ケイケイの映画日記
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2008年02月29日(金) 「潜水服は蝶の夢を見る」




実は今月の20日に、84歳の姑が入院しました。危険な状態からは脱しましたが、体のために薬の力を借りて、昏々と眠り続ける毎日です。毎日短時間の見舞いには通っていますが、家族は何も出来ず、不安なまま一週間が過ぎて行きましたが、主治医の話によると、長期入院も想定して欲しいとの事。ここは腰を落ち着けて、いつもの日常に見舞いを組み込む方向が良いと判断し、久々に劇場へ向かいました。とても楽しみにしていた作品ですが、今の私には辛いかとも、鑑賞前には考えていました。しかしこれがとんでもなくタイムリーな鑑賞となり、大泣きに泣いた後、清々しい感情が私を包みました。

42歳の「ELLE」誌編集長のジャン=ドミニク・ボビー(マチュー・アマルリック)。彼が目覚めたそこは、病院のベッドの上でした。脳梗塞を起こし三週間昏睡だったのです。一命は取り留めたものの、体は動かず話しも出来ず。ロックト・イン・シンドローム(閉じ込め症候群)と言われる症状になっていました。リハビリに力を入れる病院は、言語療法士のアンリエット(マリ=ジョゼ・クローズ)と理学療法士のマリー(オラツ・ロペス・ヘレメンディア)を、彼の元に寄こします。アンリエットの提案は、ジャンが唯一動く左の瞼を使い、口述のアルファベットを使い会話すると言う方法です。使いたい文字が来たら、瞬きを一度し、言葉を書きとめるのです。その方法を使って、ジャン・ドゥーは自伝を書こうと思い立ちます。

ファーストシーンは、ジャン・ドゥー(彼の愛称)がベッドの上で唯一動く目から、周りの状況を見ている構図です。そして彼の心の独白が入ります。わずかな視野、医師の語りかけに、皮肉交じりで答えるジャンの独白が、今の彼の状況を端的に表し、観客はすぐにジャンの心を掴めるようになっています。

本来ならこれでもかと涙を振り絞り、美談に仕立てあげるプロットなのに、とても淡々と日々は過ぎて行きます。もちろん彼が重度の障害を負っているというのは、各シーンで印象付けられるのですが、過剰な思い入れがなく、むしろ作り手は客観的ですらあります。しかしあざとさや、似非ヒューマニズムは欠片もないのに、もう泣けて泣けて。これは私だけではなく、劇場はすすり泣きがいっぱいだったので、観る者の心を柔らかく刺激したのでしょう。

撮影は名手ヤヌス・カミンスキー。全然知らなくて、最初のクレジットに名前が出たので、大いに期待しました。スクリーンが映す自然の描写はとても美しく、特に私が感嘆したのは、風にそよぐ様々なシーンです。髪がそよぎ、スカートがめくれ、陽光降り注ぐ窓のカーテンはひらひら、砂浜の砂はさわさわ。生の実感を感じさせます。

お国柄なのか、ジャン・ドゥーの日常は、少し辛辣なユーモアと、官能に満ちているのに驚かされます。何せ別れた子供たちの母セリーヌ(エマニエル・セニエ)を筆頭に、彼の周りは美女ばかり。ジャンとは至近で接するので、彼女たちの豊な胸元、魅惑的な唇、風でスカートがめくれ見える美しい太ももなどが、動けないジャンの煩悩を刺激する様子が、とても印象深いです。体は決して反応しなくても、男盛りの人が欲望に苛まれるのは、当たり前の事だから。

「彼は植物状態になったと聞いたわ」という電話の声に、<俺が植物だって?花か木になったというのか?>と憤慨する彼の独白が入ります。ジャン・ドゥーは動けないだけで、普通の喜怒哀楽の感情を持つ人間で、決して生ける屍ではありません。

それが証拠に、彼の周りの美女たちは、一患者という以上に、ジャン・ドゥーに親近感を持ち、魅了されていきます。口述筆記ならぬ「まばたき筆記」の代筆者クロード(アンヌ・コンシニ)しかり。大変な労力と忍耐力が必要なこの方法であっても、彼と会話したい、次の文章は何だろうか?聞き手の好奇心を駆り立てるような知性やユーモアが、ジャン・ドゥーには備わっていたのでしょう。障害を負う前から変わりなく。病を得る前からの人生の有り方は、その後の人生も左右するように感じました。

ジャン・ドゥーが自暴自棄にならなかったのは、「記憶と想像力」に長けていたからです。スキーをした記憶、恋人と旅行をした記憶、三人の子供たちと遊んだ記憶。口から食べられない彼は、今まで食したあらん限りの贅沢な御馳走を想像し、傍らにいる、今一番のお気に入りの美女クロードと食事をするのです。この様子はかなりエロティックで、食欲と性欲は密接に関係があるのだと、粋に大人っぽく表現していました。

老いた父(マックス・フォン・シドー)との電話越しの「会話」は、シドーの、老いの黄昏を滲ませた抜群の好演もあって、本当に泣かされました。「父の日」に、ジャン・ドゥーの三人の子供たちは、父を訪れます。<昔は鬱陶しかった「父の日」。それがこんなに嬉しいとは>という彼の独白は、何かを失って初めて大切なものに気付くと言う、誰にでもありがちなことを、教えてくれます。

彼の心が荒まなかったのは、何故だろうと考えます。奇跡を否定しながら、自由に歩ける自分を想像するジャン・ドゥー。それは希望と言えるものなんでしょうか?本を書くのも希望だったでしょう。しかし一番に彼の心を支えたのは、物言えぬ赤ちゃん同然の彼を、人として男性として、周囲が接したからではないでしょうか?そこには憐れみはありません。人として生きるのは当たり前だという、強制ではない自然な心が感じられました。

闘病ものというと、医療者側は医師が描かれることが多く、この作品のように、いわゆるコメディカルと呼ばれる医師以外の言語療法士が、医療者側として主に登場するのは、とても斬新な気がしました。地味な分野ではありますが、病状が安定してお世話になるのは、この人たちです。コメディカルさんたちの存在の重要さが、認識されればいいなと思いました。

介護の実態は厳しいものです。18年前実母ががんで病院に入院していても、私には幼い上の子たちもいて、疲労困憊になりました。勝手に離婚し、自分の身内とも縁を切り、私と妹だけしか世話する人がいない状態にした母を、憎いとさえ思いました。だから老々介護の末に、心中という記事を読むにつけ、どんなに辛かっただろうと、私は理解出来るのです。このように病院で手厚い介護を受け、別れた子供たちの母親、子どもたち、友人や新たな友(クロード)がそこかしこにいるジャン・ドゥーは、ある意味理想的だったのでしょう。

