小学生の5年間を郡上八幡で過ごした。 小学1年生の7日目に隣の相生村の駐在所から引っ越して、 6年生に上がるときに、岐阜市に引っ越した。 1年生になってしまってからの転校は、最初はちょっと不幸だった。 すぐにあった遠足では、弁当をひとりで食べなければならなかった。 けれども、その後は友だちに不自由することはなかった。
夏には毎晩のように踊りの会がどこかで開かれ、 冬には決して多すぎない程度の雪に町中が覆われ、 山と川に恵まれ、町中に水が流れている、 この水の町で少年期を過ごしたことは私の自慢のひとつである。 今でも、一番好きな町は? と問われると、郡上八幡と答える。 稀に散歩に出かけても、知ってる人間にはぜんぜん会えないけれど、 なぜか、あたたかい空気に包まれる気分である。
しかし、何か白けたような、寂しい光景も目にすることがある。 かつて私たちが遊び場にしていたような場所に子どもの姿がないのだ。 小学校の校庭もたいてい閑散としている。 学校からの帰り道に歩いた用水端の小径、安養寺の境内、神社、相撲場跡、 城山の登り道、愛宕公園、裁判所の庭、、、どこも閑散としている。 春に行っても夏に行っても秋に行っても、子どもの遊ぶ姿をほとんど見ない。 子どもがいないのかというと、そういうわけでもないらしく、 親子連れで歩いているのは見かけるし、家の前で遊んでいるのも見かけるし、 春祭りのお神楽には、昔と同じように多くの子どもたちが、 化粧をし装束をして、笛や舞に出演していた。
40年前のあの頃、私たちは遊び場にはほとんど不自由しなかった。 城山の麓の由緒ありそうな安養寺の境内で、野球や缶けりやってても、 寺に上がり込んで廊下や階段で、めんこをやっていても、 裏の墓場でかくれんぼして走り回っていても、誰も何にも言わなかった。 裁判所の庭さえも、我々の野球場だったし虫捕り場だった。 野球といっても、ゴム鞠の手打ちか板打ち程度の野球だったが。。。 小学校の校庭も、遊び場に開放されていて、たいていにぎやかだった。 その日その日の偶然の都合で、歳もばらばらないろんな遊び仲間がいて、 その都度、ルールを作って遊んでいたものだ。 テニスと称する、田の字のように4分割のコートを地面に書いて、 ボールをツーバウンドさせて打ち合うゲームにも熱中したし、 通路や陣地を地面に書いて、走ったりつかまえたりしながら陣地に攻め込む 体当たり的なゲームにも熱中したし、 釘刺しや、おはじきを使った陣地取り遊びにも時間を忘れた。 もちろん、特に仲のいい友だちと水入らずで家で遊ぶこともあったし、 向かいの家の年下の兄弟と、ビー玉などをしてあそぶこともあった。 冬になって雪が積もり、崖の途中のちょっとしたスペースに 竹スキーや橇遊びにふさわしい場所を整備すると、 町内のいろいろな年齢の子どもたちも押しかけて一緒に遊んだりした。 どういうスケジュールで、どんな段取りで、どうやって集まって遊んだのか、 もう、今思い出そうとしても、よくわからない。 とにかく、日ごろ親しくなくても、その場で一緒になってしまえば、 何となくあれをやろう、これをやろう、ということになって、 自然と遊んでいたのだ。 せっかく家でのんびりしていても、 わざわざ呼びに来られて連れ出されることもよくあった。 家の中で遊ぶより、外で遊ぶことが圧倒的に多かったのである。 誰かの家に集まって玩具で遊んでいても、やがて外に出る羽目にもなった。
だから、子どものいない光景が不思議でしょうがないのである。
ひとつには、あの田舎町でも子どもたちは遊び場から閉め出されたのだろう。 安養寺の境内を見ても、裁判所の庭を見ても、見違えるほど整備されている。 かつて私たちが学校帰りに木片を浮かべて速さを競った用水路も、 飼う鯉が増えて、所有権を示す堰がいくつも作られてしまっている。 子どもたちが遊ぶのに不自由な環境は、田舎町にも広がったのだ。
それとともに、子どもたちの遊びが、個人主義的になってきたのである。 TVゲームに始まりゲームボーイ系のポケットゲームが流行ってしまい、 数人の子どもが集まっても、それぞれが自分のゲームに興じる時代である。 誰かの部屋に集まって、一緒に遊ぶというよりは、 ある者はTVでゲームをし、ある者は漫画や雑誌を読み、 ある者はケータイのボタンを押し続ける、、、寂しいから誰かといるけれど、 共同して遊びの世界を作るわけではない。。。
少年犯罪に極端なものが目立つようになって、いろいろな論評があるが、 それは依然として子どもたち全体のわずかな部分に過ぎないので、 その少年犯罪によって、近ごろの子どもは、、、などという短絡的な批評は どうも感心しない。 しかし、いろいろと考えるその中のひとつには、 少なくとも、見境がなくなった、歯止めが利かなくなった、という 一部の少年少女の問題行動の原因のひとつには、 集団遊びの変容ということも大いに関わっているのではないかということだ。
|