1990年09月22日(土) |
棚卸し −精神的疾患発病− |
正看の学校は3年。 最初の2年は普通の授業で、3年目は病院実習。
自慢ではないけれど、正看の国家試験を想定した学力テストでは学年100人中2位を取った程成績は優秀だった。
3年目の実習では、毎日レポートに追われた。 看護目標を立てて提出し、看護計画を立てて提出し、実施して提出し、評価して提出し・・・ その繰り返し。 看護学校の先生に提出するのだけれど、出来が悪ければ赤ペンで添削されて返って来るので修正して再度提出しなければいけない。 担当の先生は、実習に行く科が変わる度に変わる。 大変ではあったけれど、まずまず順調に進んでいた。
辛い実習も半年頑張ってきた頃、何科の実習だったか忘れてしまったけれど、担当の先生は厳しい先生だった。 レポートを出す度に真っ赤に添削されて返って来る。 私は、寝る間も無くレポートの修正を繰り返した。 先生に要求される様に書くと、本当に本当に小さい字で書いても、レポート用紙に納まらない程の膨大な量になる。 いくら寝ずに修正・追加して提出しても、何度も何度も真っ赤になって返ってくるレポート。 同じグループの子たちは、修正しても1回程度でOKが出ていた。 どうして私はダメなんだろう? レポートが真っ赤になって返ってくる度に絶望感に襲われた。 どんどんと追い詰められていっていたある日、いつもの様にレポートの修正をしていると、突然シャープペンシルがポトリと落ちた。 手に力が入らない。 シャープペンシルが持てない。
翌日、体調不良と実習を休んだが、他の物は持てても、どうしてもシャープペンシルが持てない。 激しい動悸に襲われる。 もう、レポートに向かうのが怖くて堪らなかった。 逃げたくて堪らなかった。 死にたくなった。 でも、父親代わりだった祖父を自殺で失った私は、家族が自殺した後、残された者がどれだけ辛く苦しい思いをするのか自分自身思い知っていた。 ましてや、これまで手の掛からない祖母の自慢の良い子な私が自殺なんてしたら・・・ それを思うと、消えたくて堪らなくなった。 誰の記憶からも私という存在を消し去ってしまいたい。 消えたい・・・消えたい・・・ それしか考えられなくなっていた。
何日実習を休んだだろう? もうどうしようもなくなり、先生に全て正直に打ち明けた。 先生からは思いもよらない言葉が返って来た。
「きゃさりんさんのレポートは、誰よりも良く出来てたの。だから、きゃさりんさんならもっと出来ると期待していたの。」
その言葉を聞いて、またうなだれた。 ほとんど寝る事も出来ず、シャープペンシルが持てなくなる程まで追い詰められて書いてきたレポート・・・ 他の皆はどんどん進んで行くのに、私だけ前に進めずに毎日毎日真っ赤になって返って来るレポートの修正に追われた。 それなのに、誰よりも良く出来ていたなんて・・・
先生の勧めで心療内科を受診すると、病名は「不安神経症」。 入院することになった。 この時私は23歳。
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