一橋的雑記所

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2003年03月02日(日) オンリー用下書き※ホントは070503.

堕ちて行く。
何もかもが。
光を空気を温度を失って。
いっそ安らかなまでの闇の中へと沈み行く。
ただ、そればかりな筈だった。
 
















深 淵
                    一橋。 


深い水の底から浮き上がる。
取り戻した意識が激しい目眩と息苦しさに晒されて。
もがいて足掻いて苦しんで。
それから、再び落下する。
全てが拠り処をを失い予測の付かない力に引きずり回されていく。
酷く、目が回る――。
もういい。
沢山だ、もうこんな――。

「……なつきっ!」

はっ、と目を瞠る。
薄闇に覆われた視界の中。
酷くくっきりと浮かび上がったのは、血の色にも似た、真紅。
それは、この身体の上に圧し掛かるようにしてこちらを覗き込んでいる彼女の瞳だった。
反射的に唇を開き、その名を呼ぼうとする。
けれども声は、掠れて形を成さなかった。

「どないしたん……えらいうなされて」

乾いた唇を軽く舐めて湿すよりも早く、静かな、けれども切迫するものを湛えた彼女の声が耳朶を打った。

「……なんでも……」

いがらっぽい咽喉を押して答えながら。
何故だろう。
泣き出しそうだと思った。
自分では無く、彼女が。

「何でもない……夢を、」

そう。
夢を見ていた。
暗く冷たく苦しい、夢。
けれども何処から説明したものかちっとも分からなくて、ただ大きく息を吐くと、頬に冷やりと触れるものがあった。
彼女の、細い、指。
それは微かに、でも確かに震えていた。
何故だか落ち着かない気分になって瞠った目が暗闇に慣れ始め、彼女の顔に焦点を結ぶ。

――こいつのこんな顔見たの、初めてかもしれない。

いつもの、穏かで何を考えているのか掴み所の無い笑みは何処かに消えうせ、酷く不安定な表情だけがそこにある。
思わず、まじまじと見つめていたら、その顔が不意に逸らされた。

「夢を……見ただけだから……」

頬に添えられた指がそっと離れていくのを見送りながら慌てて搾り出した声は、自分でも驚く程情けない響きを湛えていて、彼女も吃驚したのか、勢い良く振り返った。

「夢……?」
「ああ……昔の……」

戻ってきた彼女の眼差しが、思った以上に柔らかかったことに安心して肩の力が抜ける。

「……昔の、夢だ……」

そうして目を閉じる。途端にくらり、と軽い目眩を覚えて眉をしかめる。

闇だ。
引き摺り込まれ、二度と浮かび上がれないと思ったその場所は。
暗くて冷たくて。
夢中で伸ばした手には何も掴めなかった。
光も音も、熱も無く。
そして、誰も居なかった。

胃の辺りからぐっとこみ上げてくるものに歯を食い縛り耐えた、その時だった。
傍らにあった彼女の気配がすっと離れていくのが分かって、目を見開いた。

「静留……?」
「ちょお、待っててな」

身を起こした彼女がやんわりと微笑むのが、薄闇の中、見て取れた。
そのまま、夜着に身を包んだ後ろ姿がこの部屋を出て行き、開いた扉の向こう、恐らくキッチンの明かりを灯したらしいのをぼんやりと見送った後、もう一度大きく息を吐いて両腕を頭の上に伸ばしてみる。

ここは、私の部屋で。
でも、寝ているのはいつものロフトのベッドではなく、床の上にのべた、二組の寝具の内の一つ。
頭を右に倒せば、もう一組の寝具の上、彼女らしくもなく無造作に捲り上げられたままの掛け布団が目についた。
新年度が始まってまだ間もない今の時期、諸々の取り込みごとやもう直ぐ始まる実力テスト対策にかまけて酷い生活を送っていた私を見かねたのか、昨日から彼女は、勉強と日常生活のお節介をしに泊り込みで押しかけて来ている。
最初はいつもどおり自分はベッドに寝て、彼女のはここで一人で寝てもらうつもりだった。けれども、この所の不摂生が祟ったのか軽く熱を出した挙句、一人ではベッドにもたどり着けそうになくなった私を心配した彼女によって、急遽二組布団を並べて眠ることになったのだった。

――油断した、な……。

投げ出した腕を目の上で交差させ、軽く歯噛みする。
独りで眠る夜には、時々ある事だった。
普段は思い出そうとしても薄ぼんやりと掴み所の無いものでしかない記憶が不意に、心の底から沸き上がり、突き上げて来る。
そうして見る夢は、いつも同じだった。

