ケイケイの映画日記
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2008年01月29日(火) 「鍵」(京マチ子 名作映画祭り)

また観てきました。「穴」と二本立てだったのですが、時間の都合でこちらだけ鑑賞。谷崎潤一郎の原作はお馴染みで、邦画のみならず、ティント・ブラスの監督で、イタリアでも映画化されている作品です。登場人物は皆いやらしく、誰にも共感出来ないですが、すごく面白かったです。

著名な古美術鑑定家剣持(中村鴈二郎)は、初老に入り、男性機能の低下に悩んでいました。一回りほど年下の、従順で美しい妻郁子(京マチ子)を持ちながら、悶々とした日を送っていました。そこで娘敏子(叶順子)の婚約者である青年医師木村(仲代達也)と郁子を親しくさせ、その様子に嫉妬することで、回春を謀るのですが・・・。

原作の設定では夫56歳・妻45歳だそう。ふ〜ん・・・。実はうちの夫婦、夫54歳・妻46歳と、微妙に重なるのですね。約50年前の50半ばの男性って老けてたんですね。それに比べてうちのダーリンったら、若くて男前だわ。これで妻の方も、これくらい妖艶なら文句なしなんですけどねぇ。昔は女優さんが実年齢より年長の役柄をするのは当たり前で(今と逆)、この時京マチ子は30半ばで、女盛りのお色気ムンムン。あっちの方がダメになった夫に、何も言わずに尽くすなんて、そんなわけあるかい!という風情です。

「錦小路まで行って来ました。」とか「大阪まで」という表現があるし、竹藪に囲まれたお屋敷の様子など、どうも場所は京都の模様。何せ登場人物4人が、例え夫婦・親子・フィアンセであっても、一切本音を言わない。じわじわネチネチ、腹黒さ満開での腹の探り合いなど、「女系家族」の恥も外聞もなく本音丸出しでバトルする大阪にはないねちっこさで、これも滑稽で楽しめます。

郁子はお酒を飲むと酔いを醒ますため入浴するのですが、必ず風呂場で全裸で失神。そんなことをしたら当たり前なので、ちったぁ学習して、酒かお風呂か止めんかい!と普通思うのですが、、そうなる時は木村が招かれている時ばかりなので、どうも確信犯の模様。木村は医者だし、豊満な郁子の肢体を目の当たりにしても、充分言い訳は立つ訳。エロ夫婦は夫唱婦随の模様。

剣持という男は、狡猾にして器小さく、お金も渋いときておる。小男でみてくれも悪いヒヒジジイで、いいとこなしに思えるのですが、これが市川崑の演出と鴈二郎のペーソス溢れる名演技で、「加齢で出来ない男の哀しみ」が、ユーモラスに、かつエロエロにこちらに伝わります。この年代の男の人にとって性の衰えは、白髪だの皺だの以上の老いの実感なのだと、切々と感じられます。

京マチ子演じる郁子のエロさと言ったら、も〜人間離れしています。びっくりするような細い眉毛がびゅ〜と伸びて、まるでお狐様の化身のよう。決して本心を明かさず、夫に従順なようで、男どもや娘をも煙に巻きながら、したいことし放題の郁子を、性悪女ではなく、育ちの良さからの天真爛漫さも覗かせながらの悪女ぶりです。

可哀想なのは敏子。母親に似れば器量良しだったのに、父親に似たため不器量です。常に母親と美貌を比べられ、娘のフィアンセを、自分たちのエッチのおもちゃにするような親に育てられたんですから、ネクラで性格までブスになっても致し方ないと同情してしまいます。のはずなんですが、これがまた何を考えてんねん?いうくらい、あれこれ画策して、人の心を試します。プライドだけは著しく高く可愛げがなく、この父にしてこの子ありと言う感じで、そっくりです。腹に一物もって、敏子が父親と二人で食事するんですが、「お前の顔観てると、酒がまずぅなるわ」とは、なんちゅう言い草。本当にいけずな脚本です。

しかしその晩私は、「天障院篤姫」を観ていのですが、「於一(おかつ・篤姫のこと)の酌で飲む酒は、格別じゃのう」と、篤姫の父が笑顔で言うのです。このシーンを思い出し、本当に敏子が可哀想になってねぇ。演じる叶順子は当時売り出し中のコケティッシュな女優さんで、素顔をはとっても美人です。不細工メイクで、複雑な敏子を好演してました。

小悪党の色男を演じる仲代達也が珍しく、これは得しました。時代が下がったら、これは田宮二郎の適役だったと思います。

今から観ると、どうってことないのですが、お風呂場で倒れた郁子の肢体をチラリズムで映したり、はたまた剣持が妻の裸に異様に執着して写真に撮ったり、倒れてヨイヨイになりながらも、妻に着物を脱げと言ったりのシーンは、当時はすごく大胆な演出だったと思います。今のような即物的なエロではなく、脳で感じて心まで刺激するエロティシズムは、今でも十分刺激的でした。

古美術や古いお屋敷、全編着物で通す京マチ子など、和を強調しているのに、非常にモダンな印象が残ります。内容はとんでもなくインモラルなのに、鑑賞後にはエロよりも、シニカルなユーモアと愛嬌とが残る作品でした。郁子VS敏子の「眉毛対決」も見ものです。


2008年01月26日(土) 「ジェシー・ジェームズの暗殺」




2007年度ヴェネチア映画祭、主演男優賞(ブラッド・ピット)受賞作。
映画友達の皆さんが大のつく絶賛なのに、何故か多くのシネコンで二週間で打ち切り続出で、私もまだ続映する「やわらかい手」を後廻しにしての鑑賞でした。いや本当に観て良かった!三時間近くの長尺ながら、ずっと緊張感が持続する中、様々な感情が湧き起こる秀作でした。

南北戦争後のアメリカ。ジェシー・ジェームズ(ブラット・ピット)は、兄フランク(サム・シェパード)ど共に、強盗や殺人を繰り返し、無法の限りを尽くしていました。今回も列車強盗のために、同じようなメンバーを集めました。その中にジェシーを幼い頃から偶像として崇拝するロバート(ケイシー・アフレック)がいました。ロバートは兄チャーリー(サム・ロックウェル)がメンバーにいたため、ジェシーに直接懇願してメンバーに入れてもらいます。

ジェシー・ジェームズと言う人は、ちらっと名前だけ知っているだけで,
義賊のような人だと思っていました。しかしこの作品では、カリスマ性はあっても凶悪な犯罪者であって、義賊というのは時代が作り上げたお話、という描き方です。

そのことについて浮かれもせず、悩みもせず、客観的に常に冷静なジェシー。しかし名声が高まるにつれ、彼は猜疑心の塊になり、自分を慕うロバートの心を弄び、いつも逮捕と死を恐れる心は仲間から浮き上がらせ、ジェシーを静かな怪物のような存在にして行きます。

何が緊張するかって、ジェシーの一挙一動に皆が固唾を飲んでいるのがわかるのです。そしてまた、ジェシーは次にどんなリアクションを起こすのかが、全く読めない人なのです。怒るかと思えば大笑いし、優しくするかと思えば突き放し。彼の意に沿うよう懸命に次の行動を模索し、表面を取り繕う仲間たち。ジェシーのカリスマ性を表現しながらも、偶像として祭り上げられる者の悲痛な孤独も、見事に浮かび上がらせていました。

そんな中で純朴で善良ですが、少々愚鈍なロバートは、人一倍ジェシーに憧れていたはずなのに、次第にジェシーに反発心を抱きます。これが男女間の愛や、または同性愛だというなら、自分の理想と違う相手を受け入れるのは、割に容易い事だったかも知れません。しかしロバートにとってジェシーは偶像なのです。目の前の男が、自分の理想の清々しく豪気溢れた人間ではないというのは、許されないことのはず。しかしその猜疑心の塊の男は、それでもとても魅力があって、気まぐれに自分を可愛がり、そして傷つける。映画もテレビもラジオさえない時代。流行の書物が虚実ない交ぜに描くジェシーを信じきっていたロバートが、現実の彼と世間が作り上げた彼とのギャップに戸惑い、やがて愛憎混濁する気持ちになるのを、とても丁寧にじっくり描いています。

兄フランクはそんな弟から距離を置く為、この仕事から手を引きます。仲間達が惰眠を貪り、商売女にうつつを抜かしている時も、この兄弟は常に拳銃を握って眠り、少しの物音でも引き金に指を賭けます。全然他のアウトローたちとは違うのです。それがどうして兄は安息を求め、弟は神経をすり減らしながら犯罪者として生きたのか?その辺が一度観ただけでは、まだわからないのです。ジェシーもまた、偶像である自分に縛られていたんでしょうか?