しかしこれは実話です。実話ほど勇気づけるものはありません。姑が無事退院出来たとして、年齢からして、その後は辛いリハビリが待ち受けているでしょう。幸い周りに人手はたくさんあります。実母の時は病院で世話した帰り、もうすぐ母は死ぬのだと、泣きながら自転車を走らせた私。息子たちの待っている幼稚園の前で涙をぬぐい、「私もお母さんなんだ」と母親に戻った日々が懐かしく思い起こされます。今はその時は影も形もなかった15歳の三男が、時折姑の行く末に涙ぐむ私の背中をさすってくれます。ありがとう、お婆ちゃん。長生きしてくれたおかげで、みんなでお世話出来るよ。だから必ず退院してね。


2008年02月20日(水) 「マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋」




多分お友達各位には、素通りされる作品。でも私は本気ですごく楽しみにしていました。私の子供の頃は、アニメなら「魔法使いサリー」、アメリカのドラマなら「奥さまは魔女」「可愛い魔女ジニー」など、毎週楽しみにしていたものです。なので魔法というと、壮大なイリュージョンではなく、日常生活の延長に起こるシチュエーションが大好きなわけ。なので今回、その魔法使い役がダスティン・ホフマンだというので、本当にすんごく楽しみにしていました。が・・・微妙・・・。



画像は「可愛い魔女ジニー」のバーバラ・イーデン。私はね、ずっとジェシカ・アルバにこの衣装を着てもらって、映画化して欲しいと思っています。「殿」はユアン・マクレガーでお願い。





マゴリアムおじさん(ダスティン・ホフマン)の「不思議なおもちゃ屋」は、創業113年。今はかつて天才少女ピアニストだった店長のモリー(ナタリー・ポートマン)と、近所の9歳のエリック(ザック・ミルズ)に手伝ってもらっています。しかし243歳の誕生日を迎えたマゴリアムおじさんは、突如隠居を宣言。この店をモリーに譲ると言います。手始めにこのおもちゃ屋の値打ちは幾らか、会計士のヘンリー(ジェイソン・ベイトマン)に来てもらうことになりました。しかしおじさんが隠居することに不満な店やおもちゃたちは、反乱を起こします。

まずこのお話は、決して子供だけに向けたお話じゃありません。それなのに、私の観たラインシネマは吹き替え版のみ上映です。上映側の迷いは作品の視点の定まらなさと、散漫な演出からきたものかも。

モリーはかつて天才少女ピアニストとして、将来を期待されていたのに、23歳の今では、すっかり自信を失くしています。彼女はマゴリアムおじさんの魔法の力を信じていますが、それは日々彼の元で働く幸せが、憔悴した彼女の心を救ったであろうことは、想像に難くはありません。しかし肝心の魔法がなぁ。

おもちゃ屋の造形はカラフルでとても楽しく、店全体が不思議な魔法仕掛けになっているのは、とても楽しいです。特に私が気に入ったのは、ダイヤルを回すとおじさんの家の階段になったり、スーパーボールがピョンピョン跳ねる部屋になったりするところ。でもおじさんが宙づりになって眠るところや、魔法を使って何かをする場面がほとんどありません。シマ馬を家に飼っているのですが、別にそれだけのこと。空を飛ぶわけでもなく、サマンサのように鼻をピコピコ動かして、そこいらのモノを舞いあがらせるわけでもありません。ちょっと肩すかし。

普通は243歳の人なんているはずもなく、頭の堅いヘンリーのように、「ありえない」と反応するものでしょう。その普通の人のヘンリーに対して、夢がないユーモアがないと、毛嫌いするモリーにはちょっと閉口します。何故なら、どうしてモリーがおじさんと出会ったか、おじさんを信じ敬愛するようになった過程などが、全然描かれていないからです。

エリックもしかり。彼は友人がおらず、そのことで母親が頭を悩ますのは当然です。しかしちょっと変な子だとは感じても、周りの子供たちが彼を遠ざける理由の描き方が希薄。私には彼こそ周りの子供たちから、身を遠ざけたいように感じました。大人過ぎるのです。物の考え方が理路整然として、可愛くない。それがどこから来るのか描けていないので、膨大な帽子のコレクションが上手く機能していませんし、家にヘンリーを招き入れての打ち解け方は唐突で意味不明。お堅いヘンリーの、何があんなことをさせたのかを描かないと。

そしてラスト。暗黒になったおもちゃ屋が、再び芽吹く映像はものすごく楽しくて、やっと魔法のおもちゃ屋の面目躍如でした。しかしそこまでくるのに、落ち込んでばかりのモリーを描くので、謎が隠されている木のキューブ一つで説明してしまうのは、とっても乱暴です。だってモリーは最初からおじさんの魔法を信じていたんですから。なので「さぁ自分(モリー自身)を信じて」というヘンリーの言葉のあとの激変は、無理があります。ここもモリーの成長か、ヘンリーが魔法を信じたからか、どっちつかずの描き方です。

自分が周囲の期待を裏切ったと落ち込むことは、人生には何度か出てくる場面です。しかし裏切ったものではなく、別の所に自分が花開く場所があるというのも、またしかり。挫折を乗り越え、人生は一本道じゃないんだよと言いたいと、私は受け取りました。しかし!要するにアイデアやプロットは良いのですが、詰めが甘いのです。想像力を掻きたてる演出が単調で雑なので、心が動かされません。本当に惜しいなぁ。

しかし演じ手は愛らしいファンタジーらしく、皆素直な好演でした。特にホフマンとポートマンの「子弟」の姿は、演出以上にお互いに敬意と愛を持っているのが伺え、しみじみします。私がとても印象に残ったのは、おじさんが次々と違う帽子をかぶるエリックに、「いい帽子だ!」と、絶対笑顔で褒めること。それがエリックに対する最大の称賛だと知っているのですね。他にもガラス越しで字で会話する場面に、人付き合いの苦手な人の不器用さを、愛を込めて描いていたところが好きです。

いい場面も本当にあったんですよ。ちょっと辛い感想ですけど、監督のザック・ヘルムはこれが初監督。元は脚本家です。良い脚本を映像化する難しさを一番感じているのは、監督かも。次回に期待します。モリーになってね。


2008年02月17日(日) 「何が彼女をそうさせたか」(帝キネ映画・故郷に帰る)

