。観ている最中は思いもよらぬことでしたが、画像のヒヨコのパートでは、お婆ちゃんのことも頭に浮かんだので、やっぱり飛ばさず書きたい思います。
鶏、豚、牛、魚から、果物や野菜まで、ほぼ全て毎日口にする食物が、どういう風に加工されるかが、描かれています。日本とは多少異なるでしょうが、狭いブロイラーや豚の飼育小屋、飛行機で農薬をまくシーンなど、日本のドキュメントでも観たことがあるので、基本的にはいっしょでしょう。
動物は日頃スーパーで買う時は、綺麗にパック詰めされているため、命の恵みをいただいている、という感覚は希薄です。日頃は知っているのに目をそむけている部分なんですが、ここがガシガシ目の当たりにさせられます。
とにかく「生き物」ではなく、「物」なんですね。ヒヨコなんか、ベルトコンベアーに鉄砲玉のように飛ばされて選別されるし、魚ってあんな機械で無味乾燥にさばくのかと、びっくりします。日本のスーパーでは、人の手でさばくことも多いかと思いますが、加工工場では、やはりこうなのでしょうね。無味乾燥と言えば、鳥や豚の屠殺もそうです。動物たちをボタン一つで絞め、ボタン一つでかっさばいて行きます。真っ二つになっていく牛や豚からは、大量の血液や内臓、体液が出てきますが、ジェットシャワーできれいになって吊下げられ、それを工場で働く人たちは、淡々と切り落としていきます。
私が一番牛を気の毒だなと思ったのは屠殺ではなく、種付けです。正確にいうと、種付けのための精液をとるのに、前に当て馬(いや当て牛か?)の牝の牛一匹あてがい、興奮した牡牛の射精した精液だけを採取する場面です。しかし交配して品種改良したお肉を作るには、これが一番コストが安い方法なんでしょうね。これは全然知りませんでした。
日本では食品偽装があちこちで起こっています。当事者のある会社の社長が、「こんな安い値段で売れるなんて、偽装していると思わない消費者の方がおかしい」と発言して、問題になりましたが、言い方はもちろんバツですし、偽装は絶対ダメですが、安く流通させるには、やはりそれなりの方法があるわけで。こういう「企業努力」という名の、大量生産の方法で生まれた、薄利多売の品を買うか買わないか、それはあなた次第ですよと、画面から言われ続けます。
スクリーンからは結構ショッキングなシーンも映されますが、そこには本当に作り手の意図は含まれず、善悪もなく、否定も肯定もありません。自分で観て考えて下さいという気持ちが伝わってきて、そこがとても気に入りました。
以前観たドキュメンタリーで、遊牧民が羊を絞める時、一敵の血もこぼさないように気をつけていました。そこへ「命の恵みをいただくのだから、ひとつも無駄にしてはいけないのです」との、ナレーションが流れました。別のドキュメントでは、名のある料理人が、生き物の命を料理するのだからと、 毎日仕事の開始と終わりに、塩でまな板を清め、祈りの様子を映していました。
地球上の生き物の長である人間は、他の生き物の恵みをいただいて生かせてもらっている、それを忘れてはいけないのだと、ある意味スクリーンに映されることとは真逆のことを、私は一番痛感しました。この作品は、人それぞれに感情が湧いて、どれもが正しい作品のように感じます。
さてヒヨコなんですが、大阪では縁日のことを夜店と言い、昔は「ヒヨコ釣り」なるものがありました。選別された雄のヒヨコを、黄色のカラースプレーで可愛く元気に見えるようお化粧して、まーるい箱にいっぱい入っているのを釣るんです。釣ると一匹もらえるのですが、うちの夫は中学の時、それを釣ってきて、毎朝5時に「コケコッコー!」と鳴くまでに大きくしたのだそう。温度調節やら、育てるのは難しいヒヨコをそこまでにしたので、夫は得意満面で、ピー助かピーコか、名前までつけ、ペットのように可愛がっていたそうです。
