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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年11月22日(木) サクリファイス あまりに多くの時間、あまりに多くの情熱、あまりに多くの金銭などなどを「AAに捧げ」、それ以外のことを犠牲にしている人もいます。まるでその人の人生はAAのためにあるかのようです。
そうなると、依存の対象がアルコールからAAに変わっただけではないか、という批判も出てきます。もっとバランスを取り、自分本来の人生を大事にしたらどうか、という提案も出ます。AAがカルト的で恐ろしい所にも見えてきます。
そういう問題について、僕も今まで考えてこなかったわけではありません。
いままで僕の考えが変わってきたように、将来も意見が変わるかも知れませんが、ともかく現時点での僕の結論は、「そういう人には、それだけAAが必要であり、それ以外の人生はあり得ないのだ」ということです。「あまりに多くをAAに捧げ、その対価としてソブラエティを手にする」のか、あるいは「飲んだくれに戻る」のか、二者択一しか許されない状況の人がいると解釈しています。
それが不幸なことなのかは分かりません。本人が自分の選択に納得しているなら、人がとやかく言うことではないでしょう。
逆に言えば、依存症とはそれだけ厳しい選択を人に迫る(こともある)病気なのです。
もちろん、それほどAAに傾倒しなくても酒が止まり続けている人もいます。家のローンを払うために仕事が忙しく、年に何回かしかAAミーティングに来れない人もいます。けれどそういう人のAAに対する感謝も、どっぷりAAにハマったひとの感謝も、違いはないと思います。
そして、自分が「どっぷりAAにハマる必要がある」か、「たまにAAに顔を出すだけですむ」のか、残念ながら自己決定できる選択ではありません。俺はAAに人生を費やしたくないと言いながら、酒に人生を費やしているようでは話になりません。定期的にスリップしていたり、酒が止まっていても感情のトラブルを抱えているなら、人生の他の部分を犠牲にして、AAにより深くハマってみるしかないでしょう。
病気の重さは自分では決められません。
サクリファイス(sacrifice)とは生け贄を捧げるという意味です。手放したくないと思っていた何かをサクリファイスしなければ、次の人生が開けてこないってことは、何もAAに限った事じゃないでしょう。
ミーティングの数を減らしていって、酒を飲んでしまったら減らしすぎだった、ぐらいしか判断の方法がないのであります。
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