心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年06月26日(火) 家族の否認

携帯電話にリマインダーのメールが入ったのが午後7時25分でした。
どうやら1時間前に設定してあるはずのリマインダーが、間違って5分前の設定になっていたようです。こんな時間に仲間のバースディ・ミーティングを思い出しても、もう遅いです。もう女神湖を過ぎて峠にさしかかっていましたから、それから引き返しても高速のインターまで45分。たぶん、会場に着く頃には終わっているでしょう。
素直に諦めて、当初の目的地であるミーティング会場へ向かうことにしました。

そこへ向かうときには、どうしても途中で何台かの車を追い越すはめになります。そうでなければ、荷物満載でノロノロ走るトラックの背後にずっとくっついて行くしかありません。もし同乗者がいれば、振り回されてゲロゲロに酔うでしょう。

いつ行っても2〜3人でやっている会場ですが、今夜は年配の男性が奥様と連れだって来られてました。20年の仲間のバースディに行けなかったのは残念ですが、初めてAAに来た人と話をすることの方が、今夜の僕に求められていたことだったのでしょう。20年の人に21年の日がやってくる可能性と、今夜の人に1年が来る確率には違いがあるのですから、きっと仲間も許してくれることでしょう。

僕は十数年前、アルコール依存症の専門病院を探して自ら入院し、そこで依存症という診断をもらいました。それまでは「あくまでうつ病の人が一時的に過度の飲酒をしただけ」ってことでしたから、ずいぶんな違いです。
そのとき母は、「お前はうち(の家系)からアル中を出すつもりか!」と言って僕を責めました。ただでさえ近所に困り者の息子として知られているのに、この上さらに恥ずかしい病名まで付けようとするのかと。
それまで母は、台無しになった僕の人生をマトモに修正しようと、様々な努力を行い、そしてその努力がすべて無に帰して来たわけです。その徒労感、絶望、憤懣を「依存症などという病名」によって免罪にしたくはない、という気持ちもあったでしょう。

僕本人もいずれは正常に飲めるようになって、酒のことで小言を言われなくなる予定でいましたし、病気だとか断酒という話は断固拒否でした。アルコール依存症は否認の病気と言うように、僕本人の否認がまず頑固にありました。
その上でさらに、母の「この人はたまたまお酒を飲み過ぎているだけで、気持ちを入れ替えれば真人間に戻るはず」という強固な家族の否認がありました。
この二つの否認が絡み合って、病気の治療という解決を遅らせていたのは確かです。

僕の母が演じたような役回りは、同じく母や父、あるいは妻、夫、時には息子や娘が演じることになります。最初に否認が解けるのが家族以外の関係者、次が家族、最後が本人と言われていました。最近もこれが当てはまるのかは知りません。
逆に回復は、本人・家族・その他の順番だと言われおり、本人が結構お気楽になった後でも、家族が憤懣の感情を解くにはまだ時間がかかるのが普通のようです。これは今でも変わらないようです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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