一橋的雑記所
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珍しい、そして、懐かしい顔を見掛けたから。 声を掛け、お茶に誘った。 彼女は、私の記憶の中の姿よりも、ほんの少しだけ。 輪郭が柔らかくなった、そう思った。 私の大切なあの子も、そうだと良いと、ほんの少しだけ。 そう思った。
最初は、当たり障りの無い話題から。 そう、お互いの近況だとか、近づいてくるクリスマスについてとか。
「そういえば」
私は、やんわりとした微笑を浮かべて見せる。
「クリスマスといえば、一昨年は大変だったわね」
それまでの話題では何故か触れられる事の無かったあの子を匂わせた途端。 彼女の綺麗に切り揃えられた髪が、その形の良い顎の線辺りで僅かに揺れた。
「あなたにも、随分と御世話になったし」 「そんなこと……」
幾分歯切れ悪い口調で呟いた後、彼女はそっと視線を落とした。 私の最愛の妹――あの子が引き起こした一連の出来事を今だに一番重く記憶しているのは、もしかしたら彼女なのかもしれない。 その事に気付いて、ほんの少しの憐憫と同情と嫉妬を同時に覚えた。
「あの子は元気?」 「……だと思います」
そして彼女は語り出す。出身校の学園祭には一緒に行ったのだと。 彼女の口から改めて窺い知るあの子の姿は、私がその場所に居た頃には望んでもなかなかに眺める事の出来ないもので。
「妬けるわね」 「……はい?」
正直に呟いてみせた言葉に、彼女の言葉と表情が一瞬、凍りつく。 その顔はかなり見ものだったので、私の機嫌は一気に上向いた。
「良いわ、ともあれ、あの子は元気なのね?」 「ええ…はい」
答えた彼女の要領を得ない様子は、私の反応とあの子の現状の両方に対するものだと思った。 進路を違えた二人は、あの頃以上にお互いの日常に踏み込む事無く、あの場所だけを接点として付き合い続けているのだろう。 それは彼女の律儀さとあの子の臆病さが招いたものなのだろうか、それとも。 私は、ふと思いついて、背もたれと背中の間に挟みこんでいたハンドバックを膝に移すとそのまま、金具を開いて中から小さなポーチを取り出した。 彼女の瞳が、私の手元とその動作に引き付けられるのを確認してから徐に、中身を引き出す。 あ…と彼女は、吐息のような声を漏らした。 薄いセロファンに包まれた、薄青いパッケージ。
「懐かしい?」
悪戯っぽく呟いて、私は銀の紙を開いて中から一本を取り出す。 彼女は何と言ったら良いものか…といった顔でただ戸惑っている。
「流石に、あの日の残りじゃないわよ、これ」 「……今でも、お吸いになるのですか?」
ようやっと、という感じで零れた彼女の声に、私は思わず微笑んだ。
「吸い始めたのは、つい最近の事よ?」
一応、法律上の違反を犯さずに済んでからだから、と付け加えると、大学で法学を学んでいるという彼女は、再び何とも言えない表情で黙り込んだ。 その眼差しを受け止めながら、フィルターを咥えてその先に火を灯す。
「……私は懐かしいわ」
軽く、メンソールの香りのする煙りを口中に含み、彼女から顔を逸らしながら吐き出す。
「そして、ちょっと、気恥ずかしくもあるの」
彼女には、分かってもらえるだろう。 そう思った。 あの日、私の大切なあの子が最愛の人を失ったあの夜。 あの子の為に奔走してくれた彼女ごと、私はあの子を自宅へ連れ帰った。 適度に放任で適度に子どもに甘い両親が私に与えてくれた離れの一室に二人を連れ込んで、本来なら許されないものに手を出させた。 甘い口当たりの発泡酒程度なら平気で口をつけた彼女も、適度に酔いが回った頃私が取り出した小箱を目にした時は、流石に顔色を変えた。
――それは…さすがに身体に悪過ぎます。
生真面目に自分だけではなく、あの子に受け取らせる事さえも拒絶した彼女を思い出して、私は小さく微笑んだ。
「でも、あの時のあの子には必要だと思ったのよ私は」
二人が思う以上に私は、あの子の事で、おかしくなっていたのだと。 今なら、分かる。 私は、私の居ない場所であの子が幸せでいる事は全然構わなかった。 誰かの側で、誰かの腕の中で安息を得られるのなら。 あの綺麗な顔が、誰かを思う事で憔悴する姿は、美しいとさえ思えた。 けれども、私は、怖かった。 私の居ない場所で、あの子が。 何かに溺れ、自らを傷つけ、損なう事が。 だから、必死だったのだ。 彼女にも、あの子にも気付かれない部分で、必死になっていたのだ。
「……白薔薇さま」
彼女の唇から、懐かしい呼び名が零れ落ちた。 そのまま、躊躇いを纏った沈黙が彼女から言葉を奪うのを認めて、私は軽く頷いた。 彼女は、気付いたのだろう。 あの頃の私の臆病さにも、必死さにも。
「あの子が未だにお酒にも煙草にも手を出せないでいるなら大成功なのだけれども」 「お酒はどうか知りませんけれども」
やっと、彼女の頬から強張りが取れた。 あの頃よりもずっと柔らかくなったその輪郭が、仄かに綻ぶ。
「煙草だけは駄目みたいです」 「試したの?」
ええ、と頷いた彼女が。 あの場所を越えた接点を持ってあの子と今なお繋がっている事にようやく気づいて。 私は、笑った。 心から。
「私は、当分止められそうにないけれども」
あの子とも、彼女とも遠く離れた場所で。 自分の弱さを許す為には、どうしても、必要だから。 けれどもそれは、言葉にしなかった。 彼女もその訳を、尋ねようとはしなかった。 クリスマスを間近に控えた冬の一時。 私は、あの子を想う時間を得た幸せに、深く白い息を吐いた。
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