1990年09月12日(水) |
棚卸し−父の思い出− |
父は優しかった。 気の長い人で、子供の遊びにもいつまでも付き合ってくれた。 縁側で兄と3人、一日中漫画本を読んでいたこともあった。 隣町のお祭りに、舟で連れて行ってもらったこともあった。 車の免許が取り消しになってしまい、造船所に勤めていた父は、舟で通勤していたのだ。 お祭りの帰りの舟で、私は毛布にくるまり花火を見た。 夜の小さなポンポン舟の立てる波は、プランクトンが緑色に光って幻想的にも見える。 けれど、小さなポンポン舟は、真っ暗な広い海に今にも飲み込まれそうで怖かった。 母がまだ家にいた頃、一度だけ父が母を殴るところを見た。 原因は知らない。 あまり覚えていないけれど、父は酔っていたような気がする。 怖かったという記憶もない。 その後、私は、片目に青あざを作った母に、「パンダ!パンダ!」と言い、 眼帯をした母に、「タモリ!タモリ!」と言ってはしゃいでいたのを覚えている。 見たままを素直に悪気もなく口にしてしまう子供のなんと罪なことか。 母はどんな気持ちでいただろう。 特に父の悪口を聞かされた覚えはない。 何も言わずに母は消えたのだ。 私は小3になった。 相変わらず母はいない。 父と兄と祖父母と5人の暮らしが普通になっていた。 夏真っ盛り、お盆前に、ウチに自動販売機が設置された。 ウチの前の海は、釣り人が多く、その釣り人を狙った自販機の設置だった。 父は、家を空けることが多く、自販機を設置したその日も家に帰ってはこなかった。 そしてお盆に入り、帰ってこない父を心配していただろうか? そのことは記憶にないけれど、14日だったか15日だったか、家に一本の電話が入った。 確か、祖父が応対していたと思う。 直感的に何かを感じた。 私は、階段の下から、二階の部屋にいる兄に向かって言った。 「お父さん、死んだかもしれない。」 何の感情も見えない淡々とした口調で。 自分でも不思議な感覚だった。 小学3年生だ。“死”の意味が解らなかったワケでもなかったはず。 しかし、さほど“哀しみ”という感情は無かったと思う。 中学1年生の兄は、 「悪い冗談言うな!」 というような事を言っていた気がする。 冗談なんかじゃない。大まじめだったのだけど。 父との思い出・・・ 他にあっただろうか? 保育園の頃、交通事故で入院したとき、夜遅くにオセロを持ってきてくれた。 刺繍が好きで、夜に刺繍をする父の横で、リリアンを解くのを手伝っていた。 口笛を吹くと、「夜口笛を吹くと蛇が出るぞ。」と言われ、怯える私に「今は大丈夫。この刺繍針でお父さんがやっつけてやるから。」と言って口笛を教えてくれた。 あまり家に帰ってこない父だったけれど、『小学○年生』の雑誌だけは毎月必ず買ってきてくれていた。 それくらいか。
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