「暗殺」とタイトルにあるのに、その場面に近づくと、緊張感はマックスに。この辺の盛り上げ方は、決して派手さはないのに秀逸でした。私が思うに、ジェシーはロバートの手で、そして愛する家族のいる家で、殺されたかったのではないかと感じました。病んでいく自分の神経に、一番振り回されたのは、ジェシー自身ではなかったか?ジェシーは自分にまとわりつくロバートに、「俺のような人間になりたいのか?それとも俺になりたいのか?」という質問をぶつけています。ジェシー・ジェームズであり続けることに耐えられなくなった彼は、ロバートに「ジェシー・ジェームズを殺した男」としての人生を贈ることで、答えを導くようにしたのではないかと感じました。

ジェシーもロバートも同じように仲間を売り(と私が受け取った場面あり)、背後から仲間を撃っています。しかしジェシーは死して尚名声を高め、ロバートは卑怯者の謗りを世間から受けます。私のような年齢なら、人には「分相応」というものがあると知っています。しかし若いロバートにはそれがわからない。ジェシーを殺すことで、自分の憧れていた人を超え、名声を得られると思っていたのでしょう。自分が若い頃よりはちょっぴりましな人間になっていると実感する時には、人は老いているものです。若げの哀しさというものを、感じさせます。

ブラピはその美貌が災いして、近年これといった強い印象の役がなかったように思いますが、中年という俳優の分岐点に来て巡り合ったこの作品は、必ずや彼の代表作になると思います。難しい役だったと思いますが、彼の好演のおかげで、ジェシー・ジェームズが、段違いの偶像だったという事に、ものすごく説得力がありました。昔から思っていたんですが、彼は自分の美貌には執着ないように感じるんですが。

オスカーにノミニーされているアフレックも、凡人の哀しみを小動物のようにチマチマ演じて、これがロバートの造形にドンピシャの好演でした。「今日は良くない日だから、気をつけるように」との言葉に、「昔から幸せだったことがないので、気にしない」との台詞には、胸を締め付けられました。向上心ではなく功名心を心に持った若者を、繊細に演じていてとても良かったです。

サム・ロックウェル、サム・シェパードなど、その他の主要キャストも、有名無名の人全て、とても良かったです。私が特に秀逸だと思ったキャスティングは、ジェシーの妻役のメアリー・ルイーズ・パーカーと、ロバート兄弟の姉役アリソン・エリオット。ともに地味ながら主役も張れる実力派ですが、作品の雰囲気をよく理解して、控えめな演技で男の世界の話を支えていました。

広大なロケーションはとても見応えがありました。若葉が芽吹いていたり、豪雨だったり、雪深さが寒々として気分が沈んだり、作品の内容と同時進行で、雄弁に語っていました。スクリーンで観る価値充分の作品なので、どうぞ機会があれば劇場でご覧になることをお勧めします。


2008年01月23日(水) 「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」




待望の鑑賞です。ジョニデ&バートンは、ハリウッドのド真ん中で君臨するようになっても、アンダーグラウンドの雰囲気を残しつつ、娯楽的にも大変優れた一流の作品を連発し、好事家から一般の映画ファンまで、広く愛されている稀有なコンビです。最近のバートン作品は、お父さんにもなったし、幸せなんだよ、バートンだって大人になっても当たり前だよ、面白いからいいじゃないかと、控えめながら受け入れていましたが、今回は久々に毒々しくシニカルで、ダークな切なさに包まれていました。私は大好きですけど、「ビッグ・フィッシュ」「チャーリーとチョコレート工場」でバートンが好きになりました、という方はお気をつけを。

かつてフリート街で腕のいい理髪師として名を馳せていたベンジャミン・バーカー(ジョニー・デップ)。しかし美しい妻ルーシーに横恋慕したタービン判事(リック・ウェイクマン)に無実の罪を着せられて、15年投獄されてしまいます。やっと街に帰って来た彼は、ミセス・ラベット(ヘレナ・ボナム・パーカー)の店に入り、彼女から妻は毒を飲み、乳飲み子だった娘ジョアンナは、タービン判事に幽閉されていると聞きます。復讐に燃える彼は、名をスウィーニー・トッドと変え、復讐を実行すべく元の理髪師として戻りました。そして彼の過去を知る者の喉を掻き切ったのを手始めに、次々と身寄りのない者を殺害し、その人肉でミセス・ラベットはパイを作り、それが評判を呼び店は大繁盛となります。

ブロードウェイの舞台を映画化したものです。でも舞台はどう処理したんですかね?あの大量の血!「スプラッタ・ミュージカルだ」という感想をちらっと読んでいたので、それほどびっくりはしませんでしたが、もうピューと吹き出すわ、滴るわ、はりつくわ、すごいです。パク・チャヌクが観たら大喜びしそう。流血シーンも明るい歌声とともにリズミカルに描きます。とんでもないんですが、楽しんでいいのか、ぞ〜としたらいいのか、何か観ていてお尻がもそもそして落ち着きません。

しかし罪もない人が血を流せば流すほど、トッドの心も氷のように冷たくなっていくのですね。彼の心にあるのは、常に復讐だけ。娘に会ってこの手に抱きたいという父親らしい感情より、復讐を優先した彼は、そのため大きな代償を払います。

人肉でパイを焼く鬼のような女のはずのラベット夫人ですが、とてもいじらしい女心を見せます。乙女のような心でトッドに尽くすのですが、彼に話しかけてもいつも上の空。その一途なトッドとの結婚への思いは、演じているのがヘレナ・ボナム・カーターという事もあり、「コープス・ブライド」の腐った花嫁・エミリーが彷彿されました。

この二人だけが目に隈を作り、不健康極まりない顔色です。二人に合わせたような、常に青白い映像のトーンが、夫人が妄想する明るい海辺の家でのトッドとの生活は、一点明るい色調で歌い踊るのですが、観ていて段々、願っても願っても、恋しい男の心がえられない彼女を思うと、物悲しくなるのですね。

今回見事な歌声を聴かすジョニデですが、負けず劣らず他の出演者も堂々たる歌声でした。今回コミカルな場面が一切ないジョニデに代わり、アラン・リックマンが極上の敵役で憎たらしいのだけど、あちこち抜けているタービン判事を、愛嬌を交えて演じています。「ジョアンナと結婚することにした。しかし彼女は嬉しそうではないのだ。何故なのだ?」などど、バカかお前は!というセリフが、彼を憎み切れなくしてしまいます。

