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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年06月18日(水) AA80ページ AAの80ページ。
「男にも、女にも、子どもにも、一人一人のおおもとの深いところに神の意図がある」
for deep down in every man, woman, and child, is the fundamental idea of God.
誰でも心の一番奥深いところに「根源的な神の概念」、つまり根源的な信仰心を抱えているはずです。身に降りかかってくる不幸や、虚栄心や、即物的な金や人への信仰が、神への信仰を覆い隠し、否定してしまいがちです。でも必ず心の奥深くに信仰心は存在しているのです。
誰もが「自分より偉大な力」への信仰を持っていて、時にそれが人生に奇跡をもたらしてくれます。
次のページには、そこ(おそらくは心の奥深く)に「神」が見つかると書いてあります。信仰心が見つかれば、神も見つかるのでしょうか。
さて、ハビエル ガラルダの『自己愛とエゴイズム』に、こんなくだりがあります。
<落ち着き、勇気、知恵を求めること>
R・ニーバー先生は、昔アラビアのテレジアが書いた言葉を、ある有名な祈りにしたのである。
ところで、祈るということは深く望むということである。いわゆる正式な信仰がなくても、奥深い自分に向かって祈るのは非常によいことであると思う。その「奥深い沈黙の我」が、いつの間にか「我の奥深い沈黙の汝」に変わった事実を何となく感じられるようになった気持ちを、正式な信仰と呼びたいが、しかしその気持ちにならないうちにでも、深く何かを望むという「祈り」は大変良いことであると思う。
(引用終わり)
祈るためには、祈る相手がいります。願いを聞き届けてくれる相手が必要です。虚飾によって自分の信仰心を見失っている僕のような人間の場合、誰に向かって祈り願ったらいいのかわかりません。それでも祈りたければ、提案通りに「自分の心の奥深く」に向かって祈るしかありません。これだけでも、ずいぶん進歩だと思います。
僕は宗教的な信仰心を抱いたことがないので、「沈黙の汝」という存在を感じたことはありません。けれど、自分の最深部には「神さま」と呼んでよい存在がいて、僕の人生のシナリオを書いていると信じています。時になんらかの触れ合い(みたいなもの)を感じる時もあります。そしてその存在と、たとえば「創造主」という存在とは、どこかでつながっているのじゃないのかな、と思ったりもするのです。
水曜・朝/コーヒー・トースト・ジャム・とんかつの残り・アカディ・チーズ、昼/コンビニのねーちゃんがレシートをくれなかったので不明な小さい弁当・おにぎり一個、夕/すき家の牛丼並サラダセット・ケーキとマンゴージュース(アフターで)・カップそば(夜食)。
金使ったなぁ。
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