雨、疾走する車、耳を塞ぎたくなるような異音。
母の悲鳴、腕の中から離れてゆくぬくもり。
激しい衝撃、刹那の痛み。
それから押し寄せる冷たい、暗い、奔流。
体中を、全てを圧するそれに、身を委ねた途端、訪れる。
酷く穏かで優しい、闇。

知らない内に震え始めた身体を自ら抱き締める。
本当に、苦しかったのは、その後だった。
永劫に続くかと思われたその闇が不意に奪われた、その後の――。

「……なつき」

そっと、声が届いた。
柔らかな、そして独特な響きを湛えた彼女の声に、ゆっくりと目を開く。
少し離れた場所に膝を落とした彼女が、布団の脇に寄せていたテーブルの上に何かを置くのが見えた。

「静留……」
「えらい汗、かいたはる」

微笑みながら伸ばされた手が、額に触れる。
それはもう、震えてもおらず、冷たくも無かった。

「そのままにしてたら風邪、酷うなるさかいに」

な、と緩く首を傾げるようにして促され、重い身体をゆっくりと起こした私の目の前に差し出されたものは。

「……なんだ、これ」

仄かに甘い香りのする、白い湯気が立ち上るマグカップが一つ。

「ホットミルク。お砂糖と、少しやけどブランデーも入れてみたんよ。身体、暖まるか思て。内側からちゃんと暖め直してから、汗拭いて着替えた方が熱も上がらへん、思うし」

な?、と更に近付けられたカップを反射的に受け取ると、彼女の笑顔が深くなった。

「ちょう熱い思うから。気いつけてな」
「分かってる」

何となく顔をしかめつつ用心深く息を吹きかけてから一口含んだそれは、思った以上に甘かった。

「どうどす?」
「……ん」

にこにこと顔を近付けてくる彼女の方は見ないようにして更に飲み下す。仄かなアルコールが咽喉の奥を微かに焼きながら降りてゆく。残りを一気に飲み干すと、確かに身体の奥からほかほかと暖かくなってくるのが自分でも分かった。

「さ、飲み終わったら、次はお着替えやねえ」
「ああ……って、良いから、自分で出来るからっ!」

空のマグカップを受け取りテーブルに戻すやパジャマの裾目掛けて伸びてきた彼女の手を振り払い、慌てて立ち上がる。

「あら、いけず」
「いけず、じゃない。……まったく……」

横座りの姿勢を軽く崩してしなを作ってみせる彼女を一瞥してから、洗面に向かう。

「ちゃんと汗、拭かなあきませんえ」

お節介な声が背中にぶつかる。
すっかりと子ども扱いなそれをでも、少しも疎ましく思って居ない自分に気付いて、私は思わず苦笑いした。


ただ汗を拭くだけでは足りない気がして、思い切ってシャワーを浴びる事にした。熱めのお湯で身体を洗い流してさっぱりすると、思った以上に身体が軽くなっていてほっとする。
新しいパジャマに着替えてバスタオルで湿った髪を拭いながら部屋へ戻ると、てっきり先に寝んでいると思っていた彼女が、布団の上ですっきりと背中を伸ばして座っていて、ぎょっとした。

「……ああ、お帰り」
「なんだ、先に寝てるかと思ったのに」
「いややわあ、なつきよりも先になんて寝れません」
「静留……」

明らかに悪ふざけと分かる口調と表情に軽く疲労感を覚えながら自分の布団の上に座り込むと、彼女は、なに?、とばかりにおっとりと首を傾げてみせた。

「そういう冗談は程ほどにしてくれ。明日は休みじゃないんだし」

言いながら布団の中にさっさと潜り込む。けれども、彼女の動く気配は無い。
気になって顔の上まで引き上げかけていた布団を除けて見上げると、彼女は少し斜めに身体を傾けるようにして、肩越しにこちらを見下ろしていた。

「何?」
「……その……」

穏やかで、優しい、けれども、どこか無機質な。
滅多に目にすることはないがでも。
流石に長い付き合いだから、いつしか気付いた。
透明な無表情に近い笑顔が今、彼女の表を覆っている。

「……静留も、疲れているんじゃないか」

え?と、僅かに驚いたような色が差して、その無表情が緩む。

「ごめん、その、色々世話してもらっておいてから言うのもへんだけど。静留も三年生になったんだし、勉強とか、その、色々忙しいはずだよな。その上、寝ぼけた私に夜中に叩き起こされて……だから」