タービン判事がトッドを妻から横取りする部分は、とてもあっさり描いていました。お陰で罪もない人まで殺すトッドには、同情より冷酷さを強く感じさせました。それがあんなに哀しい結末を導くためのものだなんて・・・。尽くしているようで、トッドを独り占めにしたかったラベット夫人、復讐の鬼となってしまったため、大切な妻の顔さえ忘れてしまったトッド。愛から始まったはずのことが、愛を見失ったための結末でした。皆々相応しい最後だったと思います。哀しいけど、希望の光が一筋残るところが救いでした。

再現されるフリート街は、不衛生で埃っぽい感じで、貧しさがそこかしこに感じられます。これがトッドが妻や娘と幸せに暮らしていた頃の暖かさに包まれて街だったなら、トッドの気持ちも変わったでしょうか?いいえきっとあの寒々しい街は、彼の心が映した町だったのでしょう。

ゴシック調にしっかり作り込まれた世界で、ただいま最強のペアの作品を存分に楽しみました。もう一度観たいなぁ。


2008年01月20日(日) 「女系家族」(京マチ子 名作映画まつり)

ただ今千日前国際シネマにて上映中の京マチ子特集で観てきました。年頭からの公開ラッシュで、現在大変なことになっている私の映画スケジュール。全部観たら二月いっぱいまで、毎週2〜3本観なくてはいけない計算です。仕事行って家事して感想書いて。絶対に無理!!!そんな時期に、何でこんな甘美でマニアな特集するかなぁと、ブツブツ文句言いながら、やっぱりフラフラ観てしました。何を隠そう、私は邦画史上で一番好きな女優さんは、京マチ子様なのですね。芳しくもエロティックな女の匂いを発散させながらも、はんなりと華やかで上品で、それでいて名コメディエンヌぶりもみせるなど、本当に素敵。この作品は山崎豊子原作で、何度もドラマ化された作品なので、内容は有名です。私も何度か観ました。しかし微妙な作り手の解釈の違いで、これだけ観た後の印象が変わるのだなぁと、ほとほと感じ入りました。今まで観た中で、一番怖くて超面白かったです。

大阪・船場で代々呉服商を営む「矢島商店」。矢島家は三代続いた女系で、娘に婿養子とり、商いを繁盛させていました。現当主嘉蔵の死去に伴い、長女藤代(京マチ子)次女千寿(鳳八千代)三女雛子(高田美和)の三姉妹、及び親族への遺産相続の遺言状が読み上げられます。それぞれが思惑を抱く三姉妹たち。しかし嘉蔵に七年面倒をみていた妾の文乃(若尾文子)の出現で、事態は思わぬ方向へ向かいます。

この作品は1963年の作品で、当時の大阪の様子をロケしたシーンが度々出てきます。これを観ると「三丁目」に描かれる当時の風景は、懐かしさを
素直に煽るため、少々建築物が美化されているように思いました。何しろ汚たなくて古い!それが広大で豪奢な家や、高価な着物に身を包む三姉妹とは対照的です。大番頭宇一(二代目中村鴈二郎)が、「何も仕事もせんと、贅沢ばっかりしくさって」と、三姉妹を陰で貶しますが、生まれついた家でこれほど暮らしに差が出ると、そら恨みごとの一つ(いっぱい言ってたけど)も、言いたなりまっせ。何か今の時代と似ているような。

船場の大店は特殊なところで、娘ばかり生まれると、昔は落胆する方が多かったでしょうが、娘と優秀な番頭を結婚させて店を継がせると、血筋と常に新しい商売の才覚が引き継がれると、返って喜ばれたと何かで読んだ記憶があります。雷蔵の「ぼんち」でも、「何であの子は女の子やなかったんやろ・・・」と、祖母と実母から出来そこない扱いされていましたし、「夫婦善哉」でも、放蕩息子の柳吉は廃嫡され、妹に婿養子が取られていました。

今まで観た中では、女の「いけずさ」の描き方は、この作品がダントツです。欲の皮をつっぱらさせながらの丁々発止のやり取りは、本音一本やりで、「京のぶぶづけ」のような立て前など全く無く、凄まじいです。一番若い雛子は、若いだけに一番心が清らかで、姉2人とは違うのですが、後見人としてしゃしゃり出る叔母(姉妹の実母の妹)を演じるのが、あの浪速千栄子なので、雛子100人分以上の迫力です。う〜ん、船場のいとはん(お嬢様)とは言え、やっぱり大阪の女。私はネチネチした意地悪は大嫌いなので、観ていてとっても楽しめました。格式こそ高いでしょうが、一皮むけば傲慢さと気位の高さが災いして、庶民のような暖かさが全くありません。お金の怖さも感じさせます。

私がびっくりしたのは、嘉蔵の子を妊娠している文乃を、長女・次女・叔母で取り囲み、押さえつけて内診させる様子です。こんなけえげつないシーンは、他の作品では観た記憶がありません。あぁびっくりした。文乃が「あんたら、それでも船場の嬢さんですか!」と泣きながら訴えますが、さもありなん。

文乃は親兄弟とは早く死に別れ、それ故か有馬で温泉芸者をしていた時に、嘉蔵に見初められます。娘たちの様子を見ると、妻にも「婿養子」と見下されていたと想像される嘉蔵。高慢な自分の家の女たちにはない、男を立てて頼って尽くしてくれる文乃を、愛おしく感じたのでしょう。文乃の欲のない様子や、陰膳をして嘉蔵の供養をする姿に、普通の不倫関係のような、爛れた雰囲気は漂いません。それは演じる若尾文子の、楚々としながら芯の強い文乃の造形が感じさせるものです。有馬の芸者上がりと聞き、娘らに嘲笑されるシーンなどと共に、耐え忍ぶ文乃に観客が同情出来るよう作ってあり、それがラストの爽快感を導きます。

嘉蔵の遺言により、文乃の出産した男子が店の後継者として定められます。今まで耐え忍んでいた文乃は、別人のように気丈です。反対に憑きものが落ちたような上の二人(蚊帳の外気味だった雛子は、サバサバ)。今まで観たものは、文乃は本当はしたたかな、やっぱり妾を出来るような女、嘉蔵は今までの怨念を、死して晴らすといった風情でした。

しかし今回の文乃は、自分自身の思いより、何とか恩人の嘉蔵の心に報いたい一心が、彼女を強くさせたと感じました。彼女の器の大きさも、宇一の数々の不正を暴きながらも、「今までの番頭さんの功績に免じて、故人に代わり免責をお願いしたい」と言う姿に表れていました。

そして一番店を継ぐのに固執した長女が、「お父さんに、しっかり生きろと言われている気がするわ」と言い、家を出る決意をするのです。嘉蔵の遺言は、欝憤を晴らしたものではなく、世間知らずで高慢ちきな、人として未熟な娘たちが、それに気付くように仕向けた、父親としての愛情のように感じました。監督三隅研次の暖かい愛情の籠った解釈のおかげで、この通俗的なお話は、一段も二段も格上の、普遍的な意味を持つ秀作になったと感じました。

キャストが超豪華で、他にも長女をたぶらかす踊りの師匠に田宮二郎。最初から長女をたぶらかす気満々なのがわかるのですが、それでも乗ってしまうわなぁと思わす、男前ぶりです。キザではないのがポイント。大阪の女は、いくら男前でもキザな男が大嫌い。小悪党らしい怪しさもチャーミングに感じさせ、本当に素敵。もし田宮二郎主演の作品をリメイクするなら、阿部寛が似合うと思いますが、いかが?

