一橋的雑記所 目次&月別まとめ読み|過去|未来
初なのは(えー)。 「……ちゃん! フェイトちゃん!」 ずしん、と沈み込んだ後、一気に引き上げられる意識に、襲い来る眩暈。 ぐるぐると回るぼやけた視界の中、深い藍色が揺れる。 「……な、のは……?」 無意識にその名を呼んでから、それが彼女の瞳の色だと気付く。 「フェイトちゃん……」 ぶれる彼女の心配そうな表情に、少しずつ焦点が絞られる。ごくり、と唾を飲み込んだ咽喉が思いの外、痛い。 「どうした……の……?」 「……もう、」 やっとの思いで零した言葉に、彼女の表情が呆れた色に染まる。 「それは、私の台詞だよ!」 軽く頬を膨らませながら、彼女は少し乱暴に私の前髪をかき上げるようにして額に触れた。 「すっごいうなされてたよ?」 「私……?」 思わず呟き返したら勢い良く頷いてみせた彼女は、いつもより随分と幼く見えた。 そう、初めて逢った、あの頃みたいに。 気付いて、また、視界が歪む。 「フェイト、ちゃん……?」 「……大丈夫だよ」 応える声が、自分でも分かる位に震えている。その事実に、強く臍を噛む。 「私は、大丈夫」 「フェイトちゃん……」 さっきまで見ていた夢の事は覚えていない。けれども、何となく想像はつく。 崩壊する、閉ざされた世界。あの人の狂気を孕んだ儚い夢を閉じ込めた場所。永遠に目を覚ます事の無い、私の血と肉を生み出した源。差し伸べた手を最後まで拒んだのは、あの人の、余りにも哀しい、愛の深さ。 私が、求めて、得られなかったもの。 「大丈夫」 目を閉じて、深く息を吸って。 「大丈夫だよ、なのは」 「……駄目だよ」 呟いた私の言葉に被せるように、強い声。 「駄目だよ、黙って独りで、我慢しちゃ」 一つ一つ区切るように零された声に、驚いて見開いた視線の先、怖いくらいに真剣な眼差し。 「フェイトちゃんだって、分かってるでしょ? 泣きたい時に無理に我慢しちゃったら駄目だって」 差し伸べられた掌が、そっと頬に触れる。 いつだったか。 あの、優しい祝福の風を纏った魔道書の魂が空へ登ったあの冬。 二人で訪れた、その主である私たちの友人は。 自分が背負った罪や、自分が守るべき騎士たちの心を思って、涙一つ零さず耐えていた。 その笑顔が切なくて、哀しくて、私たちは。 私と、彼女は。 「……やだな、私」 それはもう、随分と前の事で。 でも、私の心を捉えて放さない記憶は、それよりも更に遠いもので。 「もう、大丈夫な筈、なのに」 「うん」 頬を滑る彼女の掌が、そのまま首を経て、肩を抱く。 「大丈夫だよ、今はもう。フェイトちゃんは」 でもね。 そういって、彼女は背中に回した手を軽く上下させる。 「消えないから。痛みとか、哀しみとか、辛さとかは、薄れたって、消えないから。降り積もるから。だから、我慢しなくて良いよ」 私の前では。 深い色の瞳が、真っ直ぐにそう語り掛け、柔らかく微笑む。 「……なのは……」 「うん」 「なのは……」 「うん……」 あの日。 何度も繰り返し呼んだ。 彼女の名前。 それは、私にとって、初めて手にした。 確かな光、だった。 世界の全てが足元から崩れ落ちて。 差し伸べた手は空を切り。 あの人は、私の想いを全て置き去りにして、虚無の淵へと、消えた。 永遠に、目覚めない、最愛の娘と共に。 それが、ただの拒絶では無かったのだと信じたい気持ちと。 決して、伝わらなかった想いの結末なのだと諦める気持ちとが。 いつまでも、いつまでもこの心からは消えなくて。 望まれて、でも、その期待に背いてただ、この世にある自分の生を。 疎ましく、重く思う心を捉える闇が消えなくて。 だから。 彼女の名前は。 私にとって。 文字通りの、光明で。 「な……のは……」 「うん、フェイトちゃん」 どんなに歳月が流れても。 多分、どんなに大人になっても。 消えない傷を、痛みを。 丸ごと知っていて、受け止めてくれた、彼女の名前が。 私には、文字通りの、光明で。 「なのは……っ!」 その温もりが、真実で。 「大丈夫だよ、フェイトちゃん」 縋る私の名を呼ぶ、いつもの彼女の声が暖かくて。 そうして、私は、夜の淵から立ち戻る。 繰り返し訪れる夜でも、明けない事は決してないのだと信じることが出来る。 いつか。 私の名前が。 誰かの光になれたなら。 遠い時空の彼方に消えた哀しい思い出も報われる。 そう、信じる事が出来る。 「……なのは」 「なぁに?」 「ありがと……」 胸元に呟いた声に彼女の、いつもの照れ笑いが振り注ぐ。 私がこうして。 独りでも歩けるのは。 なのは。 君が居るからだよ。 君が、私の名前を呼んでくれたからだよ。 その掌を掴み取って。 私は、再び、眠りに落ちる。 やがてくる朝を、待ち望みながら。 その光を心から、信じながら。 ― 了 ―
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