昭5年作の無声映画で、その年のキネマ旬報の一位に輝いた作品。大正から昭和の初期に活動していた「東洋のハリウッド」と呼ばれていた帝国キネマの作品で、活動場所は東大阪でした。残念ながら隆盛誇る時代に火事で全焼し、その後撮影所は京都の太奏に映ったそうです。その跡地に私の母校の一部が建てられたことで、「帝キネ映画・故郷に帰る」というタイトルで、私の母校の講堂で上映が実現しました。当日は友人のシューテツさん、タカさん、ぼんちあげさんと四人での鑑賞で、まず軽くお茶しながらのミニオフ会で盛り上がり、いざ我が母校へ。

8年通った母校へは、実に20数年ぶりに訪れましたが、それほど雰囲気も変わっておらず懐かしさがいっぱい。中・高・大学と、行事の度に使いまわししていた講堂は、冬はアラスカのような寒さが記憶に残っていましたが、それなりの(というか、物珍しい)暖房装置が入っており、おかげで鑑賞に集中出来ました。私の鑑賞後の第一声は、「これ『嫌われ松子』やん!」です。いや松子の方がずっと可哀想でしたが。実に有意義な鑑賞でございました。今回全編ネタバレです。

昭和初期の日本。貧しい境遇の少女すみ子(高津慶子)は、失業中の父から手紙を託され、叔父の元へ行くこととなります。そこでは学校に通うことが可能だと思っていたすみ子ですが、数奇な運命に弄ばれる始まりでした。

もっと退屈するかと思っていたんですが、とんでもない!冒頭の畑の中の一本道のロケ―ションは、私が通い慣れた学校の大昔の風景だったんだなぁと思うと、その時代は影も形もなかった私ですが、観ていて何故か懐かしさがこみ上げてきます。小阪という土地への愛情をくすぐられたのでしょうね。

人の好い車夫のおじいさんの好意で、口いっぱいにご飯を頬張るすみ子の健啖ぶりは、貧しさとはひもじいことだと教えてくれます。その後叔父のところに身を寄せた彼女。そこは絵に描いたような貧乏人の子だくさんで、彼女は厄介者扱いなのですが、父から叔父にしたためた手紙にはお金が包んであり、すみ子の父は自殺したようです。あろうことか、お金だけ取り叔父は彼女をサーカスに売り飛ばします。

一目で人買いとわかる人が出てきて、「あぁ女郎になるんやわ・・・」とてっきり思っていた私ですが、売られた場所はサーカスでした。鑑賞後四人で感想を言い合ったのですが「あそこは女郎さんになると思ってました。子供も観る映画やから、ああしたんですか?」と私が言うと、シューテツさんが「女優が老けているのでわかりにくいけど、あの子は子供やねん。」と仰る。なるほど!そう言えば私が子供の頃でも、日が暮れて外で遊んでいると祖母が、「子盗りにさらわれて、サーカスに売られるで」と、呼びにきたもんです。
(しかし幼い頃の私は、たくさんの小鳥が椅子に私を乗せて、空中ブランコのように空まで運ぶと思っていたので、一度さらわれてみたいと思っていたのだな。)

サーカスでも過酷な日々が待っていたすみ子。そこはすみ子のような孤児たちが集められ、みんなが劣悪な環境に身を置いていました。団長の横暴に我慢出来なくなった団員たちは、暴動を起こします。正に「芸人一揆」。昔の人は過酷な運命に我慢するというすり込みのある私は、ここでちょっとびっくり。でもこれは小気味良かったです。

その中で淡い恋心を抱き合っていた新太郎と出奔したすみ子ですが、運命のいたずらで離れ離れに。この時のすれ違いのシーンや、車夫のおじいさんが、心づくしの小金をすみ子の財布に入れたことが、数々の出来事を引き起こすなど、小技の演出は今でも充分通用する手法です。

一人ぼっちになったすみ子は、訳も分からず詐欺団の手先に使われ、警察に捕まります。裁判の後養育院送りへ。養育院というのは、どうも自立支援所のような感じですが、ここでも環境は劣悪です。院の中の一人が「ここは私立なので、院長が金をぼっている。やっぱり公立でないとダメだ」というセリフが入ります。この作品の原作は左翼作家の藤森成吉だそうで、この辺のセリフは面目躍如というところでしょうか?

その後若い彼女は議員の小間使いとして仕事を斡旋されます。しかしブルジョワで高慢な奥様とお嬢様に疑問を抱き、自分をあざけ蔑む奥様に、啖呵を切って皿を投げつけるすみ子・・・。

はぁ?はい?あんた、ちょっと辛抱が足らんのんちゃう?

この時代、女が皿を投げるなんてね、70年代に星一徹がちゃぶ台ひっくり返すよりインパクト大ですよ。屈辱を跳ね返すその心意気は良しなんですが、「ヒトラーの贋札」で、ひどい屈辱に耐え、自尊心と引き換えに己が命を守ったユダヤ人たちを観たばっかりだったので、貧しいことは、命までは取られないのだと認識してしまいました。

そしてまた養育院に送り返されたすみ子は、その後琵琶のお師匠さん宅の住み込み女中となります。そこで偶然に新太郎と再会。その様子を見ていた師匠は、憎からず思っていた彼女に手をだしますが未遂。謝罪する師匠を尻目に、すみ子は新太郎の元へ。そして二人は晴れて結婚。

まぁここまで観るとね、いたいけな可哀想な少女を観る気で臨んだ私ですが、実に旺盛な行動力と生命力であると、感嘆しきりになります。鑑賞後に読んだパンフレットには「見事に少女の孤独を表わし」とありますが、どこが孤独やねん、ガシガシたくましく、運命を乗り越えてるじゃないかと思う私。

しかし幸せな生活も束の間、新太郎の仕事が失敗し、金の算段もつかなくなった二人は心中をはかります。しかし一命は取り留めます。そしてすみ子は、自殺しようとしたことで、宗教団体の「天使の園」送りに。ここで夫に宛てた手紙がバレ、(修道院のようなところなので、男に手紙を書くなんてもっての他)、みんなの前で懺悔しろと教主に迫られるすみ子。壇上で恥ずかしくて出来ないすみ子に代わり、事の顛末を話そうとして教主をすみ子はさえぎり、「私は何も悪い事はしていないわ!神が私を救ってくれるなんて、全部嘘っぱちよ!」と、教会に火をつけます(!!!!!)。そして逮捕。

あまりの出来事に目が点になる私。すみ子は大人になるに従って、どんどん自我が芽生え、耐え忍ぶと言う部分が全くなくなるのです。「全然歯を食いしばってませんでしたね」とその辺にびっくりした私に、シューテツさんいわく「プロレタリアは、歯を食いしばったら、あかんねん」、だそう。なるほど、怒りを社会に向けて、戦わねばならないのですね!

