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me note diary

2009年11月07日(土) はるまち【二次創作】

「おしの、先生がいらっしゃいましたよ」
 でっぷりと太った女主人がその声に見合った大声で奥に声をかけると、それに負けず劣らずな快活な声が帰ってきた。
「ああい。今いきますよ。おじいちゃん、お茶と冷たいお水、どっちがいいかい?」
「水にしてくれい」
 秋山小兵衛は小柄な身体いっぱいでその大声たちに応戦した。


 長く連れ添った愛妻、おはるに先立たれてから、小兵衛は急速に老いた。もともと四十も歳下の妻であった。
「先生の死水はあたしがとりますから、安心してくだせえよう」
 死ぬ数日前までそんな調子で、持ち前の明るさでもって立ち働いていた、小兵衛にとっては孫娘ほどの歳の離れた妻であったが、夏風邪をひいたらしいと寝付いた後、ふっつりと死んでしまった。小兵衛にとっても、当のおはるにとっても、予想だにしなかった最期であった。秋山小兵衛、九十の晩夏であった。
 その後の小兵衛の落胆は、息子の大治郎、嫁の三冬らの想像を軽く越えたものであった。ものも食べず、ろくに眠らず、おはるの後を追う気ではないかとも思えるような様子であった。それもなんとか、秋を過ぎ、冬を過ぎようとするころから、やっと、以前の小兵衛らしさが戻ってきたようで、三冬の作った飯を食べ、息、大治郎に似て朴訥な青年に育った、孫の小太郎をどぎまぎさせるような冗談を言うくらいになった。
 そんなだから、冬の晴れ間の暖かな陽気に大治郎の操る小船で、浅草まで大川を下り、なじみの小料理屋、元長へと脚を伸ばす気にもなったものだ。


「おはるではないか!」
 前方に見える娘姿に小兵衛が目を見開いて叫んだときには、さすがの大治郎もびっくりした。
「父上、そんなはずは・・・・・・」
 言いさして、大治郎も絶句した。遠く見える後姿は、確かに若い頃のおはるに酷似していた。それが元長ののれんを慣れたようにくぐったのを見て、ふたりはもっと驚くことになった。おはるも小兵衛に従って、よく駒形堂裏のこの店に通ったものだ。
「父上、わたしが見て参ります」
 船を下りるのも脚がもつれそうになる小兵衛に大治郎は言おうとして、それから思い直して、父の手を取り船から下ろすと、共に足を速めた。
「おや、まあ、大先生!若先生も!すっかりご無沙汰してしまいまして・・・・・・」
 戦々恐々となっているふたりを迎えたのは、元長の女将、おもとであった。昔はほっそりとした、いかにも料理屋の座敷女中といった様相だったのが、子供を産んでから、すっかり肥えた。今では女将としての貫禄がついたようだった。
「こちらこそ、ご無沙汰をして申し訳ない。ところで、今し方、若い娘御がこちらに入ったかと思ったが・・・・・・」
 挨拶をした大治郎が店内を見回すと、おもとはあぁと合点したように頷いた。
「おしののことですか?えぇ新しい女中を入れたのですよ。でも若い娘ではありませんよ。もう二十歳を半ばを過ぎているはずです」
 それから奥へ声を張り上げた。
「おしの、おしの。大事なお得意様だよ。二階の準備は整っているだろうね?」
「あい。女将さん」
 のれんをかき分けるように顔を出した女は、確かに先ほどの娘であった。着ている縞柄の袷に見覚えがあったが、正面から見てみると、おもとが言うとおり大年増で、それに、おはるとはまったく似ていない姿形をしていた。小兵衛と大治郎は顔を見合わせた。
 二階にあがると、合点のいかない顔のおもとに、照れたように小兵衛がいきさつを説明した。
「おやまぁそうでしたか。わたしなんかは全く感じておりませんでしたけれど、確かに遠くから見たらご新造様のお若い頃に似るかもしれませんね。ただ、おしのはああいう大女でしょう。ご新造様は小柄なお方でいらっしゃいましたから」
 おもとは言ったが、それからおしのに膳を運ばせ、酌をさせてくれた。おしのは確かに大女だったが、快活ないい娘であった。
 それからというもの、小兵衛はそれこそ昔のように、足繁く元長ののれんをくぐるようになった。


 小兵衛はすっかり健康になった。昔のように一人で竿をとり、大川を下る。元々健脚だったのだから不思議がることでもないが、実にいい手さばきで船頭をこなす。元長にくると、おしのの酌で酒を飲む。近くで見るとおはるとは全くの別人ではあったが、快活なおしのと語らっていると、昔に戻るようで心地いい。
「おまえさん、以前はどこにいたんだね」
「地獄だよ、おじいちゃん」
 小兵衛はおしのに自分をおもとのように先生と呼ばせなかった。もう自分はただの老いぼれだとおもとにも言っていたし、先生などと呼ばれては、なんだかおはると話しているような、妙な気分になってしまうのであった。おもとは無礼に気を揉んだが、当のおしのは特に気にした風もなく、小兵衛をおじいちゃんと呼んでただの隠居の相手をしてくれる。
「地獄か。そいつは剣呑だ」
「春町だなんて言う人はいるけどさ、中の人間にとっちゃあ地獄さ」
 おしのは飾らなかった。遊女あがりで、いい旦那がついて請け出されたが、旦那に死なれ、もう一度苦界に身を沈めようかというときに、世話をする人があって、この元長の女中に入ることができたということを、ざっくばらんに話した。
「あたしは運がいいんだ。あたしと一緒に地獄にいた友達は、どうなったかわかりゃしない。ご改革の波で岡場所もずいぶん潰れたと言うし。申し訳ない気持ちにもなるけれど、仏様に手を合わせることくらいしかできないもんね」
 秋山父子と関わりの深かった田沼老中が失脚した後、権力を握った松平老中は市井の生活をきりきりと締め上げた。おしのの言ったご改革とは、寛政の改革のことである。
「そうさ。あんたは運がいい。そうやってありがたいと思う気持ちがあんたをもう一度地獄に落とさずに済んだのだろうさ」
 はるまち、か。と小兵衛はひとりごちた。
「おじいちゃんの亡くなったご新造様ははるという名前だったんだって?」
 聞き咎めたようにおしのが言った。
「そうさ。おはると言うのだ。もういないが、わしはおはるを待っているようなものだったなと思ったのさ。はるまちということばでそれを思いついたのだよ」
「あたしにとってはいいことばではないけれど、そうだね、おじいちゃんにとってはそういうことばになるんだね。不思議なもんさ」
「おまえさんはなかなか穿ったことを言うのう」
 小兵衛は苦笑した。
「ごめんくださいませ」
 廊下からおもとの声がかかり、ふっと甘い匂いが部屋に入り込んできた。
「おお、今年も咲いたか」
 おもとの手にした花器に盛られた梅の花を見て、小兵衛は目を細めた。
「えぇ。ようよう暖かくなりますでしょうよ」
 春は待たずとも来るものか。部屋の一角に飾られた花を見て、小兵衛の気持ちは穏やかであった。あと何度、これを見られることであろう。ふっと目頭が熱くなって、小兵衛は窓の外を見やった。江戸の町は、これから活気を増していくそわそわした気配に満ち満ちていた。


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管理人:サキ
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