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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年09月12日(水) 研修と学会雑感 (AAメンバーとしてではありませんが)日本エイズ学会のシンポジウムで「12ステップの話」をしてくれという依頼が舞い込みました。その日は予定がすでに入っていたのでお断りしたのですが、なぜエイズ学会で12ステップなんだろう、という疑問が残りました。
後で依頼書を拝見して事情が分かりました。エイズとアディクションは関連が深く(特に薬物とセックス)、アディクションはエイズ治療の妨げになることもしばしばなのでしょう。そこで、エイズのケアに従事する人たちに、アディクションの基礎知識や、アディクトの心理、回復について話して欲しいという依頼だったようです。特に12ステップということではなかったみたい。
こんなふうに、人づての依頼は中身が不明瞭な場合も多く、当日会場に行ってみてビックリ、ということもあります。担当の方と事前に話をしておかなければ、とんでもない失礼になっちゃうかもしれません。今回は、僕より適任の方が見つかったようなので安心しています(と持ち上げておく)。
先日も、ある専門家の方から「AAから講演をしてくれるように頼まれたのだが、何の話をしたらいいのか分からない。尋ねても、何でも構わないと言われるばかりで」と話をうかがったので、依頼したAAの委員会の名前を聞いた上で、その委員会はこういう経緯でできたところなので、こんな話を望んでいるのじゃないか、とお伝えしておきました。
頼む方も、頼まれる方も、いろいろ難しいものです。僕も頼む側に回ることもあるので、最近は依頼するときには講演依頼書を書くようにしています。
さて、先月は有給休暇を一日もらって、県の精神保健福祉センター主催の、アルコール依存の技術研修に参加してきました。研修の対象は病院のワーカーや保健所の保健師さんなので、本当は当事者という資格では参加不可なのですが、そこはそれです。
午前中は専門医の先生による基礎知識の講演。午後は、複数の病院から事例の紹介があって、最後に数人のグループに分かれて事例の介入手法の検討でした。これは、介入のワークブックに掲載されている模擬的な事例そのままで、内科的な治療は受けているけれど、依存症の疑いが濃厚、でも精神科の受診を拒んでいる人をどうやって治療に結びつけるか、という話です。
「介入」という技法の基礎を作ったのは、ヴァーノン・E・ジョンソンです。彼はヘイゼルデンなどと一緒にミネソタ・モデルという治療モデルを作り上げました。介入の技法については、こちら
【明日こそ止めるさ】アルコール依存症回復への実践ガイド
http://www.ryukyu-gaia.jp/books.htm
の本に詳しくあります。本を読めば模範解答は出せるようになるはず。
援助職の人が、会いたがっていない本人に直接アクセスするのは難しく、家族の中のキーパースンに情報を提供・指導して説得に当たってもらう、というスタンスです。
家族の立場の人から「本人が酒をやめたがらないのが困る」という相談を受けるAAメンバーもいるでしょう。介入研修は日本中あちこちで行われていますし、本も上記以外にも出ているので、関心のある人はあたってみて下さい。(僕の受けた研修は県の機関のものなので無料でした)。
僕らAAメンバーは、依存症ケアの中で、再発(再飲酒)の予防という「最終段階」を担っていると言えると思います。自助グループの中にだけいると、この「最終段階」だけしか見えなくなってしまいますが、実はそこに至るにはいくつかの段階を経ます。
上に書いたように、まず精神科の門をくぐるまでが一苦労だし、依存症という病名がついても「俺の酒には問題がないのでやめる必要はない」と頑張る人もいます。入院治療を受けて退院しても、自力でやめ続けられると信じて再発を繰り返す人もいます。最初に誰かがアルコール依存症を疑ってから、最終的に回復に至るまでどんなに短くても数年、長ければ何十年かかってもたどり着かないこともあります。
そのステージごとに援助者の苦労があると言えます。精神科という名前のせいで敷居が高くなっちゃうから、アルコール科とか依存科だったら心理的抵抗が少ないのじゃないか・・とか。あるいは、医者が酒をやめろとか入院するように強く説得すると、次から受診しなくなって治療関係がなくなってしまうので、通院でやりたいと言う人にはそれを認めて、次に失敗したときに入院を勧める・・とか。
本人が問題を認めた上で、自力での解決にこだわる場合には、それを認めるという話は、ジョンソンの介入技法にも書かれていて、無理に治療的な枠組み(施設とか自助グループとか)を強いるのは愚策だとされています。そのかわり「次に失敗したら、このやり方に従ってもらう」という約束をきっちりして、どうせ自力解決はいずれ破綻するので、その時点で約束を実行してもらえば良いことです。
先週末は札幌での学会にお邪魔していたのですが、ポスターセッションでの発表の中に、アルコール依存症の入院患者の家族が持つ「(断酒ではなく)節酒させたい」という希望をどうするかという話がありました。家族が本人の節酒を希望するのは珍しいことではなく、「こんなにお酒が好きなのだから、やめさせたら可哀想だし、やめられるわけがない」という依存症への偏見があったり、やめているときの本人の不機嫌さに家族が耐えられなかったり、という事情があります。
この場合でも、無理に断酒へ意見を変えさせずに、退院後の節酒を認めさせると、やがては家族もアルコールをコントロールすることの難しさを目の当たりにして、やっぱり断酒しかないと理解するようになるとう話です。(納得するのに時間がかかる人がいるという話)。
動機付け面接では、人間の気持ちが変わるのに時間がかかるのは当たり前だとされます。スイッチが切り替わるみたいにすぐに気持ちが変わってくれれば良いのですが、そうならないことに対して「否認」という言葉を使って本人や家族の責任に差し戻してしまうのは、援助側の責任放棄です。(本人の気持ち次第というのなら、援助職なんて不要)。
話を戻して、一人のアルコホーリックが酒をやめるまでには、実に手間ヒマがかかるわけですが、AAの中にいるとそうした援助職・医療職の手間というのは見えなくなってしまいます。一方、援助・医療側も、酒をやめた後の人がどうなるかに関心をあまり持っていません。援助側と自助グループの間が断絶している感じです。
みんな、自分のやるべき事に一生懸命なのはいいのですが、本当に息の長い(一生続く)依存症のケアのなかで、自分がどの部分を担っているか(一部分を担っているに過ぎないことも)把握できてなくて、自分のやっていることが全てのような錯覚に陥っている気がします。少しだけ全体を鳥瞰する機会を与えられて、そう思いました。
アディクション関連の学会の大会とか研修とかに行くと、連携、連携と叫ばれてうるさいぐらいなのですが、そういう意味じゃ、ちっとも連携なんて取れちゃいないわけです。(だからこそ連携とうるさいのでしょうが)。全体を見通せる視野の広さを持ちたいものです。
それと、医療の人たちというのは、アル中本人に「AAに行きたくない、断酒会に行きたくない」と言われると、そこでメゲてしまって、それ以上なかなかできないものなんだな、とつくづく感じます。そこで出てくるのが「本人の気持ち次第」とか「行かなくても酒をやめられているか良いじゃないか」という言い訳です。それで酒を飲まれると、飲んだ本人が悪いみたいな扱いです。責任の感じ方が間違っているっちゅーの。依存症という病気にかかったのが不幸ならば、そんな病院を選んでしまうのはもっと不幸です。
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