砂漠の図書室
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矢沢宰君・・・などと、ほんとうは君づけで呼んだりしてはいけないのだろう。 私よりもずっとずっと年上の方(1946年生まれ)であるし、 それよりまず、一面識もない方なのだから。
けれども「矢沢宰君」という言い方が、いまの私にはいちばんしっくりする。 なぜなら、彼は21歳の若さで亡くなってしまったから。 高校生のときに彼の詩と出会って、 いつしか彼の亡くなった歳を追い越して、 今はもう永遠に、ひとまわり以上も年下の青年になってしまったから。
『光る砂漠』という彼の詩集は、 たぶん、生まれて初めて書店に注文をして取り寄せてもらった本だと思う。 けれど、どうしてその詩集を買おうと思ったのかは覚えていない。 どこで出会ったのだろう。 彼のあの、うつくしい世界と。
たとえば、こんな詩が好きだった。
------------------------------------------------ 「再会」
誰もいない 校庭をめぐって 松の下にきたら 秋がひっそりと立っていた
私は黙って手をのばし 秋も黙って手をのばし まばたきもせずに見つめ合った
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先日、数年ぶりにこの詩集を手にとった。 あの頃好きだった詩は、今も好きだということに気づいた。
なぜ今も好きなのかを考えてみる。
彼のことばの使いかたに私がとても影響を受けたから・・? もともと私の中にあった世界が、彼の詩と出会うことによって 引き出されてきたから・・? 同じものに対して、同じようにひかれる心を 生まれる前から持っていたから・・?
そのどれかであるような気もするし、 そのすべてであるようにも思える。
今日、この本を再読するまですっかり忘れていたことだけれど、 矢沢宰君についての紹介文に 「中原中也、八木重吉の詩の影響をもっとも受けた」 とある。 この二人は、私にとってもすごく大切な存在だった。 きっとこの解説の一文から興味をもって、これらの詩人の作品を読んでみたのだと思う。
今日まで忘れていたことをもうひとつ。 矢沢宰君の詩には時々、「かみさま」という言葉が登場していた。 「僕から」という詩には、「イエス様」という言葉もある。
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「僕から」
僕から イエス様を とり去れば 僕は灰になる 僕から 詩を とり去れば 僕は灰になる
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解説にはどこにも、彼がキリスト者であったとは書かれていない。 でもこの詩を読めば、一目瞭然。
小学生の頃、私は毎日曜日に教会に通う生活をしていた。 けれども矢沢宰君と出会った頃は、すっかり無神論者になっていた。 だからこの詩にも、また、ほかの詩にある「かみさま」という言葉に対しても、 当時は何も感じていなかったと思う。 少なくとも意識の上では。
でも、彼を通してふたたび出会っていたのだ。 神から遠く離れて、 「いい大学」へ入ることだけを圧倒的に求められた高校生活の 閉塞した日々のさなかでも。
今日、初めてそのことがわかった。
人が一生かかわっていくテーマには二十歳までに出会っている、 という言葉を聞いたことがある。
「かみさま」 「光」 「砂漠」
どの言葉も、30代に入ってから ひとつひとつ私の中でたいせつなテーマとなっていった。 すべて、すべて、 10代の頃に出会っていたのだった。
2003.3.9 記
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