一橋的雑記所
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日暮れ時、随分と陽が長くなったとふと思う。 少し前までは肌寒くて上着無しには廊下を歩くのも辛かったのに、今は背中に走る汗ばむ気配が少し煩わしい程だった。 このまま真っ直ぐ帰っても良かった。けれど、春を迎えてからこの方、少しずつ集まり始めた断片的な情報に逸る気持ちが抑え切れない毎日が続いているから、いつもの様にこの足はあの部屋へと向かう。 長い影が足元に落ちるのを見るとも無く見下ろしながら扉に手を掛ける。開こうとして寸前、中からいつもとは違う気配を感じてその手を止める。 賑やかな複数の笑い声、時折聞こえる、はんなりとした特徴的な言葉。 どうやら来客中らしいと気付いてそっと扉から離れ、後ろ扉の前へと移動する。漏れ聞こえる会話の端々から、彼女の相手が校内新聞を発行している報道部の連中らしい事が知れた。 どこか落ち着かない気分で待つこと数分、口々に辞去を告げる声が聞こえ始めた。その瞬間を捕まえて、後ろ扉をそっと開く。 少しだけ覗かせた視線の先、真っ先に飛び込んできたのはまだ真新しい白い制服の後姿。前扉から出て行った報道部の連中を見送っていた彼女の背中は、後ろ扉から中へと滑り込んだ刹那、当たり前のようにこちらを振り返った。
「あら、なつき。どないしたん?」
驚くでも無い、いつものおっとりとした笑顔を見せ付けられて、一瞬、言葉に詰まる。
「ああ……お客さんやったから、遠慮してくれはったんやね」
やんわりと微笑まれ、思わず視線を逸らして「別に」と応じる。
「もしかして随分待たせてしもた? 堪忍な」 「そんな事は……」
無い、と口籠もりながら歩み寄る。目線を心持ち俯き加減にしていたせいで、彼女が手にする校内新聞がイヤでも目に付いた。目ざとくそれに気付いた彼女は、緩く小首を傾げた。
「なつき、まだ読んでへんかった? さっきの人たち、これの御用で」 「知ってる」
さっきまで感じていた、どこか落ち着かない気分がまだどこかに残っていたのだろうか。自分でも少し驚く程強い声が口をついて出てしまう。けれども彼女は気にした風も無く、その新聞を差し出してくる。
「春先やし、記事に出来るほどの話題もそうそうあらしませんからやろね。うちとしては面映い限りやけど」 「どうだか」
惚けているのか天然なのか計り知れない彼女の口調に、ほんの少し呆れて溜息をつく。
「いややわあ、なつき、ヤキモチ妬いてもくれへんのん?」 「や……?!」
反射的にバカ、と口にした瞬間、彼女はくすくすと笑い出した。
「冗談どす。堪忍」 「……ったく」
いつもの、意味不明なからかいにあっさりと乗ってしまった気恥ずかしさも手伝って、彼女の手から少し乱暴に新聞をひったくり、ばさりと広げる。 二面目の下半分を埋めているのが例の記事だった。 「藤乃新生徒会長に訊く!」などと、平凡きわまりない見出しを掲げたインタビュー記事。まるでアイドルさながら、先程の連中に取り囲まれ一問一問に一見律儀に、でも何を考えているのか分からない笑顔で答え続ける彼女の姿が目に浮かび、改めて呆れるような、苦笑するしかないような気分に襲われる。
「好きな食べ物だの、スリーサイズだの……訊いて記事にして一体、どうする積もりなんだろうな」 「どうする積もりて」
何が可笑しいのかにこにことこちらを覗き込んでくる彼女の方は敢えて見ない振りでざっと記事を追っていたが、何だか見慣れない表現の羅列に思わず眉をしかめる。
「『好きな言葉』……『玉の緒よ 絶へなば絶へね 長らへば』……?なんだこれ?」
どうにも不可解な文字列から目を上げると、彼女はきょとんとした顔をして見せた後、ふわりと笑った。
「何て、見ての通り短歌やけど」 「そんな事くらい、分かってる」
バカにしたつもりはないのだろうが、わざとの様に応えた彼女を睨みつけてから、改めて目を落とす。回答に続くインタビュアーの「普段の会長さんからは想像もつかない、情熱的な回答ですね」などと言ったコメントから察するに、これは所謂恋歌らしい。
「……どういう意味の歌なんだ、これは」 「どういう意味て」
くすくすと、何が面白いのか笑い声を立てた後、彼女は更に顔を寄せてくると、新聞の上、その歌の部分につい、と人差し指を滑らせる。
「て、いうか、なつきはまだこの歌、習てへんのやね。ほな、まだ教えん方がよさそうどすなあ」 「あのなあ……」
すっ惚けた声はからかうような響きが濃厚で、思わず声を荒げたけれども、堪忍、と軽くいなされる。
「せやけど、なつきもいよいよ高校生やし。いつまでも理科数学だけに頼ってんと、文系科目もちゃんと勉強せんとあきませんえ?」 「う、うるさいっ」
明らかに面白がっている彼女の言葉が図星だったことも手伝って、いらだつ気分もそのままに手の中の新聞紙をくしゃりと握り潰して付き返す。
「成績なんか、どうだって良いんだ、どうせ……!」
高ぶる気持ちのまま言い掛けて、はっと口を噤む。
――どうせ、この場所からは逃れられないんだから。
嫌な事を思い出した。
「なつき……」
心配そうな彼女の声音に、我に返る。
「なんでも、ない」
頭の中を過ぎった何かを振り切るように言い放つ。
「そんな事よりも、ちょっと調べたい事があるんだ……構わないか?」 「ええよ。他ならぬ、なつきの頼みやもん」 「おまえなあ……」
そんな言い方はやめろ、と睨みつけた彼女の顔には、何のかげりも無い。くしゃくしゃになってしまった校内新聞を丁寧に畳み直しながら、自分の席へと戻るその背中を見やって、どうしてだか、寂しいような落ち着かない気分に、なった。
モニタの中を流れる情報に目を走らせている間、彼女は決して邪魔をしたり話しかけてくることはない。給湯室で茶の支度をしていることもあれば、少し離れた場所で、事務仕事を片付けていることもある。何のために何をしているのか、気にはならないのだろうか、と不思議に思ったこともあったが、訳を話せる筈も無かったから、彼女の自然な無関心な態度は本当に有難い。
――変な奴だな。
癖のように時折、思う。 以前から周囲に人の耐えない奴ではあったけれども、生徒会長に選ばれてからはいっそう、注目を浴びるようになった彼女だが、その実、何ともつかみ所のない、一種の変わり者である事は間違い。 そんな彼女に友だち扱いをされるようになってから、この春でちょうど、三年。勉強だの食生活だの、日常に関するあれこれには煩いほど口出ししてくるくせに。
― 続きはまた明日!(何)。
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