一橋的雑記所
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当たり障りなく場を持たせる話術も人の気を逸らさない笑顔も。 多分、対象となる相手の為と言うよりは自分自身の為に。 自然に身に付け容易く奮う事が出来るようになったスキルに過ぎなくて。 返される笑顔や甘い媚態を含む声音のその裏に潜む打算とそれは。 等価なものだといつしか信じて疑わないで来た。 だから、そんな自分には。 彼女の一途な想いも夢も。 余りにも重く、眩しいものでしかなかった。
級友や生徒会の仲間たちに囲まれ…と言うか。 押し合いへし合いしながら校門を出てきたお気に入りの後輩を。 クラクション一つで呼び止めたのは、そう、ちょっとした悪戯心からで。 周りに囃し立てられながら助手席に押し込まれた彼が、革張りのシートに深く身を沈めたなり、一言も口をきかない所か視線一つ此方に寄越さないでいる事に気付いた時も僕は。 いつもの調子を崩さないでいるつもりだった。
「成績でも下がったのかな?それともこの後、連中と何か、予定でもあったのかい?」
軽い口調で話しかけても、「別に特に」とそっけない言葉がそびやかされたままの肩越しに返ってくるだけで。
「つれないねえ…まさか、この前の事を根に持っているとか?」
さらっと差し出した餌につい釣り込まれたようにぴくりと動いたその肩を視界の隅に認めて、口元を軽く緩ませる。
「悪かったね。せめて、別の日に誘うべきだったかな?」 「そういう冗談、いい加減やめてもらえませんかね」
いつもならうんざり口調で返って来る決まり文句が今日ばかりは随分と真剣な響きを湛えていて。ちょっとやり過ぎたかなと軽く反省する。
「悪かった。でも、助かったよ」
あの日、一大決心と共に最愛の妹を遊園地に誘い出した従妹のはしゃぎっぷりと、予想通り人混みで崩れ落ちた姿とを交互に思い出しながら、出来るだけ真摯な声音を心掛けて呟くと、ほんの少しだけ、此方に向けられていた背中から強張りが解けるのが分かった。 基本的に、この後輩は、人が好い。 理由も告げずに「ちょっと手を貸して欲しい事があるんだ」の一言に応じる形で期末テスト休みの一日を割いてくれたのだから。 その上。 そうして連れ出された先に、自身の実の姉とその「お姉さま」である僕の従妹のデート現場があった事に対しては、それなりの衝撃を受けたようだけれど、僕の主な目的が従妹のエスコート以外に……再度に渡って彼の姉君と二人切りで話すことにあった事を見抜ける位には、聡明で。 だから。
「本当に、助かった」
駄目を押す意味でも、僕は、繰り返し感謝を言葉に表した。 けれども。
「先輩」
一瞬緩んだかに見えた彼の背中が、再び鋼にも似た硬質を取り戻し。
「……降ろしてもらえませんか」 「どうして?」
鋭い冷気さえ滲ませた声音に、僕は反射的に笑みを含んだ言葉を返すしかなかった。
「お礼に、昼飯でも奢るつもりなんだが…気に入らなかったかな」 「……ええ」
敢えてフロントガラスから視線を戻さないで呟いた僕の頬は、彼の視線を感じて不本意ながら軽く震えた。
「お望みなら、夕食にもご招待するけれども」 「ふざけないで下さい」
ぶっきらぼうに彼が言い放った時、目の前の信号が赤になり。 僕はブレーキペダルを思いっ切り踏みつけると同時に、ドアロックの為のボタンに力任せに指を押し付けていた。
「いい加減にしてくれ」
僕の反射的な行動など意に介した風もなく。 彼は、シートに強く背中を押し付けたまま、吐き出すように呟いた。
「俺は、あんたが手を貸してくれっていうから乗ったんだ。祐巳…姉や祥子さん絡みの事だって分かった時も、ちょっとは驚いたけれども、あんたなりに考えがある事は分かっていたから……でも」
ぎり、っと、車内に響き渡る程の音を立てて、彼が奥歯を噛み合わせるのを聞きながら、僕は右足をアクセルに乗せ変える。
「でも?」 「その理由を事前に話せないなら…話したくない程度にしか俺を信用してくれていないのなら、もう、こういうのは、勘弁して欲しい」
踏み込み掛けたアクセルから、足がするりと抜けて。 がくん、と大きく揺らいで。 僕の車は、交差点を抜けた所で、すとんと停止した。 瞬間、後方から鳴り響くクラクションやパッシングも、酷く遠いものに感じられて。
「……心外だな」
ゆったりと、手足が自動的にクラッチやハンドルやギアやアクセルの上を滑っては動くのに任せながら辛うじて僕は囁くように言葉を紡ぐ。
「誰が誰を信用していないって?」 「あんたに利用される事自体は不快じゃないよ、俺も」
遮る様に飛んできた言葉はそれでも、酷く穏やかで。 僕は、いつも以上に慎重に、車道に立ち尽くしていた愛車を走り出させる。
「結果的には、正しいことだったって後から分かることも多いですしね。けど、今度ばかりは、ちょっと、我慢出来ない」
彼の言わんとしている事の意味を掴み損ねて。 僕の思考は、問題なく走り出した車と裏腹に立ち往生してしまった。
「祐巳ちゃんの事かい?」 「それもある、けど」
気難しげに引き結ばれた口元は、今まさに話題に登った彼の姉を思い出さずには居られないもので。
「結局、あんたが一番、何の為に…誰の為に動こうとしてのか俺にはさっぱりわかんねえから…」
思わず見入っている間に零れ落ちた言葉が、ほんの少しの時差を伴って耳朶を打った。
「それをちゃんと説明してくれる気がないんだったら俺、今日は――」 「僕が動くのは、僕の為だよ」
今度は、僕が彼の言葉を遮る番だった。
「さっちゃんが望むものを与える事も、君のお姉さんに後を託すのも、その為に君を利用したのも、全ては、僕自身の満足とか充足とか、その為に決まっている」
何故なら僕は。 どれほど望もうが、求めようが。 愛そうが。 彼女が本当に身も心も僕のものになったとしたならばその瞬間。 彼女を見失うに違いないから。
自分でも上手く説明の付かない感情や心を。 幼い頃から、僕の後を追うようにして歩いて来た彼女に。 問答無用で押し付ける真似だけは出来ないといつからか思っていた。 彼女が、生涯の伴侶に求めるものを。 僕だけは決して彼女に与える事は無いだろう。 そんな一方的な関係はあの気高く誇り高い彼女をいつしか。 貶めくすませ、台無しにする事だろう。
いや、違う。 僕は、怖かった。 年追うごとに、自分を取り巻く現実に気付くたびに。 僕に対する信頼を深めていった彼女の瞳に。 失望が浮かぶのを見るのが、怖かった。
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