心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2004年06月23日(水) ときに信仰について

「AAメンバーが信用できるか、できないかの判断は、その人がハイヤー・パワーを持っているかどうかでできる。ハイヤー・パワーがある人は信用できるし、そうでない人にはどこかで裏切られる」

そう言ってくれた人がいました。理屈っぽく反論するならば、その人がハイヤー・パワーを持っているかどうかを相手じゃなくて自分が決めている点。それに、ハイヤー・パワーがある人だって時には人を裏切ることもあるわけで、それを許せるかどうかの判断に「持っている・いない」を使っているだけのような気がしなくもありません。

でも、その言葉に僕は共感を覚えなくもありません。AAとは平たく言えば信仰であります。キリスト教的な神に限らず、自分の好きな神を選べばいいし、とりあえずAAそのものを信じるということもできるわけです。信仰と言う言葉が嫌いならば、「信頼」と言う言葉に置き換える手段もあります。「AAに対する信頼」というものを人は持てるでしょう。

「信頼には信頼で応える」というのが社会のありようである以上、AAだからと言って特別なしきたりが生きているわけではありません。

話は変りますが、AAの中にも「信仰」と言う言葉を好かない、どちらかというとその言葉は嫌いであるという人もいます。彼らは「AAは何かを信じることを強要しない」という言葉を自分たちの足場にしています。仲間やその交わりであるグループやAA全体を信じる人たちは、その自由を謳歌しています。
僕はそれは、いたってよい事だと思います。でも一つだけ注文をつけるとするならば、AAには明確な信仰を持った人「も」受け入れるだけの自由さが必要だということです。

「AAの核心はいたって簡単であり、個人を主体としたもの」であります。個人個人によって、プログラムの解釈に違いがあるのは当たり前で、だからこそ私たちは集団でいる意味があるのでしょう。

僕のソブラエティのごく初期の頃に、僕の前にいきなり現れて「神様」について明確に語ってくれた人がいました。僕は「AAは宗教じゃないのに、嫌だな」と思った覚えがあります。でも、もし彼のその話がなかったならば、僕はAAの持っている広がりを感じることはなかったかもしれません。だから彼には感謝しています。
「信仰は常にもっと深められる」とあります。僕のように大きく壊れた人間は、簡単な信じ方では救われないのでしょう。

「霊的な成長や感情面での成長は、楽しいときではなく、苦しいときに成し遂げられる」といいます。AAを純粋に楽しめないときがあったとしても、それは問題ではありません。大切なことは僕が、神とAAと他の人を信じられるかどうかという点にあるのですから。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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