鴈二郎も狸親父の番頭を演じて出色。北林谷栄の愛人相手に、しっぽりとしたシーンもあるのですが、老人なのに艶っぽい風情を醸し出し、とぼける時の絶妙の間合いで笑わせます。こんな大役者なのに、貫禄を押さえて女性陣を立てながら、強く自分を生かす芝居が出来るなんて、腕のある人はひと味もふた味も違いますね。

次女の鳳八千代は、姉妹の真ん中でうっ屈して生きてきた恨みを、あちこちにぶつける気持ち、よーく理解できる好演でした。清楚で優しげな美貌は、こんなことに巻き込まれなかったら、穏やかな養子婿の夫と幸せに暮らせたろうなと思うと、ちょっぴり同情出来ます。

三女の高田美和は、自由奔放ながら、人としての良き素養は姉妹で一番持ち合わせている雛子を、伸び伸びと演じていました。彼女は「女系家族」には縁が深く、ドラマで長女や文乃を演じています。最近見かけませんが、どうされているんでしょうね。またテレビでお目にかかりたいです。

そして期待の京マチ子。わ〜、もう綺麗で可愛い!私はいっくら綺麗な人でもね、可愛いげのない人は好きじゃないのです。「お母さんから、総領娘はどっしりとしているもんや、と教えられていますのや」と、一番難しいこと言う割には、養子も取らんと勝手に嫁入りして勝手に出戻るなど、妹たちや店のことなども全然考えていない自己チューぶりです。しかし、その華やかさと貫録は、皆を圧倒して黙らせてしまうのも納得の艶やかさです。それと裏腹の世間知らずさで、田宮二郎に騙されてしまうのですが、普通はそれ見てみぃと、溜飲が下がるもんですが、コントラストの鮮やかな演技で、思わず可哀想だと感じさせます。う〜んやっぱり千両役者ですね。満足満足。

この作品はミナミ地区に映画館が激減していることに憂いた、有志の方たちの尽力で実現した特集上映だそうです。その甲斐あって、平日ながら劇場はシルバー世代の方々で盛況でした。京マチ子特集は二月半ばまで。次は溝口健二の特集らしいです。でもそんなミニシアターでも上映してくれるような特集ではなく、一般大衆に愛された、銀幕の大スターの特集の方が観たいなぁ。またお相伴に預かりますね。


2008年01月18日(金) 「その名にちなんで」




いやー、もうびっくり。アメリカに渡った在米インド人夫婦と、アメリカ文化の中で育った子供たちの葛藤の25年間の話と聞いて、私自身とリンクする部分が多々あるだろうとは予想していましたが、これほど理解も共感も出来るとは。元を辿れば、インド人と韓国人は親戚なんじゃなかろうか?と思ったほどです。監督は「モンスーン・ウェディング」(未見)のミーラ・ナイール。

カルカッタの学生だったアショケ(イルファン・カーン)は、祖父に会いに行くための列車で事故に遭い、瀕死の重傷を負います。全快した彼はその後博士号取得のため渡米、お見合いのため帰国します。相手は若く美しいアシマ(タブー)。無事結婚の運びとなり、挙式後二人は共に渡米。幾多の困難にも手を携えて乗り越え、息子と娘にも恵まれます。しかし長男ゴーゴリは(カル・ベン)次第に自分の名を嫌うようになり、大学生になるとニキルと改名してしまいます。しかしゴーゴリという名は、父アショケにとって、格別の思い入れのある名でした。

冒頭事故からお見合い、挙式からアメリカに二人で渡るまでを、簡潔ながらまとまりよく描いています。特に列車の中の会話や、アショケの靴を履いてみるアシマの様子などは、まだまだ当時(1970年代)のインド人は、西欧社会の文明に、憧れと畏敬の念を抱いていたのだともわかります。

私がまず泣いてしまったのは、後ろ髪をひかれながら、夫と共に機上の人となる時のアシマの様子です。私も見合い結婚だったのでわかるのですが、まだよくお互い知らないまま結婚している上、誰一人知った人がいないアメリカに渡るのです。その心細さや親兄弟との別れの辛さは、筆舌に尽くし難いはず。たったあれだけの描写で?と思われるかも知れませんが、姑初め、一世のお婆ちゃんたちから聞いた話や、自分の体験がない交ぜになって、1を描いているだけで10感じてしまうのです。

以降雪深い凍てつくアメリカでの生活で、カルチャーショックに耐え時には泣きながら、家庭を守るアシマの様子が、情感豊かですがさらりと描かれます。特に私が滂沱の涙を流したのは、アシマにとって辛い日常を映しながらも、母への手紙には正反対の、安心してもらえる良きことばかりをしたためた手紙です。うちの姑も韓国に帰りたいと泣きごとばかり書いては破り、心配をかけたくないため、良いことだけを書いた手紙を母へ送ったそうです。

そして故郷へ送った画像の写真です。インドでは母や兄・妹が、「アシマに子供が出来た」と、あちこちに見せて歩きます。これも姑が義兄が出来て三人の写真を実家に送ったとき、姑の母がやはり泣きながら、「娘に子供が出来た」と近所中に見せて歩いたそうです。その時の夫の祖母の思い、姑の思いがオーバーラップして、私の涙線はもう大変なことに。アメリカでも経済的には心配はないアシマですらこうです。うちの姑はお嬢さん育ちなのに、韓国では考えられない生活苦を日本では強いられていました。その時の夫の祖母の娘を心配する心は、いかばかりであったろうと思うと、もう泣けて泣けて。

映画が終わるまでに体中の涙が出ちゃうよ、と思いながら観ていた私は、ふと、これは韓国とインドが似ているのではなく、移民した人、そんな子供を持つ人は、全てが同じ思いを抱くのではないかと思いました。ハワイやブラジルに移民した日本人一世を描けば、きっと全く同じものが出来るのでしょう。ベタに感情を煽るのではなく、人であれば素直に心が揺さぶられるような、節度をもった演出が好ましいです。

私が救われた気持ちになったのは、アショケがとても穏やかで誠実な夫であることです。心細い妻の心を抱きとめ、良き夫・父たらんとする姿は、彼が良い意味でアメリカナイズされつつあるからでしょうし、事故で九死に一生を得た、生への感謝の気持ちも感じ取れます。

私自身は日本生まれで日本の教育を受けた二世なので、アメリカ生まれのゴーゴリと妹が成長に伴い、気持が変化するのも、よーくわかります。初めて訪れる文明の遅れたインドにげんなりする兄妹。私にもよーく覚えがあります。私が初めて韓国を訪れたのは14歳の思春期の時。今では信じられないほど発展した韓国ですが、当時父の故郷は済州島の中でもとりわけ田舎で、、農耕の牛が堂々と道を闊歩し、どの家も鶏が早朝から啼く中での三日の滞在は、大阪のど真ん中で生活する私には死ぬほど辛く、ソウルに着いた時は、涙が出るほど嬉しかったもんです。

ゴーゴリたちは自分がインド人であるとは、普段は全く意識する事はないでしょう。アメリカ育ちなので、血筋や同じインド人のとの付き合いを重んじる、インド式の思考や文化などは鬱陶しく感じるでしょう。親も友達感覚、自由闊達な周囲のアメリカ人が羨ましいのもすごく理解出来ます。それ故ゴーゴリが「とあるきっかけ」で湧きあがる父母への思いは、理屈ではなく彼の体に流れているインド人の血というものを際立たせます。

二世・三世にとって避けて通れぬのが異民族との結婚です。ゴーゴリのアメリカ人の恋人との行く末は、予定調和でいささか古くさい気がしましたが、同民族の女性との描き方は秀逸です。同じ民族であっても各々が別の価値観を持って生きており、別の人間です。結婚相手は民族の血ではなく、相手の人柄次第だという結論は、古くて新しい真理だと思います。