しかし家を勝手に出て行っては、近所の軒先の植木をひっくり返したり、早朝に鳴くしで、近所では顰蹙ものだったとか。家族も迷惑していたそうですが、夫一人、大事に育てていたんだとか。
それがある日学校から帰宅すると、ピー助がいない。そして晩ご飯はサムゲタン・・・。「あの日から一ヶ月はオカンとは、口利かんかったわ」。大人になった今では、亡き姑の気持ちもわかると言うものの、当時夫は本当に哀しかったんだとか。
サムゲタンの一番の高級品は、烏骨鶏という品種を使ったものです。烏骨鶏の飼育は、広い場所での放し飼いが基本で、いわば毎日健康に育った鶏です。生まれた時から身動きできない場所で、人間の口に入るため餌だけ与えられたブロイラーたちと比べると、ピー助の一生は、それなりに幸せだったんじゃないかと、この作品を観て思い出しました。
あぁ観て良かった!忙しさにかまけて、遅々として進まぬ映画スケジュールなんですが、本日は久し振りに梅田ガーデンシネマではしごです。内モンゴルを舞台にした作品で、主演のユー・ナン以外は、現地の遊牧民に演じてもらったと言う珍しい作品です。昨年度ベルリン映画祭金熊賞グランプリ受賞作。
内モンゴルの遊牧民の妻であるトゥヤー(ユー・ナン)。夫のバータルは井戸掘りの事故で障害者となり、一家の働き手は彼女一人です。子供を二人抱え、過酷な労働の日々に、トゥヤーは体を壊してしまいます。見かねたバータルの姉は、自分が弟を引き取るから、離婚しろとトゥヤーに勧めます。夫のバータルも同意して、彼女に再婚しろと言います。仕方なしに同意するトゥヤーですが、彼女の再婚の条件は、バータルも共に面倒をみてくれる人という、仰天するものでした。
今回ネタバレです。 このあらすじを読んだ時、絶対観ようと思いました。読んだだけでトゥヤーという女性が好きになり、その心情が理解出来ました。どんなにたくましく素敵な人かと想像しましたが、想像を超える誇りに満ちた人でもありました。
主演のユー・ナンは、ノーメイクで日焼けした、かの地の女性になり切った熱演で、素晴らしかったです。現地の人の中に混ざっても、全く浮いた感じがありません。女優らしく着飾った姿はとても美しい人で、次回作はあのウォシャオスキー兄弟の作品だとか。
羊の放牧に毎日の水くみが二往復30キロの道のり。そしてガスもなく最小限の電気を使っての、文明とは程遠い生活。都会に住む者には雄大な自然に思えるこの土地ですが、生活するには厳しすぎる場所だと感じます。何故仕事がありそうな都会へ移らないのか?との疑問も出るでしょうが、自分たちのアイデンティティーの詰まったこの土地に、彼らが拘り愛着を持ち、離れがたくしているのを、さりげなく随所で演出していて、納得出来ます。
息子のザヤを呼ぶ時、トゥヤーはいつもけたたましく、少し怒ったような口調です。母親がそんな態度で子供に接する時は、心にも時間にも余裕がない時です。「お父さんが動けなくなり、男の子のお前が頼りなんだよ」と言いつつ、まだ幼ないザヤには無理な相談だとは、彼女が一番知っていたでしょう。わかっているのに言わずにいられないのでしょう。隣人のセンゲーが、トゥヤーに向かって、「男が欲しいんだろ!」と、からかって言いますが、それは「働いて家族を守ってくれる男」という意味だと思います。
