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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年01月31日(火) 混ぜるな危険的AC論 いろいろとウンザリしているので、愚痴みたいな事を書きます。
共依存概念に関する混乱については、ちょっと前に長々書きました。そうなると、AC概念(アダルト・チャイルド、アダルト・チルドレン)についても書くことになります。
共依存について(その1) で、こう書きました。
> 1970年代に、コ・アルコホリズムやパラ・アルコホリズムという概念が成立しました。これはアルコール依存症(アルコホリズム)にかかった人と一緒に暮らしているせいで、家族も依存症本人と同様の考え方や行動が身に付いてしまう、つまり疑似的な依存症になってしまう、という考え方です。アダルト・チルドレンという概念もここで同時に成立しました。
アディクションはその人を無能力化・無責任化してしまいます。だから、本人にかわって家族がその責任を引き受けることになります。奥さんがアル中ダンナに手を取られてしまうと、どうしても子供たちの養育がないがしろになります。子供たちは本来必要な世話を受けられずに成長します。手不足な家庭の中で、まだ幼いのに、自分のことは自分でやり、時には母親の助手として、あるいは母親の相談役として、大人としての責任を担わされます。
その一方で、父親の暴言・暴力が激しかったとしても、母親はなかなか守ってくれません。昨今ではDVは警察を呼ぶなど外部化することが勧められていますが、なかなかそうはなりません。
そんなわけで、自分の必要を満たしてもらえない(世話してもらえない)、むしろ自分で自分の必要をないがしろにし、優先して他者の必要を満たし、責任を過剰に背負う思考パターン・行動パターンを身につけて大人になります。
しかし人間は無限のエネルギーを持っているわけではないので、そんな自己犠牲はどこかで限界に達します。その時に、様々なトラブルが起きてきます。アル中の子供が成人するとアル中に成りやすい(世代伝搬しやすい)ことは昔から知られていましたが、成人してアル中にならなくてもどこかヘンであるということが知られるようになり、「アルコール依存症者の成人した子供たち」(Adult Children of Alcoholics)という概念が誕生しました。
だから、元来の意味での共依存(アディクションの人の家族)という意味では、AC=共依存ということになります。ACの人は、親にないがしろにされたことに恨みがあるわけですが、その恨みが表面化しているよりも、むしろ内面に抑圧されていることのほうが多いわけです。
ここで気をつけなければならないのは、親子関係が悪いことがすなわちACではないということです。親子関係の悪さには様々な原因があり、共依存的な関係が成り立っているとは限りません。親子関係の悪い子供がみな、自分の必要をないがしろにして他者の必要を満たすような行動パターンを身につけるわけでもありません。
だから、親子関係が悪いとか、親を憎んでいるからACだ、というのはあまりにも単純化しすぎです。成人しても親に経済的にべったり依存しっぱなしとか、親の家にひきこもりってのは、どうみてもAC概念にそぐいません。(むしろ親が子供の面倒を過剰に見てないか?)。「俺がこうなったのは親のせいだ」という憎しみを持っていたとしても、それがACを意味するわけではありません。
ところが、親子関係の悪い人をみかけると、すぐにそれをAC扱いしてしまう人がいて困るのです。アディクションの問題でメシを食っている人ですらこれをやります。このようなACに関する誤解は広く広まっている気がします。
それをやられて一番困ってしまうのは、ACの人がアディクションを持ってしまった場合です。先ほどACとはアル中になれなかった人たちだと説明しました。アル中になってしまえば、ACは関係ありません。本人性のほうがAC性より優先するからです。
AAの12のステップには「ACの場合には」という注意書きはありません。それはAA誕生がAC概念成立よりずっと前なので当然なのですが。ACであろうとなかろうと、アル中として12ステップをやるには何ら変わりがなく、一括して扱って不都合がなかったのです。(むしろ12のステップがちきんと伝わっていなかったのが不都合の原因でした)。
だから、AAの12のステップでは、親に対する憎しみを特別扱いすることはありません。親への恨みも、その他の人への恨みと同様に扱うし、当然親に対する埋め合わせも回避しません。そんなことをすれば、12ステップによる回復がおぼつかなくなるからです。「恨み」には他者に責任を転嫁するために使われる側面があります。それをやっている間は回復できません。