アショケが何故ずっと名前の由来を息子に伝えなかったのかは、自分の思いを息子に押しつけたくなかったのでしょう。何度も出てくる「アメリカは自分が決める国」という言葉。幼児であってもそうでした。アメリカ式の思考を重んじたのは、子どもの未来はインドではなく、アメリカでの生活にあるのだと、この聡明な父にはわかっていたからでしょう。なので息子に名前の由来を初めて告げたシーンは、親の思いが伝わる情感豊かなシーンとして、とても盛り上がりました。

私が本当に感情移入して観ていたアシマ。一世女性らしく常にサリーを着る姿は、映画ではあまり描かれていなかった偏見や差別を跳ね返す、彼女のインド人としての誇りで包まれ、本当に美しかったです。いつも良き妻良き母であることを一番にしていたアシマ。子どもの成長に伴い時間に余裕が出来ると、その時間は向上心に費やし、車の免許を取り司書の仕事に就くなど、女性の一生のモデルケースにしてもいいような半生です。子供を思う気持ちを残しながらも、子どもへの執着を捨て、見守りつつ互いに自立する道を選ぶ姿は、本当に見習いたいと思います。

この作品で唯一物足らなかったのは、アショケ一族と一家を、ハイブローなお金持ちに設定していることです。実際の移民は、頭脳流出より出稼ぎが多いはずです。そのため貧困や差別に対しては、希薄どころかほとんど描いていません。しかしお陰で、自分の体に流れる民族の血を思い起こさせるという、万人に観易く共感を呼ぶ作品になったとも言えるでしょう。同じような立場の私には、郷に入れば郷に従うが、決して民族の誇りを忘れないアショケ一家の心映えは、とても共感出来るものでした。監督の繊細な感受性で紡いだこの作品、あぁ観て良かったと思わす力のある内容だと思います。


2008年01月14日(月) 「俺たちフィギュアスケーター」




爆笑コメディとして噂の高いこの作品、や〜と昨日観てきました。大阪は「なんばパークス」一館だけ、それも夕方からの上映だったので、年末年始は主婦には鑑賞厳しく、先週土曜日から3時代の上映が始まったので、観られた次第。結論から言うと、笑ったしそれなりに面白かったけど、期待値は割りました。あんまり前評判が高かったので、よっぽどチケット屋でディスカウントチケット(1200円〜1400円)買ってでも観ようかと思っていたんですが、「なんばパークス」はオークションで安くチケットがゲット出来るのです。今回とても迅速なお取り引きをして下さる出品者さんのおかげで、850円で観られました。間に合わなかったらチケット屋だったので、それなら「楽しめました」と言えたかどうかは、ちょっと微妙です。

全米男子フィギュアスケート界の人気と実力を二分するチャズ(ウィル・フェレル)とジミー(ジョン・ヘダー)。下品だけどワイルドでセクシーな異端児チャズと、育ちが良くて優雅な優等生風のキャラのジミーは、嫌猿の仲。同得点で二人いっしょに優勝になった世界選手権で乱闘騒ぎを起こし、フィギュアスケート協会から永久追放されます。その後恵まれない三年半を過ごした二人に、ジミーの元コーチ(クレイグ・T・ネルソン)は規約の盲点をつき、二人にペアを組まないかともちかけます。かくしてフィギュアスケート界初の、男子ペアが誕生します。

イヤ本当にね、別に全然悪くはないんです。くだらなくて脳みそ空っぽにして楽しめたし。なのに何故手放しじゃなかったかというと、もっとお腹の皮がよじれるほど笑えるのだと、私が勝手に思っていたわけ。それと超がつくおバカ映画と聞いていたので、それもそれ程かなぁと。確かに下ネタ満載だったし、ウィル・フェレルからは、香ばしもくっさ〜い臭いはしてきてたんですがね。

それともっと毒々しくお下劣かと思ってたんです。向こうのコメディではゲロネタが多く、そんなシーンもありましたが、うぅ、気色悪!と感じると、一瞬で終わらせてましたし、エッチな誘惑シーンなんかもおっぱいの谷間を強調するくらいで、そんなにすごくもないし。意外に良識あってちょっと拍子抜けでした。

それよりもフィギュアの才能を見込まれての養子だったジミーが、永久追放で簡単に親から縁を切られたり、同じくチャズが場末のアイスショーでお茶を濁していたり、トップ選手になるまでに莫大なお金がかかると言われているフィギュアスケートですが、メダル取らなきゃただの人、いやそれ以下なんだと、アメリカのスケート事情を、結構まともに風刺していると思いました。日本の事情はどうなんでしょうか?

でもアメリカと日本じゃコメディのキモが違うので、向こうで大ヒットしたコメディが、こちらでは全く笑えず沈没とはよくある話です。そう思えば、これはかなり笑えた方だとは思います。極寒の中デートでかき氷食べたり、大会マスコットを上手く笑いに使ったりと、一つ一つのアイデアは面白かったです。かき氷はブルーハワイを食べて、ちゃんと唇が真っ青になるとこなんか、芸が細かくて良かったです。それと男性二人がペアになると、どうしても片方が女役の役目をするため、ゲイだと囃されますが、その辺の差別感情はあっさり描いていたのは、良かったです。

筋に絡む意地悪なライバルペアは、姑息なあの手この手を使いつつ、脳みそが軽いのが楽しかったです。特に女性の方が本当に根性が悪そうな顔しているんですよ〜。大阪ではこんな人を「根性ババ」というので、どこかで使って下さい。双子の設定なのにキスシーンがあり、はれ?と思ったのですが、演じるこの二人は実生活では夫婦だそうで、楽屋落ちネタだったのかな?

チャズのワイルドでお下品なダンスは、エキシビジョン仕様ですね。楽しかったですけど。規約が変わっていなければ、公式試合のBGMは、歌が入るとダメだったと思うんですが、まぁいいか(間違ってたらゴメン)。でもせっかく往年の名選手や現役選手がカメオ出演しているんですから、その辺はチェックしても良かったかも。無粋なツッコミだとは思いますが、その辺おざなりにするなら、本当のフギュアスケーターは出演させない方が良かったと思います。

チャズが出演していたアイスショーで、フォリナーの「ホット・ブラデット」が流れていたのにびっくり。フォリナーの曲では一番好きだった曲ですが、他に使われていた曲は、エアロスミスの「ミス・ア・シング」やクィーンの「フラッシュ・ゴードン」などだったので、アメリカではこの二つと同じくらいポピュラーな曲なのかと、初めて知りました。

それとコーチ役のクレイグ・T・ネルソンが誰だったかなと、ず〜と思いだすのに必死だったんですが、「ポルターガイスト」のお父さん役だった人なのでした(終盤で思い出す)。「ポルターガイスト」は夫と婚約後初めて観た映画だったので、非常に私にとって思い出深いのですね。もちろん選んだのは私です(昔からそういう人間だった)。

ラストは爽やかさのかけらもなかった二人が、ちょっとだけ爽やかには感じました。普通に面白いレベルの、おバカコメディでした。各地単館上映で、観るのに苦労される方も多いと思いますが、個人的には無理せず、レンタルDVDでもいいかと思います。


2008年01月10日(木) 「アフター・ウェディング」




「ある愛の風景」で、その力量を堪能させてもらった、スザンネ・ビア監督の作品。この二本は、抱き合わせで公開のようです。なかなか理解しにくいはずの実業家ヨルゲンの心情をしっかりと描いて、骨格以外の枝葉の部分まで、しっかりと味わう事の出来る作品になっています。