でもそう思うとですね、失業で心中というのは、如何にも軟弱なんと違います?それとも這いつくばって、体売ってでも生きようと言うのは、資本主義の手先であり、プロレタリアでは極悪なんでしょうか?(シューテツさんに聞いてみようっと)。私ならあんなに可愛くて若かったら、例え妾でも養ってくれそうな男の人を、まっ先に探すと思ったので不思議でした(へたれで申し訳ない)。

貧乏は諸悪の根源、格差社会を作る政治に全て罪がある、という作りでした。そう言えばすみ子の父の手紙は、文盲のすみ子は読めず、その他の人々も読めない人多数でした。思えばあの手紙をすみ子が読めれば、この悲劇は起こらなかったので、平等に教育を受けられないことを、批判していたのでしょう。

貧乏人は全て善で、支配者階級は全て悪という描き方は、資本主義にどっぷり遣った私には、少々違和感がありましたが、昔の虐げられた人々は、全てが歯を食いしばって耐え忍ぶと思っていたので、ある種痛快なすみ子の人生でした。この今の時代に通じる感覚は、すごく新鮮でした。でも当時は悲劇として受け取られていたのは、よく理解できる作りでした。最初と最後だけフィルムが欠けているので、台詞で修復していたのがすごく残念でした。こんな機会があれば、また足を運ぼうと思いました。上映に尽力して下さった皆さん、どうもありがとうございました。


2008年02月15日(金) 「ヒトラーの贋札」




面白かった!ナチス時代のドイツを描いているので、ジャンル的にはホロコースト物だと予想していましたが、その手の味付けは薄味ながら、ナチスに弄ばれる人々の心を深々と描きつつ、娯楽色の強いサスペンスタッチも冴えた秀作でした。本年度のオスカー外国語賞にもノミネートされている作品で、実話を元にしています。



第二次大戦中のドイツ。ユダヤ人の贋札・偽造パスポート作りの名人ソロヴィッツ(カール・マルコヴィクス)は、ナチス親衛隊のヘルツォーク(デーヴィット・シュトリーゾフ)の罠によって捕まり、収容所へ送られます。そこで数年を経たソロヴィッツですが、収容所の数人と共に、ラクゼンハウゼン収容所の移送されます。そこには昇進したヘルツォークがいました。移送された者はソロヴィッツの他には、印刷工のブルガー(アウグスト・ディール)や美大生のコーリャなどです。彼らは「ベルンハルト作戦」と名付けられた、イギリスの経済を陥れるための、ポンド紙幣の偽造のために集められたのでした。

正に「芸は身を助ける」です。ソロヴィッツは苦しむ同胞を尻目に、腕を頼りの一匹狼の小悪党でした。まさかそれが自分の身を助けるとは、思っていなかったでしょう。「同胞って何だ?関係ない」とうそぶく彼ですが、「ベルンハルト作戦」のチームリーダーに抜擢されては、そうはいきません。贋札をちゃんと作れるかどうか、同じ仕事に就いている同胞の命がかかっているのです。

今の収容所には暖かく清潔なベッド、満足の得られる食事と休息、適切な治療。何もかもが家畜以下の以前の収容所とは段違いです。束の間の人間らしい生活に、今の境遇を忘れそうになるユダヤ人たち。しかし偽造に従事する彼らだけを囲んだ塀の外では、他の収容所と同じ、虫けらのような扱いを受ける同胞たちの様子が伺えるにつれ、チームの者にも不協和音が響きます。

彼らは命令を果たせなければ、死が待っています。しかし成功すれば命や待遇は守られるが、ナチスの力を増大させ、同胞たちの苦しみは増すばかり。
助け合いながら、まずは自分たちの命を優先させる者が多数の中、明確に反ナチス活動をしていたブルガーだけが、命令に背こうとします。

しかし一人が背くと、他のみんなの命も危なくなるのです。一匹狼のはずが、否応なく、みんなをまとめる役目をしなくてはいけないソロヴィッツ。誰もが正当な、理解出来る態度をとる中、ソロヴィッツがどう出るか、とてもドキドキします。それは観客が、「もしあなたがソロヴィッツなら、どうしますか?」と、監督から問いかけられているようです。

「自分は暖かいベッドが与えられているのに、妻はアウシュビッツだ」と涙ぐむブルガーに、ソロヴィッツは、「泣くな。泣くとあいつたち(ゲシュタポ)が喜ぶだけだ」と、冷静な言葉を吐きます。妻や子供はどこにいるのか?もう亡くなったのか、他の収容所にいるのか、それともまだ隠れているのか?それによって、格々微妙に生への執着が違うのです。ブルガーが明確に自分の心に正直になったのは、妻の行く末を知ってからです。過酷な状況の中、「生きる」ということは心の支えがなくば、自分一人では本当に辛い事なのでしょう。

冒頭は戦後のシーンで、モンテカルロに来ているソロヴィッツでした。猫背で狭い肩幅、少しハゲた頭にハンサムとは言い難い貧相な男でした。しかし作品のほとんどを埋める回想シーンのリーダーである彼は、どうやって仲間を守るか、裏切りをさせないか、みんなをまとめるのに四苦八苦の彼は、とても男らしく素敵で、小悪党では決してありません。イデオロギーもなく、自分だけ良ければだった彼が、身近な同胞、そして塀の外への同胞のためどうすべきか?常に心に留める男になって行きます。観ている内に、冒頭の彼の姿は、全てが終わった後の、虚脱感がなせる姿なのだなぁと、しんみりとしました。

一心に心を砕き、若いコーリャを誰よりも愛しむソロヴィッツ。彼にとっては、若いコーリャの生を守る事が、支えであったように思います。それがラストの展開へと結ばれていきます。

親衛隊の数々の蛮行を映しながら、この作品も決して自虐的なドイツ映画ではありません。私の記憶に残ったのは、豪気なソロヴィッツのしたたかさと、生への執念を燃やすユダヤ人たちの心でした。それはユダヤ人たちの心を、讃えているようにも感じるのです。戦争で何があったのか?正しく自国民、そして他国の人へ知ってもらうのは、私は加害者側の最大の謝罪ではないかと思います。



