TENSEI塵語

2005年10月24日(月) 「空蝉」

まー、ホントに時間に追われ、足りなくてあくせくした1日だった。
やっぱり土曜日に出校してゆっくり仕事しないと回らないことを痛感した。
一昨日は1日出校したけれど、吹奏楽部の練習で他の仕事はできなかった。
昨夜、いくらかの仕事をやっておいたので、きょう辛うじてこなせた。
夜中に目を覚まさず、朝まで眠っていたら、きょうはパニックだったろう。

・・・なんて、つい仕事の愚痴になってしまうので、まさしくんに逃げる。


「空蝉」という歌は、何か、生々しい哀しさが漂っていてあまり好きでない。
ついつい聞いてしまうが、聞いていてつらい、、重たい。


     「空蝉(うつせみ)」
  名も知らぬ駅の待合室で 僕の前には年老いた夫婦
  足元に力無く寝そべった 仔犬だけを現世(うつせみ)の道連れに

うつせみ(広辞苑では「現人」と漢字を当てている)は、この世、また、
この世に生きている人間のことだが、
「空蝉」と漢字をあてると、抜け殻、魂の抜けた虚脱状態、の意になる。
この老夫婦に付き添っているのは「力無く寝そべった子犬」で、
もうこれだけで、抜け殻のような老夫婦のイメージが漂ってくる。

しかし、この老夫婦を見ている「僕」はどうなんだろう。
今自分が座っている待合室が、何という駅なのか知らないのだという。
自分がどこにいるのかも興味がなく、あてもなく彷徨っている青年らしい。


  小さな肩寄せ合って 古新聞からおむすび
  灰の中の埋火おこすように 頼りない互いのぬくもり抱いて

「小さな肩」「古新聞」「おむすび」という素材もさることながら、
「埋み火をおこすように」「ぬくもりを抱く」という表現に完敗である。
この灰色の光景の中で、仲のよさそうな老夫婦は決して幸せそうでない。


  昔ずっと昔 熱い恋があって 守り通したふたり
  いくつもの物語を過ごして 生きて来た 今日まで歩いて来た

これはいいことではないのか?
これで、しあわせな人生だったと言えるのではないのか?
このふたりは、この待合室で、抜け殻のように何をしているのだろうか?


  二人はやがて来るはずの汽車を 息を凝らし じっと待ちつづけている
  都会へ行った息子がもう 迎えに来るはずだから

これは、あまりにも悲惨なシチュエーションじゃないかー。
この後の歌詞を聞けば明らかになることだが、
息子が迎えに来る約束ができていて、その電車を待っているのではない。
いつか迎えに来てくれるはずだと、毎日こうして待合室にやって来て、
1日中、電車が来るたびに息子の姿を探し求めているのだ。

息子はたぶん、若いころ、都会に出るときにそんなことを言って、
この夫婦を喜ばせたのだろう。
しかし、息子は、日々の雑事に追われて、そんなことは忘れているか、
忘れてはいないまでも、それどころでない。
大事なことは、その息子がもうかなり長いこと音信不通だということだ。
連絡がとれていれば、待合室であてもなく待つ必要などはないのだから。。。
この老夫婦には、息子が生き甲斐になってしまっていたのだ。

きょうも息子は迎えに来てくれなかった、、、その老夫婦の悲哀を、
まさしくんは、駅員のセリフで遠回しに表現している。
これは、「第三者」という歌でも、別れの時が近づいたふたりの思いを、
喫茶店の店員のラストオーダーを尋ねる言葉で表現したのと同じ手法だ。


  けれど急行が駆け抜けたあと すまなそうに駅員がこう告げる

  もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません
  今日の予定は 終わりました

  もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません
  今日の予定は 終わりました

老夫婦にとっては、残酷な、しかし、いくらか覚悟していた宣告なのだ。
ふたりは、この夜更けに、支え合って立ち上がり、淋しい家に帰るのだろう。

ちょっと待てよ、、、この「僕」は、老夫婦を見つめ続けていたせいで、
終電にも乗れなかったではないか。
明朝の電車までこの待合室で過ごすのだろうか、
それとも、明日もこの老夫婦を見つめてすごるのだろうか、、?
それもいいかも知れない、「僕」も彼らと同じく抜け殻なのだから。。。

この歌は、人生って何?何のために生きてるの? という問いかけのようだ。
熱い恋を、周囲の反対を押し切って、苦労しつつ守ったらしいふたりの、
行く末が、抜け殻のような哀しい老後だ。
それを見つめる「僕」も、生きる方向を見失っている。。。


この続きはまた後日書こう。


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