来年度から観点別評価導入の話が職員会議に出た時、こう質問した。 「小学校ですでにやられている観点別評価は、 その子の中でこういう点が優れているという個人内評価の意味が強いが、 高校での観点別評価はそういう趣旨とも言えないようだ。 今までもテストの点だけで評価をしない努力をしてきたはずだが、 あえてこんな方法を採らなきゃならない理由は何か」 それからもうひとつ指摘した。 「国語の場合、書く能力という項目があるけれど、 今まであえて目をつぶってきたこの点もちゃんと評価し始めると、 評定5をやれる生徒はいなくなる、ほとんどが3以下になってしまう」
その時の校長の答は、 「そう難しく考えなくても、評価をするのに今までよりさらに いろいろな観点を取り入れましょう、ぐらいにとらえればよい」 というようなもので、今までと大差なしと解釈して引き下がったのだった。
ところが、今までと大差があったのは、今まで4月に書いていた 年間指導計画を、観点別評価を取り入れて2月中に書けという。。。 アホらしい、書けるかい、来年度の担当者が誰かもきまってないのに、、、 まだ指導書もないし、、、新2年生は新教材ばかりだし、、、 けれども、昨日書いたような理由で、そうほったらかしにはできなくなった。
で、しょうがなしに調べ調べ書き始めて、改めて怒り始めたというわけである。
国語の観点なるものは、こんな風に区分されている。 1 関心・意欲・態度 2 話す・聞く能力 3 書く能力 4 読む能力 5 知識・理解
私が担当したのは2年生の古典で、 古典の場合は1・4・5だけでいいようなので、2・3は無視しても、 考えれば考えるほど、混乱して腹立たしくなってくるのである。 そもそも、これらは観点別に評価できるものなのか、、、 そんな疑問に取り憑かれて、判断に苦しんでしまうのである。
たとえば、古文や漢文を「正しく読むことができる」というのは、 真っ先に「読む能力」を示すことになるだろうが、 歴史的仮名遣いや単語の区切りや漢字の読み方や、漢文の訓点などの 「知識・理解」なしには、ろくに読むことなどできないではないか。 また、「適切に口語訳している」なんてのも、某教科書会社のサンプルでは 「読む能力」に区分されているけれど、「知識・理解」なしには不可能だし、 「関心・意欲」なしには自らそんな厄介なことはできっこないし、 それは表現の領域でもあるので、「書く」「話す」にも関わる問題である。 また、「文法事項の理解」というと、そりゃもう「知識・理解」なのだが、 実際「関心・意欲・態度」が欠けている生徒が多すぎて、 1年間同じことばかり繰り返している古典文法は、 2、3年辛抱強く続けても、初心者のままであることが多い。
要するに、私が改めて強く感じたのは、 多角的な観点を持つのはいいことだけど(実際今まで心がけてきたことだ)、 あえてそれらを別々に評価しようなどというのはバカげたことだ、、である。 真に観点「別」にできるような観点を見つけるのは至難の業だ。
彼らは、人間というものは、部品の寄せ集めくらいにしか思っていない。 でなければ、こんなかたわみたいなことを、大改革みたいに自慢げに 全国の教員に強要するわけがないではないか。 そんな風にしか人間を見ることができないとは、哀れなやつらだ。 そして、それをヘイヘイと承ってくるやつらも、哀れなやつらだ。 そしてまた、そんなやつらに牛耳られている教育界も、何とも哀れだ。
きょうはここまでである。
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