2008年02月12日(火) 「チーム・バチスタの栄光」




本日観てきました。本当はラインシネマで、エリア・カザンの「波止場」を観るつもりだったんですが、ずっと濃厚に楽しむ作品が続いたので、ちょっとこの辺でクールダウンというか、息抜きしたくなったので、この作品にしました。原作は現役医師の海堂尊(私は未読)。映画の方は描き込みが浅いため、少し物足らない出来ですが、原作が言いたいことは、私にはそれなり伝わり、平凡な出来ですがまずまずでした。

東城大学では、アメリカで実績を積んできた桐生(吉川昇司)を助教授に向かえ、拡張型心筋症のバチスタ手術を行っています。驚異的な成功率を誇る「チーム・バチスタ」(バチスタ手術チームの8人)ですが、最近立て続けに三度失敗しています。医療ミスであるのかどうか、穏便にことを進めたい病院側は、解明の調査に心療内科の田口医師(竹内結子)を指名。彼女の調査では「問題無し」。しかし院長(国村隼)の友人で厚生省の役人白鳥(阿部寛)が乗り込んできて、いやがる田口を引き連れ、再調査に乗り出します。

バチスタ手術というのは、ドラマの「医龍」でも出てきて、それなりに知られているのかも知れませんが、私は毎週楽しみにしていた夫とは異なり、一回観て全然面白くなくパスしていたので、今回やっとどのような手術か、わかりました。素人でも難しい手術であるのがよーくわかる解説で、かつ手術には医療者側にたくさんの役割や分担があると、患者側にも教えてくれます。この辺はわかりやすくて秀逸です。

竹内結子の役は、原作では男性医師だそうな。彼女は美人さんですが、上手く「女性の匂い」を消し、天然風のちょっと抜けている田口を、女性としてチャーミングなのではなく、人としてチャーミングに見えるよう、上手く匙加減した好演でした。

心療内科医は、普段患者の死と直面することは少ないでしょう。そのため、初めて患者が手術中に死ぬ場面に立ち合い、その時の焦りや恐怖を、チームのメンバーと一緒に体感したことが、強引でとんでもなく自分勝手な白鳥とともに、再調査しようとしたきっかけだったのでしょう。立派な医師の誠意であると思います。

自分の秘密を隠す桐生、それを手伝うチームの鳴海(池内博之)、そしてある医師がいう「医者にも娯楽が必要だ」。私は原作が言いたかったのは、「医者も人間なんだよ」ということだと思います。医師という職業は高い倫理性とボランティア精神が求めらるものです。ですが、こう昨今医療者不足で猛烈に忙しく、人間らしい暮らしも出来ないほどになると、心も人間離れしてしまい、何が正しく何が悪いのか、判断がつかない医師も出てくるのでしょう。

しかしその辺は医療を提供されるものとして、それなりに意識を持って観ないと、この作りでは見過ごしてしまうでしょう。全体に描き込みが浅く、医師たちのため息や苦悩はあまり聞こえてきません。その中で佐野史郎演ずる垣谷医師の、とある術後の様子は秀逸でした。これは演じた佐野史郎が上手かったからでしょうね。

推理物としては、何故こう推理が出来たのか、伏線や描き込みが浅く、セリフで説明するため、あぁ、そうだったのか!という爽快感に欠けるのが難点。とっても迷惑、でも辣腕の白鳥も、ちょっと魅力が伝わってきませんでした。

しかし患者側には物珍しく勉強になる部分が多い作品で、面白味もそこそこあります。いい医療サービスを受けるのは、患者と医師の信頼が一番。それを実現するには、情報の公開と医師の待遇改善だよなぁと感じます。医師にとって患者に良い医療を施せるのは、患者にとっても医療者側にとっても、幸せなことなんだと、教えてくれる作品でもあります。


2008年02月09日(土) 「ラスト、コーション 色、戒」




「人のセックスを笑うな」の予定でしたが、熱烈な絶賛評価の続出に、予定を変更して観てきました。でも不安もいっぱい。一昨年の春、手術直後にもかかわらず、かの「ブロークバック・マウンテン」を、ヘロヘロの状態で観に行って、まさかの玉砕だった私。家族に隠れて観に行ったのにと、落胆しきりだったのですが、あれも監督はアン・リー作品でした。こういう時外すと、すごーく寂しいのよね。なので期待値を大幅に下げての鑑賞だったのが功を奏しました。皆さんほどではないですが、私も良かったです。

1942年の日本統治下の中国・上海。女子大生のワン・チアチー(タン・ウェイ)は、心を寄せる抗日派の学生クァン(ワン・リー・ホン)に感化され、自分も運動に身を投じます。やがて日本政府に協力する特務機関の要人リー(トニー・レオン)に近づく機会を得た彼らは、貿易商として近づき、暗殺の機会を窺います。貿易相のマイ夫人として、イーに近づくことに成功したチアチーは、彼を誘惑しようとします。


主演のタン・ウェイが素晴らしい。鑑賞前の画像では、魅力の薄い子だと思っていましたが、初登場シーンから若々しい色気を発散していて、息を吞みます。回想シーンでの女学生時代は、野暮ったいけど初々しく愛らしい笑顔も清らかです。それが女スパイとしてイーに近づくうちに、段々と垢ぬけ、妖艶さを見せ始めます。随所に女スパイとしての任務と、イーへの愛に揺れ動く女心を、時には抑え込み、時には激情を募らせ、力の限り熱演しています。全裸の激しいセックスシーンに挑む心意気も立派。多くの観客の共感を呼んだことだと思います。

前半の学生たちの頭でっかちの抗日ぶりは、計画性もなく行きあたりばったりで、失笑を誘います。そういう風に描いてはいますが、それにしては都合よく速攻イーに近づき過ぎ。それといくら演劇をしていたという裏付けがあったにせよ、チアチーがあまりに上手く若き上流夫人を演じて、隙がなさ過ぎです。他のメンバーとは落差があり過ぎ、ここはもう少し尻尾が出るくらいの方が、幼稚ではあっても、彼らの国を思う一生懸命なさが浮かび上がった気がします。

前作の「ブローク・バック〜」でもそうでしたが、アン・リーの演出は脚本には疑問があっても、場面の状況を表したり、登場人物の心を繊細に表現するのが、とても上手です。要所要所に出てくる麻雀シーンもしかり。私は全然麻雀がわからないのですが、あれだけ牌を見せて手元を見せるということは、何か重要な意味があると思うのです。それがわからないのが、悔しくて。