インドの孤児の救済支援を仕事にしているデンマーク人ヤコブ(マッツ・ミケルセン)。そこへデンマーク人の実業家ヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)から、巨額の支援金の話が舞い込みます。条件は直接ヤコブに会って話を聞きたいとの事。久し振りにヤコブは帰国します。帰国翌日、彼の娘アナ(スティーネ・フイッシャー・クリステンセン)の結婚式に招待されて、出席します。そこにはヤコブの昔の恋人だったヘレネ(シセ・バネット・クヌッセン)の姿が。彼女はヨルゲンの妻でした。結婚式のスピーチで、父ヨルゲンを実の父ではないが、心から愛していると語るアナ。アナの実父は、ヤコブだったのです。事前にヨルゲンから何も聞いていなかったヤコブとヘレナは、困惑します。

「ある愛の風景」に続き、家族の絆のお話です。今回は血の繋がりの決して断ち切れぬ濃さと、育ての親子の深い愛情がモチーフになっています。ヨルゲンの行動には、ある秘密が隠されています。それは男女入れ替え生息する階級も違いますが、数年前観たある映画に似ています。その映画は私はもう全然ダメで、主人公の身勝手さにかなり怒ったもんですが、今回のヨルゲンには、とても説得力がありました。

彼はその秘密の為、ヤコブをデンマークに呼び寄せたのです。一見妻の昔の恋人に嫉妬しているように見えますが、それはヘレネやアナのためだけではなく、ヘレネとの間に生まれた双子の男の子のためでもあります。ヨルゲンのその心こそ、血の繋がらないアナを、自分の子供と分け隔てなく愛した証しのように感じるのです。

ヤコブは若い頃は呑んだくれのヤク中と表現されますが、ヒッピーのようだったのではないかと思います。ケンカ別れした直後、アナの妊娠がわかったヘレネ。自分だけインドから帰国したが、きっと後を追ってくれると思っていたと語り、ヤコブはヘレネが戻ってくると思っていたと語ります。よくある若き男女の意地の張り合いが、ヤコブにアナの存在すら知る事を許しませんでした。

援助金の条件が自分がインドへ戻らずデンマークに留まることだと聞くと、ヤコブは激こうします。金で買われるようなことは自尊心が許さなかったでしょう。しかし自分を待つ多くの子供たちを思う気持ちが、彼の心に変化をもたらせます。そのきっかけを作るのは、心配事を持ち込む実の娘のアナです。アナを通じて、ヤコブはインドに残した子供たちにも思いを馳せたのでしょう。「子ども」を思う愛が、「父親」に意地を捨てさせたのです。

私が素晴らしいと感じたのは、ヨルゲンとヤコブを通じて、血の繋がりと育ての情と、両方子供を思う親の誠の愛として、説得力を持って肯定して描いていることです。どちらが子供にとって本当の親なのかと議論になることもありますが、私は不毛だと思います。「自分の子供」を心から愛する人が親なのです。

私はヨルゲンの秘密には早いうちから気づいていましたので、わからないヘレネに違和感がありました。夫の秘密がわかってからも、自分を責める事のない彼女。もちろん彼女に罪はないのですが、夫にこういう行動を取られたら、私なら自分の存在意義にまで想いが及び、深く傷つくと思ったからです。

しかし自分の誕生パーティで、「妻は自分にとって、朝であり昼であり夜だ。空であり海である」と語るヨルゲンに気付かされました。共に人生を歩むパートナーであるとの深い思いが伝わってきます。これを日本の御主人方に言わせたら、「妻は空気や水のようなもの」でしょう。ともに歩むのではなく「あって当たり前の存在」ということです。要するに対等の関係ではないのですね。

その実夫は、妻には母のような振る舞って欲しいと願うのですね。妻も知らず知らずにその役割を担ってしまう。もちろん例外もありますが、そういう心が、若い時は夫優位、中年以降は妻が優位の関係を築いてしまうので、いつまでたっても本当の意味での対等なパートナーとしての関係が築けないのだなぁと、痛感しました。

私がそんな感慨を持っている時に、スクリーンは取り乱してヘレネにすがるヨルゲンを映します。演じるラッセゴードの渾身の演技もあり、彼が長きに秘密を明かさなかったのも、これも夫や父親としての立派な美学だなぁと、違和感も疑問も吹き飛んでしまいました。

出演者は皆がとても印象深いです。ラッセゴードは、札びらで人の頬を叩くような、高慢さを見せながら、徐々に家族に対する愛や自らの孤独を滲ます姿に、とても心打たれました。ヨルゲンがヤコブに望んだことこそ、お金では得られない愛を、彼が知っている証だと思います。ラッセゴードは、スウェーデンの人で、「太陽の誘い」という作品で、40過ぎの文盲で童貞の無垢な農夫を好演していた人です。この作品もとっても情感豊かな秀作なので、未見の方は是非どうぞ。

大好きなマッツ・ミケルセンは、今回私の好きな「優柔不断で誠実なインテリ男」の役で、華やかな場に気後れと疎外感を感じる場面、自分の怒りを素直に表現する場面や葛藤など、私的にとても堪能出来ました。私はあまり俳優で作品を観ることはないのですが、彼の次回作は絶対観ようと思っています。

今回も頭から尻尾まで、ビア監督を味わい尽くしました。私は「ある愛の風景」の方が好きですが、この作品もとても気に入りました。次の公開作はハリウッド作品で今春公開だそう。とても楽しみです。




2008年01月06日(日) 「ヒルズ・ハブ・アイズ」




面白い!初日の昨日、3時20分からの初回を観てきました。東京方面から上出来のホラーだと聞こえていたので、そんなに宣伝していないのに、劇場は大阪のスキモノ映画好き(←褒めてます)で満員でした。それでもおばちゃん一人客は珍しかったけど。席もおとなしそうな映画青年の横で、首尾よく端っこをゲット。大阪は一週間だけ、それも二回上映だけなんて、本当にもったいない!細々上映していたら、絶対口コミでヒットする作品だと思います。

25年刑事を務めたカーターは、妻との銀婚式と定年のお祝いを兼ねて、次女ブレンダ、長男ボビー、結婚している長女のリンと娘婿のダグと孫のキャサリン、そして愛犬のビューティとビーストを連れ、トレーラーでカリフォルニアまで旅行に出かけます。しかしその道中、核実験のために、突然変異で生まれた食人のフリークスたちが、罠をしかけて待ち受けていたのです。

冒頭いきなり殺戮場面が出ますが、それより効いているのは、のんびりした50年代のポップスが流れる中、核実験により吹き飛ばされたり廃墟と化した町、そして実験の傷跡にような姿で生まれでた子供や胎児の姿を映すオープニングです。60年代から70年代に日本で放送されたアメリカのドラマでよく目にした、健全で明るいアメリカの後ろには、恥部として隠されていた部分があるのだと思い知ります。

前半登場人物ひとりひとりのキャラを、手短ですが丁寧に描いているのがいいです。普通この手の作品では、そういうことをされると鬱陶しいもんですが、この演出はのちのちの展開に、とても上手く繋がっていました。子供たちはいやいやですが、親孝行だと思いついてくる姿に、昔観た健康的なアメリカのホームドラマが重なります。

小見出にじわじわ怖がらせた後、満を持して襲いかかるフリークスたち。超人的な力を感じるので、フリークスというより、ミュータントという感じもします。こういう作品は、最後に誰が残るかも予想するもんですが(するでしょ?)、襲われた残骸に、キューピー人形やぬいぐるみがあるので、赤ちゃんだって予断を許さないぞという気になります。