言いながら、何を言おうとしていたのか、何を言いたかったのかが段々と分からなくなって、驚きに目を見張っている彼女の顔すら、まともに見られなくなっていく。

「だから、その、有難う。ミルク、美味しかったから。もう大丈夫だから。静留も……早く、寝ろ」

訳の分からないまま、紅潮する顔を見せたくなくて乱暴に布団を引き上げると、彼女に背を向けて包まった。
慣れないアルコールのせいかもしれない、熱を帯び始めた瞼をぎゅっと閉じると、一気に視界が闇に沈む。
瞬間、先程の悪夢の影がまた差して、軽く目が回るような錯覚に陥る。
思わず息を詰め、丸めた背中の向こう、微かに彼女が身じろいだ。
そっと、本当にそっと、用心深い猫か何かのように近付いてきた気配が、私の背中に触れてくる。

「なつき……」

気遣わしげな声に思い出す、目が覚めた瞬間の、緋色。
泣き出しそうだと、思った。
大丈夫だ、と今一言、言葉に出来れば彼女は安心するのだろう。
けれども、布団越し、あやすように上下する彼女の掌に釣られるように更に不安定な記憶が心の内側からあふれ出してきて、声にならない。

体中を圧する、冷たく重い暗いもの。
それに身を委ねきった時、訪れた静寂。
痛みも悲しみも畏れもどこかへ消え失せて。
穏やかにすら感じられる、漆黒の彼方へ。
少しずつ、この身体も心も引き寄せられていこうとしていた、その時だった。
堕ちて行く時の比ではない程の激しさで全てが逆流した。

目まぐるしく流転する世界。
この身体と意識を取巻いていた全ての静寂が一気に失われ。
流れ込むは光と痛み。
上下も左右も無い、混乱の中。
激しく振り回され引き上げられ。
死に最も近付いたあの闇を恋しく思う程の生が、再び、この身に押寄せてくる、その恐怖の中。
ありとあらゆる感情がこの胸の中に吹き荒れた。
それでも、私は……あの日から私の目は、涙一つ零せないままで。
あの闇の暗さを、冷たさを懐かしみすらしているようで。

「なつき……」

耳元に流れ込む声は。
やはり、泣いてるようだった。
何故、と訝しむ気持ちが、記憶の淵に引きずりこまれかけた心を現実へと引き戻す。
何故だろう。
彼女には、全てを、見透かされているような気が、した
私の過去も、何もかもを。
一言だって、話したことはない。
けれども、全てを彼女は承知しているのではないのか。
ふと、そんな気がした。

「まだ、苦しいん?」
「……違う……」

違う。
そんなこと、ある筈がない。

「ちょっと、眩暈がしただけだ……ちゃんと眠れば、治る」

彼女は、必要以上に私には近付かない。
何故だろう、これ程までにない位にお節介な癖に、彼女の中では何か明確な一線が引かれている事は明らかだった。
でも、それでいい。
聡い彼女のことだから、何処かで気付いているのかもしれない。
これ以上、踏み込んだり関わる事で降り掛かるかも知れない災厄に。
ならば、それでいい。
その方が、いい。

噛み締めた奥歯が、つんと痛んだ。
その痛みが、鼻の奥や胸の辺りにまで及ぶのを必死で堪えていた時。
そっと、彼女の腕が、布団越しにこの身体を包み込むのが分かった。

「大丈夫や……」

頭の直ぐ後ろで声がした。

「なあんも怖いこと、あらへん。うちがそばに居りますよって、なあ……」

まるで子どもをあやすような声音に、頬に朱が走り、内へ内へと向いていた意識が引き戻される。
思わず振り解こうとするよりも早く、肩に彼女は額を押し付けてきた。

「なつきは、強い子ぉやなあ……。けど、うちしか居てへん時くらい、我慢せんでもええんよ?」
「な……」

何の話を、と言い差した時、くすり、と小さな笑い声が聞こえた。

「怖い夢みた、いうて泣いたって、うち誰にも言いませんえ?」
「な……! だ、誰が泣くか誰が!」

流石にかっとなって振り返った視線の先、ごく近い場所に彼女の顔があって息を飲む。

「……なあ、なつき」
「……なんだ」

邪気の無い笑顔に毒気を抜かれ、怒る気も失せてしまった私に、彼女は顔尾を寄せてくる。

「そっちのお布団に、入らせてもろてもええ?」
「はあ?」
「なんやうちも、このまま寝たら怖い夢見そうで心細いんよ」

なあ、ええやろ、と。
いつも以上に悪戯っぽい笑顔で訊いてくる彼女に、ふざけるな、と即座に応えられなかったのは。
私の肩を抱き締めて離さない彼女の掌が、酷く冷たかったからだった。

