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2013年09月24日(火) 医学の価値+宗教の価値=AAの価値?

英語のAAの文章を読んでいると、時々 coincidence という言葉に出会います。インシデンスは発生という意味です。co というのは「一緒に」という意味ですから、コインシデンスは「同時発生」あるいは「偶然の一致」という訳になります。

この言葉がAAの歴史に対して使われる場合には、12ステップの成立に先んじて起きたさまざまな出来事に対して使われます。もしその出来事が起きなかったら、AAが成立しなかった、もし成立していたとしても今とは全く違った姿をしていただろう、という出来事を指して使われます。

ローランド・ハザードが会いに行ったのがカール・ユングだったこと。これも coincidence のひとつです。

当時のヨーロッパには他にもジークムント・フロイトやアルフレッド・アドラーがという精神医学の権威がいたにもかかわらず、なぜかハザードはユングを選びました。僕は精神医学に詳しいわけではありませんが、フロイト、ユング、アドラーの3人の中で、唯一ユングだけがスピリチュアル(霊的)なことの価値を認めていたと言います。ハザードがユングを選ぶ偶然がなかったら、AAは成立しなかったわけです。

ビル・Wが、1930〜40年代のアメリカの状況について、こう書いています。

> 精神医学のいくつかの学派を代表する探究者たちの問には、この新しい発見の真の意味をめぐって、当然、かなりの意見の相違があった。一方でカール・ユングの弟子たちは宗教的信仰に価値と意味と現実性とを認めていたが、当時の精神医学者の大多数はたいてい、ジークムント・フロイトの説を固守していた。その説とは、宗教は人間の未熟さゆえの苦しみを和らげる空想であり、人が近代学問の光の中で成長したときには、もはやそのような支えは必要としないであろう、というものだった。(『AA成年に達する』 p.4)

ビル・Wは、彼自身がAAの原理を創造したのではなく、医学と宗教から考えを借りて作り上げたに過ぎないと言っています。結果としてAAは医学でもなければ、宗教でもない存在になりましたが、AAの源流が医学と宗教の両方にあることは強調しておきたいところです。

AAは、医学という点ではカール・ユング、ウィリアム・シルクワース、ハリー・ティーボウらの、宗教という点ではリチャード・ブックマン、エドワード・ダウリング、サミュエル・シュメイカーらの影響を受けています。

AAの価値を理解するためには、医学の価値と宗教の価値の両方が分かっていなければなりません。多くの人は医学の価値を認めています。なぜなら、幼い頃から医者にかかったことがない人はまずいませんから、誰もが医学の世話になって、何らかのかたちで自分が救われたという経験を経ているからです。医学の価値は経験的真実として皆の身に沁みています。

ところが、宗教によって何らかのかたちで自分が救われた経験を持つ人は、(少なくとも現代の日本においては)かなり少ないのです。なぜなら困ったときに宗教の世話になろうという人が少ないからです。

戦前の日本について当時の外国人が書いた文章を読むと、日本人はたいそう信心深い民族として描かれています。現在でも街のそちこちに神社仏閣という宗教施設がたくさんあり、人々は誕生・結婚・出産・死亡という節目に、さらに年始にまで宗教施設を訪れて熱心に祈りを捧げています。そのように極めて信心深い民族であるにもかかわらず、今の日本人は宗教を頼ろうという意識は薄く、むしろそれは危険であるとすら感じる人が目立ちます。

戦前は内面でも行動面でも信心深かった日本人が、戦後になると行動面では信心深いものの、内面では宗教を忌避するようになったのはなぜか。それは敗戦後の日本を占領したGHQの方針によるそうです。

GHQは占領政策として、対米戦争を支えたさまざまな仕組みを解体したり、統制の対象としました。その中には宗教も含まれていました。なぜならば宗教も戦争遂行に協力したからです。その点は、神道だけでなくキリスト教その他も同じでしたが、やはり目立ったのは国教とされていた国歌神道でした。神道指令によって政教分離が図られ、同時に国民に信教の自由も与えられましたが、日本人にとって敗戦は新しい宗教への移行の機会ではなく、むしろ宗教を信じることの失敗体験として世代の記憶に刻まれることになりました。

