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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年07月27日(金) 集合知 集合知という考え方があります。
たとえばメーリングリストでは、同じことに興味がある人たちが、様々な話題をメールで交換します。時には意見が対立して、激しい口調の文章が頻繁に投稿されるフレーム(議論の炎上)という現象が起こります。フレームでは、たいてい議論は平行線のままで結論に収束しないまま終わるものです。
フレームに発展しなくても、話し合いは平行線のままってことは、よくあります。メーリングリストに100人が参加していれば、そういう話が100人に毎回送られるわけです。
決着が付かなければ意味がないと思っている人は、平行線の話し合いに意味を見いだしません。とりわけ、何もかもコントロールしたがるアル中さんは、相手が自分の意見に従ってくれないことに、大きな不満を持ちます。意味がない無駄なことだと考えがちです。
話題にならなければ、個人の知(知恵とか知識)でしかなかったものが、話の交換が皆に届くことで、その集団の知に変わっていきます。これが集合知という考え方です。集団の知というものは、一様ではないもので、なかに様々な意見の相違を含んでいます。一様であればよいわけでもありません。
集団にはメンバーの入れ替わりがあり、個人もなかなか進歩しないものですから、たとえばフレームであれば、似たようなフレームが繰り返し起こります。だからくだらないと言う人もいますが、このプロセスそのものが集合知の有り様だと思います。
ネットの掲示板でも、あるいは自助グループでも、同じトラブルが繰り返し繰り返し起こります。AAのビジネスミーティングや委員会で何を決めても、2〜3年もすればすべて忘れ去られ、また同じことを話し合っているのが通例です。
それを進歩がない無駄な行為だと考えがちです。でも繰り返しに意味があるんだと思います。個人のステップでも、同じことに繰り返し気づきます。気づいて自分を変えても、いつの間にか元に戻っているということです。それでも、気づきと変化には意味があります。グループにとっての伝統も同じでしょう。
どれだけ進歩したかという量ではなく、どちらへ向かっているかという方向性が大切です。
回復のためのミーティングでは、議論を避け「言いっぱなしの聞きっぱなし」にするというのも、集合知を作るための知恵でありましょう。
議論に決着が付かない、白でも黒でもない、あいまいなまだら模様の状態を受容していきましょう。
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