神さまへの扉 - 2003年10月25日(土) いつからか、ジーザスはわたしの中にいる。 たぶんあの日、教会であの美しいジーザスの絵を見た時だと思う。 そのときにはわからなかった。気がついたらジーザスはいつもわたしの中にいた。 それからもやっぱりおんなじように、幸せと悲しみと喜びと淋しさと不安はわたしをからかってるみたいにきっちり順番にやって来て、そのたんびに鳩尾のあたりに手を重ねてジーザスに話しかけた。そのあたりが一番、わたしの中のジーザスに手が届きそうな感じがするから。聞いて、今幸せだよ。なんでこんなに悲しいの? 嬉しい。ありがとう。淋しいよ、助けて。不安だよ、どうしたらいいの? って。 ジーザスは、幸せなときも悲しいときも嬉しいときも淋しいときも不安なときも、あの美しい美しい目を細めて、カダーとおんなじあのくちびるをゆるめて、わたしに微笑んでくれる。ときにはあの絵のまんまのちょっと深刻な顔でじっとわたしを見守るように見つめる。 教会で歌うときやお祈りするときには、わたしはジーザスへの思いを抱えるように、両腕を鳩尾を覆って交差させて自分のからだを抱き締めるようになった。 わたしにはわたしのジーザスがいつもわたしの中にいてくれて、わたしの中のジーザスがわたしを愛してわたしを守ってわたしを導いてくれる。わたしはジーザスと生きている。気がついたらそう思うようになってた。 神さまとジーザスが結びついた。やっとやっとやっと。わたしの気づかないあいだに。 そしてわたしはいつのまにか自分をクリスチャンだと認めてる。入院したときに聞かれた信仰も、何の迷いもなく「クリスチャン」って答えてた。 それでも、神さまが約束してくれたはずの true love には届かなくて、それはジーザスへの愛のことだったのかもしれないって思ったり、そんなことない、ディーナは必ず訪れるって言った、って思い直したり、でもディーナは「もうすぐ」ってあのとき言ったのに、それはあれがカダーのことだったのにわたしがそれを信じられなかったからだ、って考えたり、それより何よりわたしはずっとデイビッドの愛がわからない。このまま望んでいいのかもわからない。 神さまの罰だと思ってた。罰を受けるような理由なんかたくさんある。間違ったお祈りのような気がして、お祈りができなかった。あの頃必死の思いで、苦しい苦しいお祈りをディーナに言われた通りに毎日続けたときみたいには。 今日、教会の一日リトリートに参加した。 前のアパートがある町の少し手前にあるそのリトリート・ハウスはカソリックで、いかにもカソリックなお城みたいなとこだった。広い広い森のような敷地。午前中、お祈りの場所を探しながら森を歩いて、寒くなったからハウスに入る。あたたかいチャペルに座ったら、ここがわたしのリトリートの場所だって思えた。 ひとりぽつんと日の当たるチャペルの椅子に座って、わたしはジーザスに話しかける。神さまに手を伸ばす。3時間、眠るようにお祈りを続けた。 それが神さまの声だったのかどうかわからない。だけど、不確かだけど聞こえたものがあった。 これは罰じゃない。神さまは、わたしがこの困難を自分の力で乗り越えるのを待ってくれてる。ジーザスの愛に導かれて、少しずつ少しずつ乗り越えて行くのを待ってくれてる。神さまがわたしのために作ってくれた幸せな運命に向かって、わたしがジーザスの手を握りしめながら一生懸命歩いて行くのを待っててくれてる。 思わずジーザスの手を握りしめた。神さまの手にしがみついた。 それは、木曜日の晩、手を握りながら眠ってくれたデイビッドのあの手みたいだった。 「あたしとあなたは、おんなじ神さまを信じてるんだよ」 「僕はジーザスは信じてないよ」 「神さまはたったひとつでしょ?」 「そうだよ。たったひとつだよ」 「ジーザスはあたしを導いてくれる。でも神さまはたったひとつ。たったひとつの神さまをあたしとあなたは信じてるの」。 デイビッドの腕枕の中でそんな話をしたことさえ、神さまの計らいだと思った。 ジーザスは神さま。神さまだけど、神さまを信じる人たちすべての神さまじゃない。 だけど神さまはたったひとつ。だから大丈夫。いつかカダーもそう教えてくれた。だから大丈夫。 「辛抱強く待ちなさい」。ディーナの言葉の意味もわかった。 わたしとデイビッドは、いつか一緒に同じひとつの神さまへの扉を開ける。 わたしはジーザスに導かれて、デイビッドはジーザスに導かれなくても。 -
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