気をつけていないと、書く文章が全て愚痴になりそうだと、常に思っては いるけれど、どうしようもなく心を乱そうとするのは幸福よりむしろ 人に向かう嫌悪感が私には断然多い。その中でも他人より何より、 血の繋がった人というのが、一番私の心を濁すのだから不思議である。
私はみっともないものが好きだ。
それは、努力して、悪あがきする人のみっともなさもあるし、 努力しない楽観主義のみっともなさもある。私はそのうちのどちらも好き。
私が嫌いなのは、あるひとつの現状という目の前のものにたいして、 努力もしなければ楽観的にも考えずに、不満だけをたれる人だ。 何がしたいのか解らない。我慢はしたくないし、良いようにも考えない。 だったら、どうしたいの?と、思う。…目の前にある自分が不快だと考える 事柄について、文句を言うだけでは問題は解決しない。
自分を取り巻く環境が悪いのは、自分がその根底に居るからだと考えた方が ずっと良いと思う。と、いうのも、そこにある不快な環境を、良くするのも 更に悪くするのも、その人がその事柄に対してどう働きかけるかで、 いつだって変化するからなのだ。
それをしないで、表向きの格好だけや、頭だけで考えてたって、考えた事は 人に伝えなければならないし、何かを伝えるには言葉を使わなきゃならない。 言葉を使うにはその人に近付かなきゃならない。やれる事、やる事はたくさん あるのに、それをしないで文句を言っても何も始まらないのである。
私はこういうことをここのコラムには散々書いてきたのでもうとっくにマンネリ なのだけど、それでも、私のことを悩ませる人たちはいつもいつも、絶えず そのまま変わらないので、本当に、ここに愚痴でも書きたくなってしまうという 訳なのだ。…そういう家庭内の人物について、私は家族という分類分けを外す事で 今日までなんとかやって来て、おそらくこれからもそうして生きていくんだろう なと思う。それ故私はひとりなのである。…昔々、家族がまだいた頃は、 少しでも現状を良くしようとして、奔走していたころもあったのだけど、 そういう事が何ひとつ効果の無い事に気付いて辞めてしまったのだ。
その人は、体裁の為にプライドがある。だから、私がどれだけ言っても効果が ない。それはとてもとても淋しい事だけど、本人がいいと思っていることを 変えるのには、想像を絶する努力が必要だ。そして私は頑張れなかった。
好きになろうと努力はしたけれど、「好き」にはなれなかった。 そのかわり、「好きでも嫌いでもない」という微妙な感情が沸き起こった。 そしてそれ以来、そのままその気持は、私の心に放ってあるのだ。
私にとって嫌な事とは、その「好きでも嫌いでもない」人たちが、私の心を 濁そうとする事。そして濁ってしまう事である。
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