ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ|過去へ|未来へ
2006年10月09日(月) 平凡 平凡な人間の中には、善と悪が入り交じって存在しているのでしょう。
誰だって、自分には悪い部分もあるけれど善性が勝った人間である(つまり基本的にはよい人間である)と信じたいものです。
たとえば僕はよくトイレの話をするのですが、自宅のトイレを汚したら自分で掃除する人でも、駅のトイレを汚しても掃除しようとはしないものです。そうではありませんか?
自宅のトイレを掃除しなくても、嫌な思いをするのは結局自分です。それか家人から非難されるか。いずれにしろ、リスクは負わねばなりません。ところが、駅のトイレから逃亡しても、非難を受ける可能性はごく低いものです。
公共のトイレがどんなに汚いものであるか、そういう話はもっともですし、それを無償で掃除する高潔な人間が少ないのも事実でしょう。
僕もたぶん逃亡するでしょう。逃亡を選択する心の暗闇があるわけです。
そうした暗闇に光があたっても結構平気でいられる人もいます。でも、まるで攻撃でも受けたかのように反撃したり、理屈で反論したり、イジメにでも遭ったように落ち込んだりする人もいるわけです。
自分も基本的にそうしたタイプであります。そうした過剰な反応をする人は、たぶん自分に対する期待値が大きすぎるのでしょうね。自分は平凡な人間であり、平凡な人間の中には、善も悪も同じぐらい存在していることを忘れているのであります。
どこか、自分を高潔な(優れた)存在であると見なしたい願望があります。しかし、高潔さはトレーニングなしにはたどり着けない場所でしょう。
結構平気な人は、人の心のは誰にでも闇があることを知っているし、自分もその一人であることを受け入れられるのでしょう。
棚卸しの作業をすると、そうした悪いものがぼこぼこ出てくるわけであります。
悪い部分は一生かかってもゼロにはならないです。霊的生活が完成した人はいないんですから。改善される部分もあるでしょうけど、ゼロにはならんです。
悪いものをたくさん抱えた、高潔でない弱い自分。ありのままの自分を好きになっていくしか仕方ないんじゃないかと思うのです。
結局の所、棚卸しの作業は、健全な自己愛を持つために必要な過程なんでしょう。
自分を愛せるようになるのは、誰かに愛されるのが一番なんだそうです。でも、生身の人間には、他人のありのままを100%受け止める大きさはないでしょうから、Higher Power ってもんが必要になりそうです。
自分が人とは違う(平凡ではない)だって、これが違うあれが違うと言い訳をするのは、アル中特有の「違い探し」でしょう。自分の性格的欠点に、いちいち言い訳を考えてみても仕方ない。平凡になる。自分にも(もちろん他の人にも)期待を押しつけない。がっかりしない。
ステップ4は、改善のためにありのままの現状を把握するのが目的で、自己非難の材料を探すためのものではありません。
もくじ|過去へ|未来へ