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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年08月06日(金) 依存症と日本の宗教 神戸の話ですが、すこし脇に逸れます。
初日、信田さよ子先生の講演のあとの質疑応答で、「日本ではなぜアメリカのように自助グループが流行らないのか?」という会場からの質問に対し、先生は「日本では宗教が活躍しているから」と答えていました。その答えを意外に思った人もいるのでしょうが、かなり真実を突いていると思います。
日本の宗教人は依存症の問題にわりと熱心です。AAで会場を借りているカトリック教会の部屋の壁には、教区のアルコール問題研修会の告知が貼りだしてあります(単に古いのが剥がされてないだけですけど)。2月にRDPのワークショップで利用した天理教の施設にも、依存症問題研修のポスターがが張ってありました。信者あるいは信者候補の抱える問題の一つとして、依存症問題を理解しようという機運が少なからずあるようです。
日本人の宗教に対する感じ方として「悩みを抱えた人の心に入り込んでくる」というのがあります。それは日本の宗教がそういう布教スタイルを取ってきたからであり、それが「宗教に取り込まれるのは心の弱い人だ」という偏見を形作る原因にもなっています。その是非はともかく、その悩みの中に依存症問題も含まれており、宗教人が依存症問題の最初の相談を引き受けることも良くあります。
信心してみたけれど酒は止まらなかった、という話はいくらでも聞きます(それぐらい宗教を試してみる人は多い)。宗教では酒が止まらなかったからこそ、医療や自助グループにやってくるわけです。一方で、ブッシュ前大統領のように宗教によって依存症から救われた人もいるはずです(けれどその人たちは自助グループには来ないでしょう)。
じゃあ海の向こうのアメリカはどうなのかというと、宗教から見捨てられた(酔っぱらいは迷惑だから)人たちが自助グループで助かっているという構図のようです。
僕は長い間、向こうでは教会でAAミーティングをやっているところも多いし、AAと宗教というのは暗黙の協力関係というか、良い関係にあるのじゃないかと思っていたのです。何年か前の Slaying the Dragon の邦訳記念講演のときに、著者のホワイト先生にそのことを質問している人がいました。
教会でミーティングをやっていると言っても、それはあくまで教会の一室を貸してくれているにすぎないのであって、信徒の人が酒をやめてもなかなか「正門から入って聖堂に入れてもらう」というわけにはいかない。ちゃんとした信徒として扱ってもらえるようになるには、長い時間がかかるのだとか。
recovery church という話を聞いて驚いたのですが、そうやって教会にマトモに相手にしてもらえない人たちが集まって、自分たちの教会を造っているのだそうです。
なんとなく「宗教が相手にしてくれているうちに宗教で助かるのが上等な人で、見捨てられて自助グループまで行ってしまうのは下等な人」というニュアンスを感じさせる話でありました。(そういった社会の偏見を取り除こうとしているのが、回復擁護運動なのですけど)。
こうした日米の違いは、それぞれの社会における宗教の立場の違いから来ているのでしょう。
ともあれ、日本では(とくに田舎のほうでは)宗教が依存症の問題の引き受け手になっており、それは市井の宗教人たちが人の悩みに偏見なく向き合おうとした結果だろうと僕は考えています。しかし、依存症の問題は経験も知識もない人たちにとっては手に余ってしまうことも、想像できます。
僕はまずいったん宗教を頼ってみることを否定的に捉えていません。もちろんそこで助かる可能性もあるからです。そこで助からないにしても、いろんな手段を試してみて、何をやってもダメだったからAAに来た、というほうが話が早いからです。
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