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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年02月05日(月) 年数が経ってから理解する 実家で酒を飲んでいたころ、僕は節酒をしようと、さまざまに努力しました。
その中のひとつに「酒を買って帰らない」という手段がありました。といっても、手ぶらで帰るわけではなく、2合ほど買って帰るのでした。酒が2合しか手元に無ければ、飲み過ぎることもない「はず」だったのです。
が、当然そんな量で満足できるはずもありません。時計が気になります。午後11時になれば、酒を売る自動販売機は締まってしまいますから、追加の酒を買いに行くなら11時前にしないといけません。
買いに行ってしまえば、結果飲み過ぎるから、そこはなんとか我慢します。しかし、酒が足りなければ眠れません。まんじりともしないのです。夜中に片道2時間歩いて、隣町のコンビニまで買いに行ったこともありました。
しかし、たいていは朝5時に自動販売機が再開するまで耐え、買いに行くほうを選びました。そういうことは東京一人暮らし時代にもありましたが。もちろん、朝5時から飲みなおしていたのでは、仕事には行けません。
さて、冬は5時でもまだ暗いから良いですが、夏は5時ともなればすっかり明るいわけです。そして悪いことに、田舎の年寄りは朝が早い。朝の爽やかな光の中を、角瓶とかビールの1リッター缶を提げ、変な目つきでふらふら歩く僕の姿は、多くの人に目撃されました。
「恥ずかしいからやめてくれ」と親に言われても、やまるわけがありません。近所で「あそこの家の次男坊は気狂いだ」という噂になりました。近くの家に、別の精神病の患者を抱えた家があったのですが、そこと同じ扱いです。まあ、そういうカテゴライズは間違ってませんけど。
僕の酒が止まったのは、結婚して家を出た後でしたから、結局僕はそこの「地域社会に復帰」はしなかったのです。だから、近所に飲まない姿を見せることはありませんでした。
その後、何年かして、ちょくちょく実家に顔を出すことになります。僕が酒をやめたことは近所にも知れたようです。人々は母に会うと、
「○○ちゃん(僕の名)、奥さんもらって、子供もできてよかったねぇ」
と声をかけるようになりました。しかしそれは言外に、
「○○ちゃんは、お酒を止めて更正してよかったね」
と言っているわけです。
それを聞くたびに、母は当時を思い出して顔から火が出るほど恥ずかしかったと言います。近所から何も言われなくても、僕の車が実家の軒先に止まっている。それを近所が見ている、というだけで、どうにもいたたまれなかったらしいです。
しかし実家に顔を出すなとは言われませんでした。「お前は私の息子だし、それにあれは病気だったんだから」と。どれだけ僕が深く母を傷つけたか、それを無理に許してくれていることも痛いほどわかりました。
あれは病気の症状だった。それは間違いありません。
たしかに、世間はアルコール依存症に(いや精神病全般に)無理解です。
しかし、病気を免罪符にしても、スティグマに責任転嫁しても、僕が母に恥をかかせ、心を傷つけた事実は消えません。それは他の誰でもない、僕がしたことです。
「別に派手なことをやらかしたわけじゃない」といいわけもできません。
それに気付くまで、僕は「自分はそれほど酷いこと、悪いことはしてこなかった」と、ず〜っと思ってきたのです。
ちなみに、兄が許しの言葉をくれたのは、母よりずっと後です。
親の死に目に会えなかった話は、AAで結構聞きました。刑務所とか、保護室とか、そんな話ばかりでしたが。親の葬式の喪主になって、通夜を抜け出してAAミーティングに来た人にも会いました。
人ごとだから言えるのかも知れませんが、親の死に目にあわせて貰えないってのは、それだけ重症だってことでしょう。もう何年か前に酒をやめていたら、会えたのかも知れません。しかし、会える・会えないの分岐点は、とうに通り過ぎてしまって、もう変えられないわけです。
変えられないものを変えようとすれば、悩みになり苦しくなる。
司直、医師、中間施設のスタッフ、AAスポンサー。誰が判断を下すかは、些末な違いじゃないかと思いますよ。
僕も、もう何年か飲んでいたら、親の死に目に会えなかったでしょう。
という話をすると、「その前に自分が死ぬよ」というツッコミが、必ず入る仕組みになっています。
実家の周りを子連れで散歩していると、今では母にではなく、僕に直接「よかったねぇ」と言ってくれる人がいます。僕が、「おかげさまで良い連れ合いをもらいまして」という話をすると、相手は満足そうです。
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