そんなわけで、戦後生まれの僕らは、宗教によって自分が救われたという経験を持ちません。医者を頼って何らかの困難から救われた人は(例えその困難がインフルエンザ程度のものだったとしても)、医学の価値を認めます。その人にとってその救済は経験的真実であって、他者が何と言おうと否定できないものだからです。

宗教を信じている人は、信じることによって困難から救済された経験を持っています。その人にとってその救済は真実ですから、当然宗教の価値を認めます。しかし、はなから宗教を試してみようとしない現在の平均的日本人は、困難から救われた経験を持たないわけですから、その価値を認めることがなかなか難しいのです。

(つまり、人間は自分が経験していないことの価値を認めることは難しく、それをするためには意識的な努力が必要なのでしょう)。

AAは医学でも宗教でもありません。しかし、その両方から考えを借りています。だから、AAの価値を理解するためには、医学の価値も、宗教の価値も分かっていないとなりませんが、後者の条件はちょっと難しいのかもしれません。

ビッグブックの第4章にこうあります。

「自分を超えた偉大な力への信仰と、その力によって人生に現れる奇跡は、人類が始まってからずっとあったのだ」(AA, p.80)

医学や精神医学や心理学は、多くの人を困難から救ってきました。しかし、近代にそうしたものが登場する以前から、信仰は多くの人を困難から救ってきました。そして、現在でも信仰は多くの人を救い続けています。医学や心理学だけが人を救いうるわけではない、当たり前の話ですが。

AAは常任理事会という執行機関を持っている、という話を前の雑記で書きました。常任理事会にはA類(Class A)と呼ばれる「アルコホーリクでない人たち」が混じります。多くの場合、アルコール医療に関わる専門職の人にお願いしています。それだけでなく、海外では宗教家にA類をお願いしている例が多いのです。このことはAAが医学と宗教の両方に立脚している事実からすれば自然なことです。

しかし、日本のAAでは(僕の知る限り)過去から現在まで宗教家にA類常任理事を依頼したことはありません。これも日本の社会が日本のAAに与えている影響のひとつでしょう。AAも社会の中に存在する以上、社会の影響を受けるのは当然ですが、あまり医学の側に偏りすぎるのも心配です。

AAは宗教ではありませんが、人間(やその集まり)を越えた偉大な力を信じることが含まれています。12ステップの再興運動が何年も続いた結果、最近では「私は12ステップをやった」と言う人もずいぶん増えてきました。しかし中には本当に12ステップに取り組んだかどうか怪しい人もいますね。もしその人が、12ステップを通じて「神によって自分の人生が救われた」という経験を持つなら、12ステップがその人に効果を現したと言えるでしょう。

宗教や信仰によって救われた経験を持たない人が、宗教・信仰の価値を認めるためには、知性の働きが必要です。けれど、わざわざ難しく考えなくても、実際に経験してみればよいのです。普通の人は、経験をするために宗教に入ってみようとは思わないでしょうし、そんな深刻な困難も抱えていないことでしょう。だが、アルコホーリクであれば、アルコホリズムという深刻な困難を抱えているわけですから、12ステップに取り組んで経験してみる、というのもひとつの手だと思います。

信州の山村には「医者どろぼう」という言葉があったと聞きます。医療が現在ほど進歩も普及もしていない頃、山村で病人が出ると里まで医者を呼びに行かねばなりませんでした。そうやって大金をかけて医者を呼んでも結局は助からない病人が多かったので、医者を金だけ取る「どろぼう」と呼んだのでした。医者によって困難から救われなかった村人達は、医学の価値を認めることはありませんでした。やがて誰でも良質の医療によって救われうる時代が訪れましたが、村の老人達は命に関わることであっても医者にかかることを拒否し、説得に耳を貸さなかったそうです。価値を認めないとはそういうことです。

霊的なことについて、あるいは信仰について、その価値を認めない人はたくさんいます。医療を拒む山の老人達とかぶります。宗教の立場からその価値を発信する人はたくさんいますが、非宗教の立場から価値を発信する人がいてもいいかな、と思うのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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