「空蝉」という歌をあまり好きでないのは、こんなことありえない、 しかし、その割にこの老夫婦の姿があまりに生々しいと感じられるからだ。 家で待つのならわかるが、毎日駅の待合室にまで来て待っているなんて、、 何だか、大げさな舞台設定のように感じられるのだ。 しかし、舞台作品だったら、象徴的方法としてありえそうだ。 そのありえないことをしている姿が、切実な思いとして伝わり、 取り残されたような、置き去りにされているような、 虚ろさや哀しさといったような情緒がいっそう深く漂うのだ。 最近の駅の待合室は、明るくおしゃれな感じになりつつあるが、 昔の駅の待合室といったら、何となくみすぼらしく寒々とした、 灰色っぽい光景だった。 固く冷たい木のベンチ、こぼれた飲み物で汚れたコンクリートの床。。。 「名も知らぬ駅の待合室」と聞けば、もうそれだけで、 寒々とした寂しい場所をイメージすることができる。
この老夫婦の姿や哀感はよく伝わってくるけれど、共感はできない。 なぜ彼らは、熱い恋を守り通してここまで生きてきたのに、今抜け殻なのか? なぜ、今、このように惨めで哀れなのか?
子どもなどはあてにしてもいけないし、生き甲斐にしてはいけないのだ。 子どもは親を離れていくものだ。 子どもは親の産物であり、作品でもあるけれど、 作品はやがて作者の手を離れて、独立し、ひとりで歩き始めるものなのだ。 創作家が常に新しい作品を出産しなければならないのと同じく、 親もさっさと子離れして、新しい生き甲斐を見つけて生きなければならない。
これは、大学時代に、プラトンを読んでいたころ、 「幸福とは出産である」という真理(?)にたどり着いた時に考えたことだ。 当時はまだ妻になるとは到底予想できなかった、しかし今は妻である人に こんな話をしたとき、彼女はこう尋ねた。 「あなたが結婚して子どもができても、そう言えるのかしら?」 うーん、、なかなか鋭い問だ、と一瞬たじろいだが、 「だって、そういうもんなんだから」とあっさり答えるしかなかった。
私の我が子たちに対する接し方は、あのころ考えたのと同じである。 仲のよい友人や生徒たちと接する態度と変わらない。 違うのは、同じ屋根の下で寝起きすることと、 食わせ、経済的に保護していることぐらいだろう。 疎んじる気持ちはさらさらないが、早く親離れしてくれぃ、と願っている。 君は独立した個人なのだよ、親に縛られることなんてない、自由なんだよ、 親である私も、やりたいことがいっぱいあるんだからね。
こんな私だから、まさしくんの作詩にはいたく感心するけれど、 空蝉となってしまった老夫婦の心にはまったく共感できないのだ。
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