心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2013年03月27日(水) AA中の特別な二人

AAは、ビル・Wとボブ・Sという二人が始めたため、この二人は共同創始者(co-founder)と呼ばれています。この二人は「AAメンバーではなかった」とまで言われるほど、AAの中で特別な存在です。

AAは平等性や民主制を大事にする団体ですし、個人にスポットライトが当たることを嫌う団体でもあります。そのAAが、この二人だけは特別扱いしています。あちらの経験談を読んでいると、ビルとボブの写真がミーティング会場の壁に貼ってある・・なんて書いてあったりします(おおっと個人崇拝!)。それが咎められるわけでもないようです。

なぜこの二人が特別扱いされるようになったのか。

ビッグブックの「初版に寄せて」にはこうあります。

「私たちのほとんどはビジネスマンや専門分野の職についていて、そういうことになったら本職のほうがおろそかになりかねない。私たちのアルコホリズムとの取り組みは、あくまで副業の範囲であることをご理解いただきたい」(p.xvii)

第2章にもこんな文章があります。

「私たちはみな、これから示すような取り組みを実行するために、自由な時間の大半を費やすが、この活動だけに専念して時間を使うことができる幸運な者は何人もいない」(p.29)

ビッグブックが書かれた時点では、アルコホーリクと関わることを職業にしていたメンバーはほとんどいなかった、ということです。数少ない例外がビルでした。

第1章の「ビルの物語」にはこうあります。

「妻とぼくは、ほかのアルコホーリクたちが解決を見つけ出せるよう手助けしようという考えに熱中して、それに没頭した。昔の同僚のぼくに対する信用が全くなかった時だったから、一年半ほど仕事らしい仕事がなかったことは幸いだった」(p.23)

ビルの伝記映画を見ると、妻のロイスが働いて家計を支え、ビルはアルコホーリクを助けることに熱中している様子が描かれています。そうして、ビルはビッグブックを書き、AAのオフィスを構え、アルコホーリク財団(後の常任理事会)を組織していきます。ビルは(他のAAメンバーのように)ビジネスの世界に戻ることを願っており、実際チャレンジもしましたが、果たせずに「アルコホーリクと関わる」ことが彼の生涯の仕事となりました。

もう一人の共同創始者ボブ・Sも「アルコホーリクと関わる」ことを職業としました。「ドクター・ボブの悪夢」の冒頭にこうあります。

「彼は、他界する一九五〇年までAAのメッセージを五千人以上のアルコホーリクの男女に伝え、彼らへの医療費の請求のことは考えずに治療を施した」(p.241)

痔の手術が得意な外科医だった彼は、回復後はアルコホリズムの分野に身を投じ、患者に12ステップという治療を施しました。

始まったばかりの頃のAAは、あらゆる階層の人々を惹きつけたわけではなく、その対象は限られていました。白人で、教育程度が高く、元々は経済的にもそれなりに豊かだったのに、酒のせいで経済的にも社会的にも落ちぶれてしまった人たちでした。メンバーの多くが回復後は職業に復帰し、社会的地位を取り戻していった中で、ビルとボブの二人は、当時は偏見が強く病気だとすら思われていなかったアルコホーリクに関わることに職業生活を捧げていました。他のメンバーたちが、彼ら二人を特別扱いしたのは当然だったのではないでしょうか。

彼ら二人は、12のステップ・12の伝統というスピリチュアルな分野においても、またAAという団体の運営という現実的な側面においても、常にAA内の「権威」であり続けました。しかし二人とも人間である以上、寿命があります。二人の没後、誰がその権威を引き継げるのか? 彼らの代わりになれるAAメンバーがいるわけがありません。そこでビルが考えたのが、AAメンバーの中から選挙で選出される評議会制度です。

最初の評議会は1950年。これはドクター・ボブの死とほぼ入れ替わりでした。5年間の試行期間の後に、1955年に正式に評議会制度がスタートし、ビルは自身が持っていたすべての権威を評議会に引き継ぎました。それは間接的には、評議会の選出母体となる一つ一つのAAグループに権威が引き渡されたということであり、「グループ主権」とも言うべきAAの民主制度の完成でもありました。

