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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年11月27日(金) mil 原点回帰運動について(その1) 現在日本のAAや、他の12ステップグループで広がりつつある「ビッグブック・ムーブメント」について、なぜそれが起こってきたか、という観点からまとめて書いておこうと思います。
僕がAAにやってきたのは1995年、再飲酒を経て翌年からAAのメンバーとしてアイデンティファイしています。だから、それ以前のことは、伝聞や資料から得た情報を元にしています。
1990年代は、日本のAAが停滞を始めた時期です。日本のAAは1975年に東京で最初のグループがスタートし、関東から全国へと順調に広がっていきました。しかし、10年、20年を経ると、ある傾向がはっきりしてきました。それは、AAグループの数は増えているものの、1グループあたりのメンバー数は増えておらず、逆に減ってきている可能性が指摘されたのです。
もちろん、大きなグループも小さなグループもあって良く、どのサイズが適切だとは言えないのですが、グループとしての成長がないのも困りものです。
その原因はどこにあるのか、はっきりしていました。
AAを知ってやってきても、1回か数回ミーティングに出席しただけで来なくなってしまう人はいつの時代にもたくさんいます。AAにずっと残る人のほうが少数派です。変化はそのAAに残った人たちに起こりました。5年、10年とAAを長く続けられる人が減り、せっかく酒が止まったのに1年、2年ぐらいでAAから去っていく人が増加したのです。
AAから離れた人たちがすぐ再飲酒するわけではなく、中には長期間断酒が続く人もいます。けれど多くは長くとも数年までの間に再飲酒し、ふたたびAAに戻ってくるか、あるいはAAと無縁の飲んだくれに戻ります。
こうしてAAのドアを1〜2年単位で入ったり出たりする回転ドア現象が起こるようになりました。グループの中に長く残る人は一握りで、他のメンバーは1年か2年で総入れ替え、ということが起こりました。またいったんメンバーが増えたグループも、数年後にはすっかり数が減ることもありました。
これでは、グループあたりのメンバー数は増えていきません。
数年でAAを去り、しばらく後にまたAAに戻ってくる。それは自己選択の結果であり、本人の責任だという考え方がありました。要するに彼らが本気になれないのは、「まだ苦しみ足りないから」だと考えられていたのです。実際、何度もAAを出入りして、人生の時間を無駄にしたあとで、ようやくしっかりしたAAメンバーになった人たちの存在が自己責任論を後押ししました。
しかし、AA側にも責任があるのではないか、と考える人たちがいました。ただ、AAが以前とは変わってしまった、悪くなった、と嘆く長老たちはいても、何が問題なのか、どう改善すればいいかはハッキリせず、「ともかく今まで以上に一生懸命AAをやるしかないだろう」という根性論が多かったように思います。
1990年代というのは、あることが指摘され始めた時期でもありました。
日本の大多数のAAメンバーは、日本のAAしか知りません。しかし中には、仕事や家族の都合で海外と日本を行き来する人もいれば、外国のAAメンバーが日本に長期滞在することもあります。その人たちから「どうも日本のAAは、他の国のAAとは違う」という意見が出されました。中には「日本のAAはAAとは呼べない別物だ」とまで極論する人もいました。
僕は1980年代に日本でソーバーを得た人たちを何人も知っています。彼らはAAをやりながら、なにより人生を楽しんでいる(つまり「回復」している)のは確かだと感じられました。彼らのやった12ステップに効き目があったことは確かでしょう。ただし、そのステップがなかなかうまく他のメンバーに伝えられなかったのだと思います。
1〜2年で人がAAを去っていくのは、彼らがAAで酒はとまったものの「回復」を得られなかったからです。逆に言えば、それはAAが彼らに回復を提供できなかったからであり、彼らの後の再飲酒はAAの怠慢と責められても仕方ありません。海外と隔絶し独自の進歩を遂げた日本のAAは、(酒をやめさせるということはともかく)ステップを伝え回復をもたらすという点で、その有効性を失っていたのです。
回転ドア現象とグループメンバー数の停滞はその現れでした。
(続く)
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