手 - 2003年06月21日(土) デイビッドが車を動かしに行ってるあいだにシャワーを浴びる。 それから一緒に出掛けた。街は人で溢れててカフェも人でいっぱいだった。ほんとに久しぶりの青空で、そのせいか金曜日の朝のせいか、誰もみんなごきげんだった。知らない人たちとちっちゃいおしゃべり交わしながら窓際のカウンターに席を取って、外を見ながらクロワッサンとコーヒーの朝ごはんを食べた。 ステイプラーズで要るものを買って、ランチ用にローストビーフとディジョーマスタードを買って、デイビッドが修理に出してた靴を取りに寄る。道路は全部ジェイウォークして、中央分離帯まで登って横切って、降りるときにはデイビッドが手を取ってくれる。デイビッドは早足でおしゃべりで、わたしは一生懸命追いかけながらおしゃべりを返して、あの人とあの人の街を歩いたときみたいだった。 デイビッドの仕事のお手伝いをすることになってた。 日本人のクライアントの書類とインタビュー記事の翻訳。インタビュー記事は日本の音楽の専門誌の切り抜きで、その雑誌をきっとあの人は知ってると思った。でも名前を覚えてない。意味不明のところがあって、そう言ったらデイビッドはそのミュージシャンに電話をかけてわたしに代わらせた。「日本語で聞くの?」「日本語で聞かなきゃ」。そりゃそうだ。日本語の意味がわかんないんだから。またものすごく緊張して上手くしゃべられなかった。バカ丸出しで、デイビッドが日本語わからなくてよかったと思った。 お昼はデイビッドがローストビーフのサンドイッチを作ってくれた。ディジョーマスタードは「両側にたっぷり」ってリクエストした。ヨーグルトのコールスローもビーツのサラダもおいしかった。 後片づけはわたしがして、散乱したクライアントの書類を項目ごとにきちんとファイルするとこまでやったら夕方になった。一緒に仕事するのは楽しかった。ほんとに楽しかった。 夜になってまた雨が降り出したけど、河沿いの公園にある大きなバーに連れてってくれた。そこはリーシュをつければナターシャも入れてもらえる、半分が屋根の付いたテラスになってるバーだった。オレンジとグリーンにライトアップされたジョージワシントン・ブリッジが遠くに見えた。水と公園と橋。水の向こうに見えるニュージャージーの街灯り。あの街とおなじ。わたしはまたあの街のことを夢中になって話す。 デイビッドはお金を払うって言った。それはわたしにとっては大きすぎる金額だった。わたしは要らないって答えた。「きみが手伝ってくれなかったら僕は翻訳のエージェンシーに頼むとこだったんだよ。だからおなじことだよ」「あたしはプロじゃないからいいんだってば」「きみはプロより早く上手く訳してくれた」「内容が音楽のことだったからよ。それに知らない機材の名前はあなたがスペルを教えてくれたじゃない」。そんなやり取りを繰り返してた。 それからデイビッドが言った。「だめだよ。きちんとするべきなんだよ、ガールフレンドとか奥さんに手伝ってもらったってのじゃなければ」。「え?」って聞き返したら、今度はガールフレンドのとこを省いて「奥さんが夫の仕事を手伝ったってのじゃないんだから」ってデイビッドはもう一度言った。 なんだか胸がずきっとした。 「あたしはガールフレンドじゃないの?」って聞けばよかったってあとから思った。 「あたしが手伝うって言ったんだよ。『友だち』のそういう厚意をありがたく受け取ることのどこがいけないの?」ってわたしは言った。デイビッドは黙ってた。バカ言ったって、もっとあとになってから思った。 胸がずきっとしたままだった。アパートに帰って、デイビッドがわたしにバイオリンを弾かせてくれて、わたしは適当にバイオリンを抱えて音を探しながら「きらきら星」ならなんとなく弾けた。デイビッドはギターを弾いてまた歌ってくれた。それからわたしは、「こっちに来て」ってデイビッドを呼んで、無理矢理渡されてたお金を「これ、やっぱり要らないの」って返した。 笑って言ったのに泣きそうになったから、デイビッドが慌てて言った。「きみの自尊心を傷つけた? そういうつもりじゃなかったんだ。聞いてよ。僕はね、きみが手伝ってくれてほんとに助かった。嬉しかったし楽しかった。日本語が分からない上にややこしいクライアントだし、正直困ってたから。きみが今日はオフで、それだけじゃなくてオフの日をまる一日僕のために使ってくれて、昨日からずっと一緒にいられて、僕は神さまのプレゼントだと思ったよ。ほんとにそう思ったよ。だけど仕事をしてくれたんだから、お金を払いたかったのはそれだけなんだ」。 「神さまのプレゼント」なんて言うから笑顔になれた。 でもまだ「ずきっ」は少し残ってた。 デイビッドはたくさん手を繋いでくれる。 わたしの手は大きくてごつごつホネホネしてて、「女らしい柔らかい手」からかけ離れてる。子どものときからそんなかわいくない手で、母は妹のぽっちゃりかわいい手ばっかり握ってわたしとは手を繋いでくれなかった。いつか妹のふりして後ろからこっそり手を母の手の中に忍ばせたら、すぐにバレて離されちゃった。それ以来自分の手が嫌いになった。ちょっと前に、手を見せながらそんな話を笑いながらしたのに、デイビッドは笑わずにわたしの手を取ってずっと握ってくれてた。それからたくさん手を繋いでくれるようになった。テレビを見てても、わたしに手を差し出してくれる。繋いだ手にキスもしてくれる。わたしのコンプレックスを言葉じゃなくて取り除こうとしてくれる。 そんなデイビッドの思いやりを、わたしがどれほど大切に思ってるか知って欲しい。 何気なく見せてくれるけど、それがデイビッドのどんなに大きな思いやりかをわたしも知ってるから。 だから、「ガールフレンドじゃない」って今はまだ言わないでいて欲しい。 わたしもまだ聞かないから。ずっと手を繋いでて欲しいから。 -
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