その後はビルは「AAの顔」として登場することは事実上なくなり、1970年に没しています。

ビッグブックの文章もビルによって執筆されました。もちろん当時の他のメンバーの意見も大きく反映されていますが、大部分はビルによって書かれました。その後に出版された『12のステップと12の伝統』(12&12)もビルが書いたものですし、『AA成年に達する』もほとんどがビルによって書かれたものです。

つまり、AAのプログラムを解説した本はすべてビルが書いたもの、というわけです。

AAではビルの死後も新しい本が出されていますが、プログラムの解説本ではありません。"Pass It On"(未訳)はビルの伝記、『ドクター・ボブと素敵な仲間たち』はボブの伝記。『今日を新たに』と『信じるようになった』はAAメンバーの経験の分かち合いの形式を取っています。『どうやって飲まないでいるか』は、12ステップについてはあまり触れられておらず、飲まないでいるためのtips集になっています。

(『どうやって飲まないでいるか』は、12ステップに興味はないが、酒をやめるためにAAの中で集積された生活上の知恵には関心があるという人にオススメです。最近Amazonで購入ができるようになりました)。

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後にも先にもビル・Wだけが、12ステップのテキストを書くことをAAメンバーに許してもらえた存在だった、ということでしょう。何十年も経過すれば、文章は古びてきます。しかし、AAのテキストは用語を現代風に改められることもなく、ほぼビルが書いたまま保たれています。

AAの英語の月刊誌 Grapevine でも、二人の共同創始者の書いた記事を翻訳しようとすると、翻訳結果の綿密なチェックが必要になり、他の一般のAAメンバーが書いた記事とは明らかに扱いが異なっています。

結局のところ、ビル・Wの死後は、AAプログラムを説明する本を書ける人は誰もいなくなったわけです。様々なAAメンバーがスタディ・ガイドを書いていますが、それらは「一人のAAメンバーの意見」として扱われるに過ぎず、「AA共同体を代表する意見」として権威を帯びて扱われることはありません。(ジョー・マキューもワリー・Pも自らに権威を帯びさせず、解釈の正統性をビッグブックに依拠しています)。

唯一評議会には、新しいAAの本を作る権限が与えられており、実際何冊か作られていますが、前述の通りいままでの経過を見る限り、真っ正面からAAプログラムを説明する新刊は作られていません。それどころか、ビルの文章をそのまま変えずに残すという決定をしています。アメリカの評議会ですらこんな具合ですから、日本の評議会が新しいステップの本を作ることは、難しいのではないかと思います。

ビルが、自らに与えられた権限、権威を喜んでいたとはとても思えません。彼は大変優れた人物だったでしょうが、人間としての限界もあり、まして彼はアルコホーリクだったのですから。何十万人にもふくれあがったAAをスピリチュアルに、また現実的に率いていく大きなプレッシャーを感じていたに違いありません。実際彼は重度のうつに陥っています。1955年にスタートした評議会に彼がすべての権限を渡した後には、そのうつはきれいに消え去ったと記録されています。

彼らは他の人が引き受けたがらない役割を引き受けました。それは共同創始者以外に引き受け手のいない役割でした。おそらく、ビル・Wやドクター・ボブのような特別な存在が、今後AAの中に登場することはないでしょう。であれば、この先もビルの文章をそのまま使っていくことになります。それはビッグブックが完ぺきな本だという意味ではなく、それを変えたり何かを加えることのできる人がいないからです。

確かにビッグブックには少々使いづらい点もありますが、今まで何十年にもわたって数多くの人の回復を手助けしてきた実績があります。その実績こそが大事です。アメリカのAAにはこんなスローガンもあるそうです。

If it ain't broke, don't fix it.

ビル・Wが特別な存在になるべくして生まれてきた人なのかどうか。おそらく彼はただのアル中だったのだと思います。ウィリアム・D・シルクワースによる疾病概念、カール・G・ユングによる霊的解決の示唆、そしてリチャード・ブックマンの行動原理。この三つの要素がビルの手元に揃ったのは、たまさかの偶然か、あるいは神の意志だったのか。その奇跡的なできごとが彼を特別な存在たらしめました。その後の数多くの回復は、この奇跡をコピーすることによって生まれました。それらの回復は個人個人にとっては人生に起きた奇跡だったかもしれませんが、全体からみればすでに平凡です。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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