心配を掛けた。
心配を掛ける。
多分、これからも。
本当なら、近づけないで。
振り払うべきなのかもしれない。
彼女が引いた、その一線の向こうに出来るだけ。
彼女を追いやってしまうべきなのかもしれないのに。

巻き込まない内に。

「……堪忍、」

つい、睨みつけるみたいに見つめていたらしい、彼女は何を思ったのか、困ったような顔になるとそっと身を引いた。

「冗談や。つい意地悪してしもた」

微笑みながら目を逸らし、顔を背けた彼女に、胸がつきりと痛む。

「待て、静留……」

手を伸ばす。
冷えた掌を捕まえる。

「良いから」
「なつき……?」
「今更離れられると、その、寒いから」

軽く布団を捲り上げ、少し身を引いて彼女の分の場所を空ける。

「なつき……」
「早くしろ、冷たくなるだろ」

言い捨てて、何故か照れくさくて目を逸らす。
少し間を置いて、また小さな笑い声が降ってきた。

「違うぞ、夢が怖いからじゃないぞ、寒いからだ」
「はいはい」

軽く受け流すような声に、釈然としない気分になりながらでも、素直に布団に滑り込んで「ぬくいなあ」などと呟いている彼女に、ほっとしている自分に気付く。

「……静留」
「はい?」
「……その……」

呼びかけたものの、今更何が言えるのか分からず口ごもった私を見上げるようにしていた彼女が、やんわりと笑んだ。

「なつき。気にせんでええよ」

そっと伸ばされた手が、髪を撫で過ぎる。

「言いたいこと、聞いてほしい事あるんやったら、うちはいつでも聞きますけど……言われへんこと、言いた無いことは、無理に口することあらしません」

驚いて身を竦ませた私の髪を、それでも彼女は気にした風もなくその指で梳き続ける。

「うちがしてることは全部、うちの好きでやっとること」
「静留……」
「そやから、なつきも、なつきのしたいようにしたらええ思います」

髪を梳いていた手がゆっくりと動いて、頬に触れてくる。
その指は、震えては居ないけれどもやはり少し、冷たい。

「うちの心配も、お節介も、うちの勝手やさかいに、そないに気にせんと。な?」
「……静留は、」

ん?と聞き返してくる顔に、呆れたような、哀しいような気持ちになって、思わず顔を背ける。

「静留は、私に甘過ぎる」
「そうどすか……?」
「むちゃくちゃだ」

その差し出された手を、手酷く振り払ったこともあった。
酷い言葉を投げつけ、遠ざけようとしたことだってあった。
これみよがしな同情心から近付いてくる連中と同じだと、そう思い込んでいたことも。
でも。

「それはなあ、うちがなつきを好きやから」

それでも。
そんな言葉を恥ずかしげもなく投げつけては。
決して離れてゆく事なく。

「……なつき……?」
「……なんでもないっ」

頭に上った熱が、そのまま。
瞼に集まりそうになって、思わず顔を枕に押し付ける。

「……もう、寝る」
「そやね、明日も学校やもんね」

ほなおやすみ、と囁いた後、頭を撫でてから離れていった彼女の指先を、惜しいと思う自分がなんだか信じられなかった。

どんなに辛くても。
どんなに苦しくても。
涙なんか、出なかった。
泣く気力すら失ってただ生きていた日々。
気が付いたら、悲しみよりも憎しみの方が勝る心をもてあましていた。
私から全てを奪ったものたち。
全てを奪いながら私だけをこの世に引き摺り戻したものたちへの。
憎悪と復讐心だけでこの心を満たして生きてきた。
なのに。
でも。

間近に感じる人の気配。
冗談交じりに口にされる優しい言葉。
そして。
泣けない自分の代わりでもあるかのように。
悲しみに潤んでいた、緋色の瞳。

それは、全てを失った私に残された。
たった一つの大切な、何かのようで。
そのぬくもりが、嬉しくて、同時に何故か。
哀しくて、怖いような。
そんな思いを抱える内に、私は再び、眠りに落ちる。





けれどもその夜の闇はもう二度と。
私の心を、捕らえはしなかった。



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