あなたはACだから、という理由で、親に対する恨みを免責してしまったり、親への埋め合わせを回避させてしまうと、その人の回復の手助けするのではなく、足を引っ張ることにしかなりません。
ジョー・マキューの『回復の「ステップ」』(通称赤本)は、1990年の出版ですが、これは12のステップをアルコールや薬物の依存ばかりではなく、ACや家族の問題にまで拡張した意欲作であり、ある意味ジョーのステップのプレゼンテーションの究極です(だからこそ日本でも多くの愛用者がある)。しかし、そこでも親との関係を例外扱いすることはありません。
とは言うものの、まったくAC性を無視して良いか、となるとそうではありません。AAの12のステップは、他者をなじることをやめ、責任を自ら引き受け、他者への奉仕を通じて自尊感情を育てていく構造になっています。これは社会適応性を向上させるので大変良いのですが、「自分の必要をないがしろにして、優先して他者の必要を満たそうとする」というACの思考パターン・行動パターンを助長する側面を持っています。
だから、AC性を持った人が12のステップをやると、アディクションが止まるのは良いのですが、数年すると苦しくなってくるということが起きます。だからこの時点でACとしてのケアをすればいいわけです。ACのグループに通い、ACとしての12ステップをやればよい。それはアディクションにならなかったACの人たちに遅れて合流するということです。
まず、アディクション本人としての回復のステージがあり、次にACとしての(あるいは家族としての)回復のステージがある。このような構造化が必要なのですが、いままでそれがなく、本人性もAC性もごっちゃごちゃにされています。
よくある誤解は、ACが原因となってアディクションに発展したのだから、まずACの問題について扱うというやつです。なにが原因で依存症になったにせよ、依存症の問題を第一のものとして扱うのが基本です。なぜなら、酒や覚醒剤をやっていたのでは、ACとしてのケアもあったものではありません(それはギャンブルなどのプロセス系でも同じ)。きちんとアディクションを止め、安定させることを優先し、その上でAC性に取り組まなければなりません。
日本のACグループがいまいち発展してくれないのは、まだまだ本人性が強く、酒や薬その他のアディクションから未回復の人たちが、ACグループに送り込まれて混乱を招いているからだと思います。それを送り込んでいるのは、実はアディクションの支援者たちだったりします。
ACであろうとなかろうと、親による虐待を経験し、トラウマによるフラッシュバックがステップに取り組む妨げになるという場合には、12ステップよりもトラウマ治療を優先すべきです。最近は暴露療法ばかりでなく、EMDRという良い治療法も日本に導入されており、実施するお医者さんも増えていると聞きます。EMDRですっかり良くなってしまったというのなら、そもそも12ステップは必要なかったという話にもなります。
ACであろうとなかろうと、親に対する恨みは強固な場合があります。そのあまりの頑固さに辟易してしまい、「ACだから」という理由付けをしてその問題を回避して通ろうとするのは、ステップを援助する側が陥りやすい落とし穴です。だからこそ、その誘惑に負けてはいけません。ガンの手術をする時に「面倒くさいから(例えば肝臓の裏側にあるから)」という理由で病巣を取り残す外科医はいません。そんなことをすれば再発間違いないからです。しかし、アディクションではしばしばそういうことが行われます。
スポンシー(施設ならクライアント)は、「回復したい」という気持ちと「回復したくない」という気持ちが両方ともあるアンビバレントな状態です。その天秤を「回復したい」という側に傾けるのが良い支援者です。「回復したくない」、つまり回避したいという気持ちを助長してしまってはダメなのです。
僕がジョー・マキューに惚れ込んだのは、彼が自分の施設用に作った12ステップのプログラム「リカバリー・ダイナミクス(RD)」が、視覚化と構造化によってすっきり分かりやすく整理されていたからです。しかし、どんなに素晴らしい道具であっても、それを使う支援者側の頭が構造化されていなければどうにもなりません。
いや、構造化によって援助職を援助するということが、RDに限らずアディクションの領域全般に必要なのでしょう。
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