その他の印象深い演出は、グラスやカップについた口紅を、チアチーが拭かなかったことです。どの国でもそうでしょうが、カップについた口紅を拭くのは、大人の女性としてのたしなみです。まだ抗日ごっこの時の若き日のチアチーと、すっかり女スパイとして仕込まれた彼女では、本当は別人のはずです。しかしこのマナー違反を繰り返し描くことは、彼女の幼さは純粋さにも通じている気がしました。

映画では直接描かれてはいませんでしたが、イー夫人(ジョアン・チェン)は、二人の関係に気付いていたと思います。というか、夫人が麻雀に呼ぶ女性は、彼女がさりげなく夫に紹介していたのかも知れません。下賤な女と深い仲になられるより、自分の目に適った相手とそうなってくれる方が、彼女のプライドが保たれたのでしょう。チェンの好演により、数々のセリフに、もう一つの意味を感じさせてくれました。この一見不可解な行動は、そう言う方法でしか、夫を慰められない妻の愛だと感じるし、緊張の解けない仕事に就き、妻にも素顔を見せられない、イーの孤独も際立出せていました。

一見冷静で酷薄そうなイーですが、自分の国を裏切るような今の立場に、割り切れるものでしょうか?誰にも理解されないから、誰にも素顔を見せないイー。憂いをたたえたトニー・レオンの瞳が、そう物語っています。その心は、抗日派にとっては、ただの動く駒のひとつとしてしか思われていないチアチーにも通じる孤独でしょう。

激しいセックスシーンも話題です。荒々しく攻撃的な男の精を受けるその時、女の心には、肉体を通じて自分を愛してやまない男の心も、注がれ続けたのでしょう。そんな気持ちが伝わるので、行為の後に涙を流すチアチーの女心が哀しいです。ただ興味本位に煽情的なだけではなく、充分二人の感情が伝わるシーンでした。


これからこの二人はどうなるのか?イーは本当にチアチーの素性を知らないのか?そういったサスペンスフルな展開の中、チアチーの取った行動は、私の涙を誘いました。あの口紅のついたコーヒーカップが目に浮かびます。

終盤近くの「この指輪は私のものではない」と語るイー。その言葉に観客は救われるのに、イー自身にはとても非情な言葉だという皮肉。トニー・レオンはハリウッドからもオファーが来ているそうですが、アメリカ映画で、この憂いを観たいなぁとも思います。

見事に再現された当時の上海は、全てセットだそうでお見事です。中国の作品で抗日を描くのに、二方の光も影も上手く目くばせ出来ています。これは監督のリーが、台湾出身という中国系でも微妙な位置の人であると言うのが、功を奏しているのでしょうか。

欺瞞・孤独・不倫関係の情欲といった、いわば男女の愛の哀しみの部分を描いているのに、観終わって残るのは、純粋な相手を思う愛です。私は前半で書いたような引っかかりがあったのが、却ってのめり込み加減がほどほどなり、細部に深く味わうことが出来ました。長尺の作品ですが、あっと言う間の154分です。どうぞご覧になって下さい。


2008年02月06日(水) 「夜顔」




1/31に、「やわらかい手」とはしごして観ました。「やわらかい手」終了後、梅田ガーデンシネマからテアトル梅田まで、制限時間は15分少し。大阪在住の方はおわかりでしょう。そう、走ったんです。現在期間限定門限午後4時のため、劇場通いの時間捻出に四苦八苦している所へ、この公開ラッシュでしょう?本当、大変なんですよ。頑張れ、私!いや息子か・・・(全然勉強しとらんが)。この作品は、今年めでたく100歳を迎える現役最長老監督、ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラが、ルイス・ブニュエル監督の「昼顔」のその後を描くということで、すごく楽しみにしていました。しかし面白かったか?というと、超微妙な感覚が残ります。でも格調高かったし、見どころはたくさんあったので、やっぱり観て良かったです。

老紳士アンリ(ミシェル・ピコリ)は、クラシックのコンサートで、昔の友人の妻を見つけます。彼女の名はセヴリーヌ(ビュル・オジエ)。セヴリーヌを追いかけるアンリですが、自分の過去の「ある出来事」を知るアンリとは会いたくない彼女は、逃げ去ります。色々手を尽くしてセヴリーヌと会食の約束を取り付けるアンリ。そこで交わした会話は・・・。

予告編で最大の謎だったのは、アンリは前作と同じくピコリなのに、何故セヴリーヌはカトリーヌ・ドヌーヴから、オジエに交代したか?でした。テアトルで数度予告編を観て、監督はきっとすっかり老成したセヴリーヌを表現したいのだ。今だゴージャスに現役の女感を振りまくドヌーヴじゃ、しっくりいかないと判断したのかも?などなど色々想像していました。鑑賞後の個人的な感想としては、それは当たっていたし、それが超微妙な感想の元でもありました。

アンリは老いたりとは言え、一人でバーへ、それも初めての店で若いバーテン相手に、お洒落で含蓄のある会話を楽しめる人です。店を根城にする二人の老若の娼婦が彼を誘いますが、「彼女たちは天使だよ」とお酒を御馳走しますが、買うことはしません。若いバーテンも、年寄りの戯言に付き合うと言う感じはなく、アンリとの会話を楽しんでいます。この恰幅の良さや余裕は、男としてのは高い経験値がモノを言い、若い男じゃ出せない艶です。あぁなんて素敵。特にカッコいいのが、チップの使い方です。自分を高く印象付ける初めての店での不足のない額のチップ、セヴリーヌの居場所を突き止めるための、フロント係に渡すチップ。ピンポイントを押さえたお金の使い方は、あちこちお金をばらまく、そこいらの成金とは一味も二味も違います。

一つ間違えばストーカーのようなセヴリーヌへの執着ぶりですが、前作でもアンリはセヴリーヌから嫌われていましたが、彼女を追いかけまわしていましたから、合点はいきます。それよりもその感情が、老人となった今も続いている方が驚異的。枯れもせず渋くもならず、ひたすら戻った恋しい人を追いかける様子が色っぽくて、現役の男だと感じさせ、下品ないやらしさは皆無です。

何とかセヴリーヌと会食の席を設けるアンリ。そのレストランはケバケバしさがなく、調度品やサービスなど素晴らしく、相当格式高いところだとわかります。いくら恋しい人とは言え、老女相手にこんなにお金使って、フランスの男は違うわ(うっとり)。しかし対するセヴリーヌがですね・・・。