病に倒れたトゥヤーが義姉に、「バータルは?」と聞くと、「死にたいだとさ。死んでくれたら、私も嫁(トゥヤーのこと)も嬉しいよと答えてやったさ」と、言います。その愛情のこもった毒舌ぶりに、やっと微笑むトゥヤー。夫を早くに亡くし、6人の子供を女で一つで育てた義姉は、それがお酒の力を借りなければやり過ごせないほど大変だったと語り、再婚を勧めるのは、義妹にはそんな苦労をさせたくないとの思いも感じるのです。厳しい自然に囲まれたかの地では、女が子供を育てるには、男性が必要不可欠なのだと感じます。色々な国の作品を観ていますが、女性が自分の口を養える仕事を選べるのは、先進国だけなのでしょう。
まだ若くて美人、そして気立ての良いトゥヤーには、求婚者が殺到しますが、皆バータルの件で難色を示します。そんな時、トゥヤーの中学の同級生だったボロルが現れます。当時からずっと彼女が好きだったボロルは今は石油の仕事で成功し、彼女に求婚。バータルは介護施設で手厚く介護してもらおうと言います。
夫と自分たちの生活のために、ボロルとの再婚を決意するトゥヤー。そこには夫への愛はあっても、ボロルへの愛はありません。しかし家族と離れて、生きていく甲斐のなくなったバータルは、手首を切って自殺を図ります。この土地で障害者となるということは、一生厄介者の人生です。しかし傍に妻子がいることが、バータルの生きるよすがだったと思います。張り詰めていた糸が切れたのですね。
優しく夫を慰めるかと思ったトゥヤーですが、一命を取り留めた夫に罵詈雑言を浴びせます。そして子供たちを抱きしめ、「家族の誰も死なせない!」と叫びます。ここで号泣する私。そうなのです。子供がいなければ、夫婦二人で死んでもいい。でも子供のために、そんな無様なことは出来ません。何としても生きなければ。トゥヤーのその気持ちを支えているのは、バータルが生きていてくれることなのです。例え離婚して夫ではなくなっても、トゥヤーにとってバータルは、大切な家族であることには変わりないのですから。
ボロルは離婚経験があり、今は大金持ちですが、浮き沈みのある人生を送って来た人です。お金で動く人の心の卑しさを、いやというほど見てきたはずなのに、ずっと想い続けてきたトゥヤーを我がものにしようとした時、彼が使ったのは、やはりお金でした。そのことで傷つき反省しているボロルの様子が映され、少しほっとします。
この一件で、ボロルとの結婚を断ったトゥヤーでしたが、ずっと近くでトゥヤーを見続けていたセンゲーは、尻軽女房とは別れるので、トゥヤーに結婚して欲しいと言います。もちろんバータルは自分を養うとも。人がいいばかりで甲斐性がなく、不実な妻の言いなりだったセンゲーですが、決してろくでなしなどではありません。それは近くにいた、トゥヤーが一番知っています。求婚を受け入れる彼女。その気持ちには、ボロルの時とは違う、夫のため子供のためというだけではなく、夫として愛して行ける人だと、彼女が思えたからだと思います。財力に左右されず、自分が愛して行ける人かどうかで再婚相手を選んだ彼女。そこに人としての誇りを感じました。
そして結婚式。様々な不安が襲い、人知れず涙する彼女。ずっと歩かないバータルが、一度だけ松葉杖をついて歩くシーンがありました。それまで半身不随だと思っていたのですが、男性機能は大丈夫なのでしょう。これからはトゥヤーは、子供たちだけではなく、バータルにとっても母となり、妻ではなくなります。男性として耐えがたい屈辱と同時に、妻子の幸せを願うバータルもいるはずです。
トゥヤーにしてもセンゲーにしても、これから愛を育んでいけば、それは二人にとって幸せでもあり、バータルに対して罪悪感も感じ続けるはず。この複雑な思いを抱き続け、この家族のお話は続くのです。それを表したトゥヤーの涙。しかし生きる事に誠実でたくましく、一生懸命な「三人の親」を持った二人の子供は、必ずやこれを糧に、立派に成長してくれるでしょう。
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