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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年03月08日(水) なぜ? 「なぜ自分がアルコール依存症になったのか」
ということを、とても苦にしていた時期もありました。
酒を飲む人はたくさんいるのに、なぜ自分だけが「飲めない体」になってしまったのか。
たとえば僕の実兄は、とてもよく酒を飲むのであります。休みの日は昼間から飲んでいたりします。でも不思議なことにヤツは医者から「依存症」という病名をもらうまでにはなっていません。ひょっとしたらいつかそうなるのかも知れませんが、定年までこのまま元気に飲み続ける可能性も十分あるわけです。
それに引き替え自分は20代後半からもう「飲むのは病気である」と診断されていたのであります。
不公平ではないか、と思って当然ではないでしょうか。
いろいろと自分が依存症になった理由を考えてみたのですが、どれをとっても理屈の上でも、感情の面でも納得できる理由ではありません。
「なぜ自分が依存症になったのか」を考えているのは、実は酒が飲めなくなった自分をすごく不運だと思っていて、かわいそうな自分を慰めてあげたかっただけなのかも知れません。
いつ飲んでもおかしくないはずの自分が、いつのまにか、飲まないのが当たり前になっていました。どんな計画を立てても、それが酒のせいでダメになってしまう暗い見通しがつきまとっていたのに、いつのまにか未来のどこかでも今日と同じような生活をしていることに疑いを持たなくなりました。
そうなって、なぜ自分が依存症になったのかを考えてみると、「たぶんそういう運命だったのだろう」というぐらいに思うのであります。生まれたときに依存症になる運命が決まっていた、とでも言いましょうか。だから、酒が飲めるようになったら、まっしぐらに依存症に向かっていったのも不思議ではないと。
人と比べて不幸なのかどうかは分かりません。幸せな人はすごく幸せな人もいるでしょう。でも、世の中には自分より不幸な運命の人もいるのでしょう。そういう不幸と自分を比べて幸せになる訳じゃありません。同じように幸運な人と自分を比べても不幸になる訳じゃありません。
依存症になった自分が酒が止まったのは、幸運が作用していることもあると思います。医者との出会い、自助グループとの出会い、スポンサーとの出会い。生まれる場所がちょっと違っていたら、そこに行く時期ががちょっとずれていたら、自分はずいぶん遠回りしたかもしれません。
酒が止められずに死んでしまう人もいるのですから、酒が止まったという幸運はありがたく受け取っておきたいと思います。次に飲んでしまったとしたら、また同じ幸運が手にはいるかどうか自信がありません(努力はしたいと思うけど、結果については自信がありません)。だから今回のソブラエティを大事にしたいです。
神様は僕が生まれたときに、僕が将来依存症になることを運命づけられた。きっとそのときに、飲まない依存症者として生きていくことも運命づけられたのでしょう。まあ将来のことは分かりませんが、とりあえず今のところはそんな感じです。
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