オジエは70歳前の人で、スタイルもよくブランド品のスーツを美しく着こなし、ヒールのあるパンプスを履いて、こちらも素敵なんですが、如何せん「可愛いお婆ちゃん」に見えてしまいます。なので、倒錯した性癖を持ち、「昼顔」として娼館に勤めていた過去を悔い、「修道院に入りたい」という現在の姿はとても納得出来ます。

しかしですね、前作を観ている私はですね、男の方は容色は衰えているのに、男力は著しくアップしているのにですよ、女は可愛いお婆ちゃんでいいのか?と思うのですね。やはりここは、艶めかしく男を誘う、ドヌーヴの方が良かったと思いました。「私、修道院に入りたいの・・・」も彼女なら、そんな大きな嘘をおっしゃっちゃいけません、という風で、二人のエスプリの利いた会話に、より色気も妙も出て、この人たち、どこまで本心なの?と言う感じで、観客は煙に巻かれて楽しかったかも。あれでは男は老いてもまだまだ現役で、女はすっかり枯れてしまい、と言う風に感じました。そんなの悔しいでしょ?そのせいで、幕引きにも消化不良の感覚が残りました。

バンドーム広場を映して、アンリが過去に思いを馳せるシーンがあったり、四つ星のホテルの中を映したり、冒頭のコンサートのシーンも本物のカルースト・グルベンキアン基金管弦楽団を使っており、会食のレストランを含め、なかなか観られないモノを観られて、うっとりでした。娼婦は若い子と老女のコンビなのですが、若い方が「あなたのテクニックは抜群よ」と褒めると、「そうなのよ、客を引く時はあなたの手を借りなくちゃいけないけど」と、老娼婦が言うのには、笑ってしまいました。彼女の言葉があって、余計セヴリーヌはドヌーブだったら、と思ってしまいました。

しかし私は書きながらびっくしたのですが、一週間前に観て、その間に「アメリカン・ギャングスター」にも感激して、なお内容をすべて覚えていることです。う〜ん、恐るべしオリヴェイラ。70分と短い作品でしたが、ゆっくりと時間が流れ、味わい深いです。ちなみにバーテンはオリヴィエラの孫だそう。なーんだ、やっぱり気に入ってんじゃん、私。


2008年02月04日(月) 「アメリカン・ギャングスター」




わ〜、面白〜い!この作品は夫と観る約束をしていたので、もうちょっと後になるかと思ってたんですが、何故か絶対に早く観たいというので、公開二日目に観てきました。本当いうと昨日は風邪気味で、2時間40分の長尺なので、眠くなったらどうしましょう?と危惧していましたが、そんな心配は全く杞憂でした。監督のリドリー・スコットは、大作ばかり撮っているイメージのある人ですが、名のあるスター俳優を使って、コツコツ中規模の出来の良い娯楽作もたくさん撮っています。今回の作品も、名作だとか秀作だとか言う作品ではなく、見応え充分の厚みのある娯楽作でした。

70年初頭のアメリカ。ハーレムに住むフランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)。長年黒人社会に君臨するバンピーの運転手をしていたフランクは、警察にも白人にもイタリアンマフィアにも邪魔されない、黒人のための暗黒社会を作ろうとしていました。そして手を染めたのが麻薬の密輸密売です。その頃ニュージャージ州では、刑事のリッチー・ロバーツ(ラッセル・クロウ)が、麻薬捜査班の主任として、指揮を任されることになりました。

私は最初からフランクVSリッチーの対立を描いているのかと予想していましたが、彼らが対峙するのは終盤から。それまでは二人がどんな男か、じっくり分けて描いています。これはとても良い手法だったと思います。

この作品は実話を元にしたお話です。当時刑事の汚職は既成事実で、ワイロを受け取らなかったリッチーが、仲間から干されてしまうのにはびっくり。のちにリッキーが特命を受けた麻薬捜査にはニューヨークの刑事が絡んでおり、汚職の尻尾を掴んでいるのに、居丈高にあしらわれる様は、腐敗の根深さ表現しており、観客が怒るように仕向けてあるような気がします。

なので、のち麻薬王となるフランクは本当は悪役なのですが、そう感じさせません。幼い頃から貧困と犯罪の渦の中で育ち、白人たちから虐げられてきた黒人たちのため、喰い物にされるのではなく、自分たちだけの麻薬の利権を確立しよとする姿は、むしろ共感を呼びます。

フランクは血縁関係の人脈を駆使し、タイから直接純度の高い麻薬を調達するのですが、これが聞いてびっくり見てびっくりの方法で、こんなところにまで戦争が絡んでいるのかと、暗澹たる気持ちになります。

しかしフランクはそんなセンチメンタリズムを感じる暇もなく、どんどん闇の世界で手を広げていきます。そして故郷の親兄弟を呼び寄せ、みんなにその利権を分け与え、勢力を拡大していきます。この辺の血の重んじ方は、私にはとても理解出来るものでした。

チンピラのような派手な格好になっていく弟を叱咤し諫め、自らはビジネスマンのように地味なシーツを着て、決して目立たないように派手な暮らしは慎み、日曜日には母とともに教会に出向くフランク。しかしその様子は、決して息を潜めて暮らしているのではなく、見事な求心力で飴と鞭を使い分け、親族たちの動向を冷徹に見回しながら、他の勢力を出し抜こうと虎視眈々の頭脳明晰さですが、決して冷淡ではありません。うちの夫が「デンゼルが演じているので、どうしても悪役には見えない」と言っていましたが、このキャスティングは作り手の意図でもあるようで、真の悪役は、のちの展開で用意されてありました。

対するリッチーは職業的正義感に溢れていて、危険を顧みず仕事に没頭。夜学で司法試験の勉強もするなど、刑事としては申し分なしかも知れませんが、ストレスのはけ口を女に求めて家庭は崩壊。息子の親権についての調停で妻(カーラ・グギーノ)が吐露する言葉は、如何に妻が平凡ということを喝望していたかが伺えます。その言葉が胸に突き刺さり、妻の言う通りの決まりごとで良いと謝るリッチーには、この仕事でしか自分の存在意義が確かめられない男の哀しさを感じます。

フランクとリッチーは、水と油のようで、本当はとても似ている気がします。仕事には忠実だが華やかな表舞台を避けたい。ワーカホリックのように仕事に夢中になり、足もとの家庭の綻びは省みない。そして本当はとても家族を愛している。部下や手下の心中を常に把握し、求心力があり、ヘッドとしての器がある、などなど。二人は言葉を交わし始めてすぐ、自分たちは同じタイプの人間だと感じたのではないでしょうか?

