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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年05月31日(火) 家族の抑圧 前回の雑記で、アル中本人が(病気のせいで)自分で望んでいないことをやり続けざるを得ないために、自分の真の感情を抑圧する防衛システムを作り上げるという話をしました。
「望んでいないことをやり続けざるを得ないので、真の感情を抑圧する」という点では家族も同じです。
例えばアル中の奥さんの立場を考えてみます。
「アルコホーリクは、他人の人生を巻き添えにして巻き上がる竜巻のようなもの」(AA p.119)なので、アル中と暮らしていれば、やがて奥さんの人生も子供の人生も台無しになっていきます。遅かれ早かれ、彼女(奥さん)は人生が台無しになることを予感します。
経済的な問題を考えてみます。彼女は専業主婦かも知れませんし、働いているかも知れませんが、いずれにせよダンナの稼ぎに多くを依っています。ダンナが酒でトラブルを起こして収入が減ったり無くなったりすれば、彼女や子供の生活と将来が脅かされます。それを防ごうと、トラブルの尻ぬぐいをし、トラブル予防の世話焼きをして、ダンナが社会的立場を失うのを防ごうとします。
イネイブリング理論では、この尻ぬぐいや世話焼きが良くないのだと言います。そうした妻の行動によってトラブルが覆い隠されてしまい、本人が自分の起こしているトラブルすなわち病気に直面する機会を失わせ、酒を飲み続けることを可能にするとされています。手助けを避ければ、トラブルが表面化して回復のきっかけになるというコンセプトです。これにより、仕事や家族を失って社会の底辺に落ちることが底つきだという誤解も生まれました。その理屈で言えば、まだ仕事や家族があるうちは底つきができなくなってしまいます(もちろんそうではない)。
彼女は離婚を考えるかも知れませんが、離婚は経済的支えを失うことも意味するのであり、まして子供があればその父親との関係がゼロになるわけでもありません。もっと状況が悪化すれば離婚が現実的な選択肢になるかもしれませんが、多くの奥さんは「いつの日かダンナが無気力から立ち上がって、意志の力を使い始めることを期待」するほうを選ばざるを得ません。ダンナの手助け以上に、自分の生活や子供の将来を守る「必要性」があることを忘れてはいけません。
そうやってダンナに期待し信じたところで、現実にはトラブルが頻繁に起こり、家族は打ちのめされます。だから、信じられない、信じたくないという気持ちになったとしても、でもなお期待し信じなければ今日の生活が守れない立場に置かれます。そのように家族も「望んでいないことをやり続けざるを得ない」という立場に置かれて、抑圧を発達させます。
アラノンやギャマノンの目的が、この抑圧だと誤解している人もいます。ダンナが飲み続けて家に帰ってこず、どこにいるのか分からないにもかかわらず、「ダンナのことはちっとも気にならない。私は私の人生を生きているから幸せよ」という人がいたとします。しかし現実にはダンナの飲酒(あるいはパチンコでの借金)によって彼女の生活や、子供の将来が脅かされている・・・生活の根幹が崩れつつあるのに幸せだと感じているのなら、それは精神が病んでいるとしか言いようがありません。
本人が病気のどのステージにあろうとも、家族は感じている気持ちを抑圧し続けます。その結果、他者への恨み、後悔、自己憐憫に支配されるようになる点は本人と同じです。家族の中で酒を飲んでいる(ギャンブルをやっている)のは一人だけかもしれませんが、家族全員が同じ病み方をします。アルコール依存症と診断されるのは一人だけかも知れませんが、他の人の病も同じです。これが、疑似アルコホリズム(para-alcoholism/co-alcoholism)と呼ばれたものです。これがアルコール以外の依存症にも拡大され co-dependence/co-dependency という名前を獲得し、それが共依存という日本語に訳されるようになりました。
だから、例えばアルコール依存と共依存を違うものと考えたり、違った回復戦略が必要だと考えるのは間違いです。AAとアラノンはまったく同じ12ステップを使って同じ回復を成し遂げることを目的としています。
子供の世代についてここで深入りするつもりはありませんが、基本的には同じです。例えば子供は「お父さんが酒をやめないのは、自分のせい(自分が悪い子だから)ではない」と頭で理解することはできても、なお自分を責める感情はなくなりません。妻なら離婚できても、子供の立場で親の問題から逃げるのは現実的には無理なことなのです。ここでも同じ構図が成り立っていることに気づかれるはずです。(ダンナが酒をやめる前に離婚してしまった奥さんもおなじ感情を抱えている話はよく聞きます)。
共依存概念とは、「家族にアルコホーリクが一人いれば、家族全体が本人と同じように病む」という考えから生まれてきたものです。本人と家族を対立するものと考えたり、違いを探すことではなく、同じところを探すことでしか共依存概念を理解できないでしょう。アラノンの12ステップのステップ1は「アルコールに対して無力」だと言っています。問題が同じであれば解決も同じ、それを手に入れるためのステップ3から先の行動も同じです。
ただし、アル中がどうやって酒を切るかという話は12ステップには含まれていません。まず入院して酒を切ってこいとビッグブックにあります。そこは12ステップの担当範囲外なのです。同様に家族がどうやって本人を治療に結びつけるかという話も12ステップの範囲外で、別にインタベーション(介入)の手法が必要になってくるわけです。介入は専門家の手ほどきを受けながら家族が行うもので、日本でもその情報が提供されるようになってきています。
共依存概念は誕生以降、どんどんその守備範囲を広げているようです。それだけに何が問題なのか見えなくなってきています。僕は共依存という言葉をなるべく使わないようにしています。本人がアルコール依存症になり、家族が共依存になるという表現をすると、まるでそれぞれ違った問題を抱え、違った解決があるかのような誤解を与えるからです。その言葉はCoDAの人たちが取り組んでいるような「相手の回復成長を妨げる支配関係」に限って使うべきだと考えています。アル中の家族にもそのような共依存症の人はいるでしょうが、すべての家族がそうではありません。
前述のように共依存概念の成立は1970年代・80年代です。アラノンはそれよりずっと前から存在しているわけで、そのところを頭に置いて欲しいと思います。
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