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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年11月10日(水) 帰結主義? MATRIXについての話を聞いているとき、考えたことです。
MATRIXというのは依存症の新しい治療枠組みで、MI(動機付け面接)とCBT(認知行動療法)を組み合わせたものです。そのなかで、家族の対応についての話でした。
飲んでいるアル中は孤独で淋しいものです。そこで本人がトラブルを起こしたとします。たとえば家の中で酔って暴れるとか、外で酒を万引きしてくるとか。すると家族は本人に関わらざるを得ません。片づけしたり、説教したり、怪我の手当てをしたり・・・。家族は本当だったら自分たちの生活、自分たちのやりたいことがあるのですが、それを一時中断して本人に関わらざるを得ません。ここで本人は、飲んでトラブルを起こせば家族にかまってもらえて淋しくない、ということを学習してしまいます。
そこで何らかの介入があって、本人が酒をやめたとします。すると家族は「やれやれ」という感じで、それぞれの生活に戻っていきます。飲まなくなった本人は、ぽつんと一人取り残されて、淋しくなってしまいます。再飲酒してトラブルを起こせば、また関わってもらえる・・・。
こんなふうに、家族の対応の仕方が、本人に再飲酒のメリットを与えてしまうのであれば、この構図を逆転させなければなりません。飲んでない時にはごほうびをあげ、やさしくしてあげます。飲んでいるときには冷たくします。ごほうびといっても、酒をやめるたびにディズニーランドのホテルに泊まっていたのでは金がいくらあっても足りません。簡単で反復できるレベル、せいぜい「一緒にテレビを見てあげる」とか「好きな料理を作ってあげる」程度のことです。冷たくするとしても、露骨な罰ではなく、例えば「駅まで車で送ってあげない」程度のこと。
その話を聞いてふと思ったのは、これって「なんとか本人に酒を飲ませないように、家族が努力する」という構図とどう違うのか、ということです。これを実行して、その結果に家族が一喜一憂するのなら、それは共依存として今まで否定されてきたことではなかったのか・・・。
この疑問に対する回答は「それは結果による」のだそうで、飲酒問題の解決の役に立つのならそれで良いとするわけです。(共依存は飲酒問題の解決の役に立たないことを示す)。
そうか、なるほど帰結主義か。
(最近サンデル教授のファンになっているのでそんな言葉を使っちゃいます)
例えば、子供も大人と同じ人権があって、平等に扱わなければならないわけですが、かといって子供の意見を尊重して好きに行動させるわけにはいきません。
虐待とは何かを考えてみます。例えば教育は、子供を一日部屋に閉じ込めて、やりたくもない勉強を無理やりさせるわけです。これは虐待ではないのか。しつけはどうなのか。しかし帰結主義的に考えれば、教育はその後のその子の人生の役に立ちます。身辺自立といって、身の回りのことが自分でできるようになること。また最低限の礼儀をわきまえることなど。しつけによって身に着けるしかありません。
子供の自由を奪い、やりたくないことを無理にさせたとしても、その教育やしつけによってその後の人生をつつがなく生きていけるのであれば、それは子が幸福に生きる権利を尊重したことになるわけです。
つまり権利の尊重、相手への思いやりとは、相手の当座の欲求を満たしてあげることではなく、長い目で見たとき相手に役に立つことが必要です。
さて、メンタルなことに話を戻しましょう。
心のトラブルを抱えた人には、優しく受容的に接することが必要なのでしょう。けれど、「癒し」とやらを重視するのも考えものです。居心地のよさを提供されると、その人はその調子の悪い状態にとどまろうとします(ある種の疾病利得)。具合の悪さを維持するような接し方は、手助けとかサポートとは違うものです。癒しが人殺しの論理になってしまいます。
その人に変化を促す手助けは、冷たい態度に感じられることが多いはずです。しかし、冷たいと言われようが、上から目線と言われようが、それは仕方ないことです。
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