舅から生っちろく、使えない男だと嫌われていたダグですが、生死を賭けた生き残りの中で、暴力に目覚めたような力を発揮します。観ていてペキンパーの「わらの犬」のダスティン・ホフマンを思い出しました。男の本能であるのか、ダグ自身の本性であるのかはわかりません。しかしスプラッタというけれんを使いながら、人に潜む暴力性を浮かび上がらせるのは、凡百のホラーとは一味も二味も違う、格上を感じさせます。

血みどろの戦いの様子は、私はホラーやスプラッタには慣れているので、特別目新しいことはありませんでした。怖さよりも上手さが勝る感じです。しかし廃墟のような核実験下の家々に飾られたマネキンには、心が痛みました。カーター一家のような平凡で平和な生活を営む権利を奪われた彼らの心情を、薄気味悪くも色々考えさせる演出でした。

この作品は私は未見ですが、ウェス・クレイヴンの「サランドラ」のリメイクです。元作でも同じ名前だったビューティとビーストという犬の名前は、「美女と野獣」という意味でいいのかな?このワンコがね、とっても大活躍するんです。私は動物が苦手なんですが、飼うならやっぱり犬だなと深く思ったほど。砂漠で助けを探すダグが、うんざりしながら歌う「夢のカリフォルニア」には同情しました。随所にこの手の小技の演出が効いていて、それも作品の出来を底上げしていました。いくら物見遊山のホラーでも、観た後の満足感は、案外こういうところが左右されますから。

監督は「ハイテンション」のフランスのアレクサンドル・アジャ。「ハイテンション」は高評価でしたが、私的には説明がつかない部分がやたら多く、オチも早々にわかってしまったため、目新しい気はしましたが、そんなに面白くはなかったです。しかしハリウッドに渡ってのこの作品は、キワモノなりの格調高さも感じさせて上々の出来だと思います。目新しさよりしばらくは、しっかりした脚本の、オーソドックスな作風で行く方が良い気がします。


2008年01月04日(金) 「ある愛の風景」




本年初鑑賞作品。重たい作品だとは予想していたので、お正月早々からどうかな?と思いましたが、大阪では二週間足らずの期間、それもモーニング上映だけということで、急いで観てきました。とても重く厳しい内容ですが、親子・夫婦の在り方、反戦、人の心のもろさ・強さを盛り込みながら、全てが繊細な演出の中、きちんと描きこまれている作品で、掛け値なしの傑作だと思います。珍しいデンマークの作品で、監督は女性のスザンネ・ビア。

デンマークのエリート兵士(階級は少佐)のミカエル(ウルリク・トムセン)は、美しい妻のサラ(コニー・ニールセン)と可愛い二人の娘に恵まれ、幸せに暮らしています。気がかりなのは半端者の弟ヤニック(ニコライ・リーロス)のこと。昔から家族の中で浮いている弟を、老いた両親に代わり、何くれとなく世話を焼いています。そんなある日赴任の命が下り、戦禍のアフガニスタンに赴いたミカエルのヘリが、敵に追撃されます。ミカエルの死を受け入れ難いサラや子供たちを、ヤニックは支えようとします。時が解決するかに思えた日々を送る家族に、ミカエルが生きているという報が入ります。しかし戻ってきたミカエルは心に傷を負い、別人のように変わり果てていました。

今回たくさんの描写にとても感銘を受けたので、ネタバレで感想を書きます。冒頭笑顔で刑期を終えた弟を迎えに出向くミカエル。いかに兄が弟を父親の如く思っているか、弟はそんな兄をありがたく思いつつ、鬱陶しくも感じている様子を、車中の短い様子で繊細に描いています。

兄一家も含めて、総出でヤニックの出所を祝う家族。善良な暖かさが滲む中、父親とヤニックの間には不穏な空気が流れます。しかし決して冷たくやりきれないものではなく、どんなに幸せそうに見える家庭にも、悩み事は潜んでいるのだという、平凡で当たり前の光景を、的確に映しているに過ぎません。

そんな平凡な家族が、ミカエルの死の報告を受けて一変します。家族のそれぞれの哀しみの表現に、ミカエルが夫であり父であり、息子であり兄であり、それぞれにかけがえのない存在なのだと深く感じさせます。

ミカエルは奇跡的に助かり、アルカイダの捕虜となっていたのです。虐待され悲惨な日々を送る描写が、哀しみに包まれ、立ち直ろうとする家族の様子と交互に描かれるのが、観ていてとても心が痛みます。哀しみに包まれてはいるが平和に暮らす家族。毎日死の恐怖と怯えながら、狂いそうになりながらも、家族を思うことで正常な心を保つミカエルと部下。この対比が、のちのちのミカエルの変貌にとても同情させられます。

いつも優等生で自慢の息子だったミカエルの死に落胆する父は、厄介者のヤニックに辛く当たります。「俺が死ねば良かったんだな」と言うヤニック。辛さに身を縮ます母。優秀な遺伝子を持つ子どもを選別し、良き能力を伸ばすのに力を入れるのが父性。子供の優劣に関係なく、どの子にも等しく愛を注ぐのが母性。そういう件を読んだことがありますが、まさにその通りの父母の様子です。しかし人は備わった本能だけで生きているのではありません。自分の無神経な言葉を悔い、ヤニックに謝る父と、それを後ろ向きながら受け入れる息子には、血の繋がりの持つ情と執着を感じます。

夫を失ってからの、妻であるサラの描写がとてもリアルです。泣き叫ぶこともなく、一見淡々とした様子に見えます。しかしもう着てもらうことのない夫のシャツを一生懸命アイロンがけしたり、その服を人にあげてしまったり、急に涙ぐんだり。動揺しながらも必死になって夫の死を受け入れようとしつつ、波のように押し寄せる哀しみを耐える様子に、観ていて何度も涙ぐみました。知的で普段は感情のコントロールが効くサラなので、激情が押し寄せる時の一瞬の様子が、とても彼女の心情を表わしています。

演じるコニー・ニールセンは、ハリウッドで活躍中の人ですが、故国デンマーク映画に出演するのは初めてだそう。長身でクールビューティの彼女にサラの造形はとても合っており、大変好演だったと思います。

嫁のサラを元気づけるため、ヤニックにミカエルに代わって台所のリフォームをするよう、さりげなく促す父。男手のなくなった心細い女所帯の支えとなることで、今までお互い苦手だったサラとヤニックは、急速に接近します。

兄のいない家庭で、人生で初めて信頼される場所を得るヤニック。兄の死の哀しみを共有するには、長い歴史や確執のある両親では、辛すぎたのでしょう。サラとてミカエルの弟であるだけで、それだけで安心出来たことでしょうから、この二人が支え合う様子は、とても説得力がありました。

しかしこの感情は、お互いの寂しさがなせることだと、理性的に一線は超えない二人の様子は清らかです。そして自分の気持ちを静めるように、ある夜は娘を抱き締め、ある夜は夫と共に眠ったベッドに裸でくるまり、夫の残り香を貪るように求めるサラには、同じ妻という立場の私は、本当に泣かされました。こういうきめ細かい女心の描写は、男性監督では演出出来ないと思います。

ここで帰ってきたミカエルとの三角関係が起こり、ウェルメイドなメロドラマが始まると思いきや、ここからの方向転換がすごく、大変感心しました。

ミカエルの変貌は、同じ捕虜として支え合ってきた部下を、アルカイダの命令によって、殺してしまったことに起因しています。今まで敵を相手に「殺人」を犯したことがあったかもしれないミカエルですが、相手は罪のない味方なのです。様子のおかしい夫に気づき、何があったのかとサラは尋ねますが、誰にも言えず悶々とする日々を送るミカエル。家族に話したとて、その場に居ない者には、理解されないという思いがあったのでしょう。

