ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ|過去へ|未来へ
2007年05月24日(木) 10分で書く雑記(その1) ずいぶん前の話。県内で依存症に詳しいと評判の医師が、大学病院のインターン相手にアルコール依存症の講義に招かれました。先生はテキストとして、AAのビッグ・ブック英語版の第3章冒頭をコピーして使ったそうです。なぜ英語版かというと、その文章が60年前から変わっておらず、60年経ってもその内容が「時代にそぐわなく」なったりはしないということであったと思います。科学はまだ治療法を確立できていないのです。
3章冒頭をざっくり要約すると「まともに飲めるようには二度と戻らんよ」ということであります。そのテキストを読んだ医者のたまごたちの感想は、「そんな事実を依存症の患者さんに突きつけたら、悲観して自殺しちゃいますよ」というものであったと聞きました。
僕が何年目かにビッグ・ブックを読んだときの感想は、この本に書かれている理屈は、僕の知るAAの理屈とずいぶん違っているというものでした。
たとえば当時のAAミーティングや、病院メッセージのには、あまり病気の真実を強調しない方が良いという考え方がありました。それは反感しか呼ばないと。確かに、失った飲酒のコントロールは二度と取り戻せないとか、飲み続ければ棺桶・閉鎖病棟・刑務所しか行き着くところはないと(たとえば病院で)言えば、冷ややかな無視や頑固な否認にぶち当たるのは確かです。だから、自分の経験をひたすら話すことに絞って、その経験の中から共感と気づきを得てもらうことで、徐々に相手が変わることを期待するしかないという論調がありました。
それは確かに一面の真理ではあります。しかし「俺はお前とは違う」という否認や、「ほらここが違う」違い探しにぶち当たることは避けられません。
そして経験共感主義に偏るあまり、たとえば「若い女性とじいさんの飲み方に共通する部分が少ない以上、女性が病院メッセージに参加するなんて、所詮本人のためにしかならない」という偏見を感じました。まじめにメッセージを運ぼうとする若い人や女性、合併症者に、偏ったサンプルというレッテルを貼ることになっていた気がします。
ところがビッグ・ブッグには、この病気の悲惨な側面を、余すところなく強調してかまわないと書いてあります。なぜなら私たちは、まじめに取り組みさえすれば、ほぼ全員が回復できる(12のステップという)道具を持っているわけだから、絶望させることは無責任でもなんでもない、あいまいにお茶を濁すより良いというわけです。
同時に、道具をきちんと手入れしておきさえすれば、ねーちゃんがじーさんに、親が子に回復を運ぶことも、当たり前にできることになります。
共有すべきは原理という考え方からすれば「経験の分かち合い」は、あくまで手段であって目的ではありません。
僕は「今のAAは手段が目的化してしまっている」と感じていました。手段の方が気持ちいいのはよくあることで、子供という目的よりも、それを作る手段の方が気持ちよかったりするわけです。
(たぶん、明日に続きます)
もくじ|過去へ|未来へ