彼らの妻が似たような道を辿ったのは印象的です。自分たちの命が危険に晒され、しかしそれが夫の歯止めにはならないと感じた時、とても傷ついたでしょうね。フランクの妻は、プレゼントした毛皮を燃やした夫の心が、理解出来たでしょうか?

デンゼル、クロウ、両方とても好演でした。デンゼルは観客の目を引きやすいフランクを、実年齢より若々しく、かつ渋く貫禄を持って演じて、絶品の男ぶりでした。クロウは少し分が悪い役柄ながら、決して粗野ではなく知性も感じさせる熱血刑事ぶりで、こちらも堪能させてくれます。

ラストに向けてのサスペンスフルな展開は、アクション場面も交えてテンポよく進み、誰にでも納得出来るエンディングが用意してあり、脚本の練り方が上手いと思いました。

全編に70年代のブラックミュージックが流れ、当時の風俗やファッションがノスタルジックを誘うのが、息詰まる展開に、良い意味で息抜きになりました。黒人の利権を獲得するためのものが、結果安価に麻薬が手に入るため、底辺の黒人たちが蝕まれる様子を挿入したカットが秀逸。決してフランクの行いを正当化してはいません。

とにかく面白いです。アメリカの娯楽作は最近面白くないとお嘆きの御貴兄に、ぜひお勧め致します。


2008年02月03日(日) 「やわらかい手」




昨年の秋ごろからこの作品を知り、待望の鑑賞です。扱いにくいテーマを、とても軽やかに品良く描いていて、期待通りの秀作でした。何度も自分の手をすりすりしながら、観ちゃった。

ロンドン郊外に住む平凡な中年主婦マギー(マリアンヌ・フェイスフル)。夫を見送り、今の家族は息子夫婦と孫です。その孫がずっと難病で、治療に莫大なお金がかかります。何よりも孫が大切なマギーは、既に家を手放していました。それでももっと手助けしたいと職を探しますが、スキルもなく年齢もいった彼女に仕事は見つかりません。ある日「接客係募集」の看板を観て面接してもらったお店は、男の人の性を満足させる風俗店でした。マギーの「やわらかい手」を見た支配人のミキ(ミキ・マイノロヴィッチ)は、ラッキーホールという穴から、男性を絶頂に導く仕事をしないかと誘います。

マリアンヌ・フェイスフルは、若い頃はロリータ風の容姿のとても愛らしくチャーミングな人で、アラン・ドロンと共演した「あの胸にもう一度」の革のジャンプスーツ姿が特に印象強く、かの峰不二子のモデルと言われています。奔放な私生活で、一時身を持ち崩したかと思われましたが、近年また精力的に活動しているようです。この作品の彼女は往年の美貌見る影もなく、ブロンドの印象が強い人でしたが、髪もブラウンです。しかし、好々爺ならぬ好々婆よりちょっと前の、善良でおとなしいマギーを表現するにはぴったりでした。

清水の舞台から飛び降りる気で、この店で働くマギーの様子が、とても共感出来る作りです。何度も店の前を往ったり来たり、最初の頃の恐れおののきながら男性自身を触る様子も、ユーモラスだけどとっても気持がわかるのです。

題材が題材だけに、どういう風に撮るのかなぁと思っていたのですが、マギーの手元は上手に隠し、部屋の外の、たくさんの男性が絶頂に導かれる様子を映して表現していました。真上から撮ったショットは、顔立ちはわからないものの、そのー、何と言うか、「イク時」の満足な表情までわかるよう。それが決していやらしくなく、私にはちょっと滑稽だけど男性が可愛く見えました。鈴なりに並ぶ男性たちのシーンとともに、マギーの仕事は、立派に男性を幸福にする仕事だと思えるのです。

段々自分の仕事に自信を持ち始め、「イリーナ・バーム」という芸名を与えられるマギー。気合を入れてやるなら楽しくと、「仕事部屋」をお花や絵で飾るマギー。多分私もやるだろうなと思いました。これは世間知らずの良い意味での素直さと、すぐその世界に染まってしまう危険性も、両方示していると思います。それは彼女を何くれとなく面倒みてくれた同僚を、結果的に出し抜いたことに、マギーが気付かないところにも表れていました。私は水商売に就いたことはありませんが、女の友情と仕事のバランスは、普通の仕事より難しいのでしょうね。

いくら自信がついたとは言え、この仕事は誰にも言えません(当たり前)。息子にバレて、ものすごく責められるマギー(これまた当たり前)。「売春婦!」と母を罵る息子に、息子の妻が言い過ぎだと喰ってかかるのが、あぁ女同志、母同士だなぁと感じました。

妻は最初、家まで売って助けてくれる姑に対して冷淡で、何でかなぁ?と思っていました。その後の息子の、看病とお金の工面とで疲れ切り、投げやりな様子を映すのを観て、これでは母である妻とは、息子の病気に対しだいぶ精神的に開きがあるはずだと感じます。その感情を姑にぶつけるのは、本来は別モノでいけないことですが、よくあることです。マギーの奮闘ぶりを知って、心から感謝をする嫁を抱きしめるマギー。しかし「お金を稼ぐ」ことが命題の夫や父という立場の人から観れば、マギーの息子の様子は、とても理解出来るでしょう。この辺の丁寧で暖かい人の心の機微の表現が、とても好感が持てます。

マギーが段々自分に自信を持つのは、大金を稼ぐと言うこととだけではなく、相手に自分の姿は見えなくても、男性が自分を性の対象だと見ていることではないでしょうか?小金持ちそうなスノッブな友たちに、自分の仕事をはっきり説明するマギーには、「あなたたちとは違うのよ」という、女としてのプライドが伺えます。テニス肘ならぬペニス肘になった彼女を看る男性医師が、「伝説のイリーナを看れて光栄だ」と微笑む様子が、店に来る男性にとっての、彼女の存在価値を表わしていました。

ラストの彼女の選択も、とても共感を呼ぶものです。最初は孫のためのはずだったことが、くたびれた中年女だと自分を卑下していたマギーの、人としての誇りを取り戻させたのですね。興味本位な題材を扱っているのに、お話の芯は中年女性の成長物語であるということが、広く観客に受け入れられている理由だと思います。

実は私の手も、ごつごつして大きくて、決して綺麗ではないのですが、手のひらはとてもやわらかく、冬でも湿り気を帯びています。家事でじゃんじゃん水仕事しても、ハンドクリームもほとんど必要なし。私もマギーのように稼げるかしら?なーんちゃって。




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