同じ兵士なら痛みを共有してくれるかもと、告白しようと同僚を訪ねますが、やんわり遮られます。同僚も人の分まで重荷を背負いたくはないのでしょう。「言いたくないことは、言わなくていい」。一見耳触りの良い言葉ですが、とても冷たい響きがあります。

妻と弟の仲を邪推するミカエル。深い中になる寸前で思い留まった二人は、困惑します。「本当のことを言えよ。俺は死んでいたんだから、仕方ないさ」。ただの嫉妬ではないのでしょう。あの時部下を殺さなくては自分が殺される。あの状況ではしかたなかったのだ。妻と弟だって仕方ないのだ。だからそうであってくれ。深い仲になった二人を受け入れることが、罰を受けること、部下に対しての贖罪になるという気持ちが、ミカエルにはあったのではないかと思います。

自分の罪にじっとしておれず状況を隠し、部下の妻子を訪ねるミカエル。部下も自分と同じく夫であり父親であるという事実を目の当たりにするミカエル。何も知らない赤ん坊が、自分の父親を殺した彼に微笑むことに、堪らなくなります。一連のミカエルの演出には、強く反戦の心が込められているのだと、感じさせられました。銃撃戦もなく血も流さないのに、こんなに切々と戦争の悲惨さをかんじさせる演出力に、また感嘆します。

神経衰弱に拍車がかかり、「みんな殺してやる!」と叫びながら台所をめちゃくちゃに壊し、暴力をふるうミカエル。ヤニックと警察に助けを求めるサラ。「ただの兄弟げんかだよ」と、血だらけで警察に言い訳するヤニック。しかしサラには守るべき娘たちがいるのです。私はサラの取った行動は賢明だったと思います。

刑務所に面会に行き、真実を話してくれ、そうでなければ二度と会いはしないと夫に告げる時のサラは、妻より母としての部分が勝っていたと感じました。今の私なら、夫が墓場まで持って行きたい秘密は無理に聞きはせず、自分から言いだすまで見守る方を選ぶと思います。しかし守るべき年齢の子がいるサラと同じ状況なら、私も痛みを共有するべく聞きたいと思うでしょう。何故なら待つ時間がないからです。そしておずおず泣きながら話し出す夫を抱く妻の姿が、トップの画像です。安堵した私は、ここでまた思いきり泣きました。

その才能が高く評価されているビア監督ですが、なるほどすごい力量でした。厳しい辛い内容の中、情に流されることもなく、的確にそしてきめ細やかな描写の連続で、観客にも「もしあなたなら?」と、常に登場人物一人一人の立場になって感じられるよう、そして理解出来るよう作ってありました。知的で冷静ではあるけれど冷徹ではなく、厳しいけれど辛辣ではなく、全編暖かい愛が流れていました。女性監督と言うと、情感豊かな母性か、ヌメヌメした所謂子宮感覚的な感受性が持ち味の人が浮かびますが、そのどれでもないけれど、正に女性が描いた夫婦や家族の愛、そして反戦の映画であると、まざまざ感じています。来週「アフター・ウェディング」を観るのが、今からすごく楽しみです。



2008年01月01日(火) 「AVP2 エイリアンズVS プレデター」

皆さま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。




新春一作目の感想文ですが、観たのは大晦日。ず〜と大掃除や正月の準備に忙しくて映画は全然観られなかった年末でした。その甲斐あって、昨年は早めに準備万端。前日のテレビCMでこの作品を知った夫が、「面白そうやな」と独り言を言うのをキャッチした私、目をギンギンにして「ほな、明日観にいこか?」というと、チビも「友達行けへんかもしれへんから、俺も行くわ」ということで、親子三人で大晦日に鑑賞と相成りました。素晴らしいシチュエーションじゃございませんか。大晦日に主婦が映画なんて、そんなデカダンスな状況も、夫と子供連れなら怖くない。人様には夫と息子に連れられた、いたいけな主婦と見えたことでしょう。率先して私が男二人を連れ歩いているとは、お釈迦様でもご存じあるまい(古!)。あぁ、だがしかし!

前作で死闘を繰り広げたエイリアンとプレデター。一体のプレデターに侵食したエイリアンから、新たな生命体・プレデリアンが誕生、プレデターたちを、次々惨殺していきます。このことを知ったプレデターたちは、エイリアンたちを駆逐すべく、能力のアップしたプレデターを地球へ送り込みます。田舎街に住む人間たちは、この凄惨な戦いに巻き込まれてしまいます。

自爆・火爆・水爆!
まさか・・・、まさか・・・。ギャオギャオギャオ!と、意味不明に叫びたくなるほど、しょうもないです。エンドクレジットが出た瞬間、「!!!これで終わりかい???」と、三人で同時に叫んだほど。思えば幾度となく観た予告編、あれは最高に上手い作りでした。私はてっきり、「ジェイソンVSフレディ」くらいはまともと、すっかり信じ込んでおりました。予告編の方が10倍は面白いです。

もうなんつーかね、こう言う作品で深いドラマ性なんか、観客は求めないと思うんですよ。求める人は、こう言う作品は無視するはずです。陰険な「ビバヒル」みたいな高校生の三角関係や、ムショ帰りの兄、久し振りに帰宅した子持ちの女性軍人など、それぞれの憂鬱を思わせぶりに前ふりしていますが、全く内容と関係ありません。憂鬱になったりする割には、全然葛藤がないので、片手落ちも甚だしいです。

何の為に時間割くわけ?(怒)。町を見守る保安官がリーダーとなるのかと思いきや、ただの凡人に終わり、何故この人がこんなに使えるねん?と疑問が残りまくりの人が結局リーダー格に。しかも何であんなに銃の扱いが上手く、頭もクレバーな訳?あんたの前歴と全然そぐわへんがな。

おかしいおかしいと思いながら観ていましたが、まあええまあええ、きっと後半のバトルで面白くなるんやわ、絶対そうよと信じていましたが、それも完全に沈没。プレデターが知的生命体であるのはわかりますし、無手勝流のエイリアンの破壊力もわかりますが、そんなものは、シリーズを観ていたら先刻ご承知のはず。手に汗握るはずのバトルの様子は、前作の焼き直し以下の体たらくで、全く見応えがないのです。

だいたい田舎街に起こった出来事だというのが、中途半端なん違うん?NYとかLAとか大都市でこの惨事を描けば、もっとスケールアップして、ハチャメチャなバトルの様子を描けたんじゃないですかね?エイリアンが妊婦に侵食し、臨月のお腹を食い破るシーンなんかも、ただシチュエーションの一つとして、描いてみました程度。妊娠出産は身体的にはグロテスクなもんですから、もっと生理的な怖さを煽れるはずです。それが力不足で出来ないのなら、こんなシーンは不適切です。

こういう始末の付け方しかないわなぁという、終結でした。ラストシーンは、次も作る気満々のご様子。どこまで堕ちるか楽しみです。

何でこんなに腹立っているかというとね、夫婦50割引&中学生の息子(100円割引使用)で、こんな映画に2900円も使ってしまったのだよ。それに昨日はすごく寒くて車でラインシネマへ行ったのですが、ラインシネマの割引を使える駐車場は、大晦日で早じまいのため、コインパーキングで600円も取られました。全部で3500円やで!こんなことなら「ナショナルトレジャー」か「アイ・アム・レジェンド」にすれば良かった(号泣)。

しかしものは考え様です。大晦日に観たので、昨年の全ての厄払いは、この作品でしたのかも。本当に新年第一作に選ばなくて良かったです。自信を持ってお勧めできない作品です。


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