1990年09月15日(土) |
棚卸し -母との関わり、兄との関わり- |
父が他界してから、母は、1年か2年に1度程帰ってくるようになった。 帰ってくるといっても、一泊か二泊程度。 私たちを捨てて出て行った母親。 しかし、まだ小学生だった私にとって、母の帰省は正直嬉しかった。 母が、また遠くへと帰っていく朝、私は、泣きじゃくって母たちを困らせた。 だが、母の居なくなった家では、「お母さんなんていなくても寂しくないよ。」「お母さんなんていらない。」そんな言葉を吐いていた。 それは、ある意味自分への自己暗示であり、私たちを育ててくれている祖父母への子供なりの気遣いだった。
兄は、中学では有名な不良になっていた。 中学を卒業した兄は、高校へは進学せず、他の不良仲間と引き離す意味も含めて、遠方の母と母の内縁の夫の住む家に住むことになり、仕事を始めた。 しかし、1週間もした程でホームシックにかかり、逃げ出すように帰ってきた。 本来、心の優しい兄は、友達との絆も強く、友達と離れていることも耐えられなかったようだ。
その後、得意の水泳を生かした仕事をしながら、暴走族に所属していたようだった。 何故か私には、秘密にしていたけれど。 ますます私から兄は離れていったような気がした。 ほとんど口を利かない状態は、私が高校に入る頃まで続いた。 家族が、どんどんとバラバラになっていくような感覚を憶えた。
しかし、心は途切れてはいなかったのだ。 それに気づいたのは、随分と経ってからのこと。
私が中学でのほほんと過ごせていたのは、兄の名前があったからだった。 決して私に手出しはするな。という通達が回っていたらしい。 更に私が高校生になると、兄は、私の男性関係にうるさくなった。 だんだんとシスコンぶりを発揮し始めたのだ。 男の子からの電話は、ほとんど切られていた。 他にも「社会人とは付き合うな。」「男が出来たら、俺に会わせろ。俺が兄として見定めてやる。」などと言うようになった。 少々やり過ぎな所もあったので、迷惑な事もあったが、こっそり嬉しかったりもした。
このころから、母のことはどうでも良い存在になっていた。 小学6年生の頃、同級生の男の子に、「お父さんもお母さんもいないくせにっ!」という言葉を吐かれ、泣きながら帰ったこともあり、恨んだりもしたが、もう、うちの家族スタイルが出来上がってきた今、母への恨み辛みはすっかりと薄れていた。
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