TENSEI塵語

2005年10月25日(火) 親と子

「空蝉」という歌をあまり好きでないのは、こんなことありえない、
しかし、その割にこの老夫婦の姿があまりに生々しいと感じられるからだ。
家で待つのならわかるが、毎日駅の待合室にまで来て待っているなんて、、
何だか、大げさな舞台設定のように感じられるのだ。
しかし、舞台作品だったら、象徴的方法としてありえそうだ。
そのありえないことをしている姿が、切実な思いとして伝わり、
取り残されたような、置き去りにされているような、
虚ろさや哀しさといったような情緒がいっそう深く漂うのだ。
最近の駅の待合室は、明るくおしゃれな感じになりつつあるが、
昔の駅の待合室といったら、何となくみすぼらしく寒々とした、
灰色っぽい光景だった。
固く冷たい木のベンチ、こぼれた飲み物で汚れたコンクリートの床。。。
「名も知らぬ駅の待合室」と聞けば、もうそれだけで、
寒々とした寂しい場所をイメージすることができる。

この老夫婦の姿や哀感はよく伝わってくるけれど、共感はできない。
なぜ彼らは、熱い恋を守り通してここまで生きてきたのに、今抜け殻なのか?
なぜ、今、このように惨めで哀れなのか?

子どもなどはあてにしてもいけないし、生き甲斐にしてはいけないのだ。
子どもは親を離れていくものだ。
子どもは親の産物であり、作品でもあるけれど、
作品はやがて作者の手を離れて、独立し、ひとりで歩き始めるものなのだ。
創作家が常に新しい作品を出産しなければならないのと同じく、
親もさっさと子離れして、新しい生き甲斐を見つけて生きなければならない。

これは、大学時代に、プラトンを読んでいたころ、
「幸福とは出産である」という真理(?)にたどり着いた時に考えたことだ。
当時はまだ妻になるとは到底予想できなかった、しかし今は妻である人に
こんな話をしたとき、彼女はこう尋ねた。
「あなたが結婚して子どもができても、そう言えるのかしら?」
うーん、、なかなか鋭い問だ、と一瞬たじろいだが、
「だって、そういうもんなんだから」とあっさり答えるしかなかった。

私の我が子たちに対する接し方は、あのころ考えたのと同じである。
仲のよい友人や生徒たちと接する態度と変わらない。
違うのは、同じ屋根の下で寝起きすることと、
食わせ、経済的に保護していることぐらいだろう。
疎んじる気持ちはさらさらないが、早く親離れしてくれぃ、と願っている。
君は独立した個人なのだよ、親に縛られることなんてない、自由なんだよ、
親である私も、やりたいことがいっぱいあるんだからね。

こんな私だから、まさしくんの作詩にはいたく感心するけれど、
空蝉となってしまった老夫婦の心にはまったく共感できないのだ。


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