昨日の続きである。
計画表を書きあぐんでいるうちに、ばかばかしくなってしまったので、 ばかばかしいことにはばかばかしさをもって応えることにした。 例年の指導計画表なるものも、多分に形式的なものに過ぎなかったけれど、 教材の内容に合わせて、それにふさわしい計画を書き並べる努力はしていた。 しかし、今回はそんな努力は捨てることにした。 教科書会社のサンプルから何項目か抜き出して、 サンプルどおりに観点別評価の欄に○をつけて、 古文の場合、漢文の場合に分けて、どんな教材であろうとコピーするだけ。そう決めたら早かった。 一番たいへんな、いちいち教材を読んで中味を検討する必要がないのである。 和歌や漢詩の場合には、それらにふさわしい項目を加えるくらいの 誠実さは忘れなかったけれど。。。 ま、今までよりも格段に無内容なものになったことは間違いない。
こんな計画表を書かせたくてこういう施策を出してきたのではないだろうが、 昨日書いたような理由で、真剣に考えたら気が変になりそうなんだから しょうがない。
こんな評価区分を設けなくても、我々は多角的に評価してきたのである。 テストひとつ作るのにも、さまざまな観点をもって作っているではないか。 そして、さまざまな観点の根底に、 どれだけしっかり文章を読んでいるかという基本を忘れない。 単にテストの点数だけでなく、小テスト・ノート・プリントも評価に入れ、 点数化はしないにしても、態度の善し悪しや、関心の表れも、 ここぞという時には評価に影響するものなのである。
観点別評価は、そうした幅広い複合的な評価をかえって狭苦しく窮屈にする。 彼らはすごくいいことをしたように思っているようだが、 それはたぶん、彼らが狭い観点でしか人物評価できない人間だからだ。
こんな評価方法を採り入れたって、5段階評価はなくならないだろうし、 その数字が上級学校への資料として送られることには変わりない。 もしもこれが、通知票や指導要録にも記入すべきものにもなるならば、 ますます空虚な労力を強いられることになる。
うーん、、ま、その場合は、関心・意欲については生徒へのアンケートだね。 本人の気持ちも無視して、勝手に関心・意欲があるなどと判断できまい。 関心もって取り組めましたか、それはどういう点ですか? てな具合に。 上手に書けていれば、書く力にも○をあげよう。 読む力とか知識・理解はテストの点数とほとんど比例するし、、、 前はひどかったけど今回はがんばったね、という場合に、 ご褒美として○をつけてやることもできるわけか。。。
私は実は7、8年前に、テスト100、平常点100の評価方法を、 実際に試行しながら、周囲の人の意見を聞いたことがある。 内規では、平常点は多くて3割くらいだったから、 その規定で成績を出しながら、試しに平常点100も計算して 成績をつけてみたのである。 実におもしろかった。 学校には睡眠をとるためだけに来ている生徒が何人かいて、 彼らはノートも出せず、プリントも白紙、寝るかぼんやりで、何もしない。 ところが、考査直前になると、内職を始め、テストの準備である。 40点前後の点を取れば、平常点3割ではたいてい合格する。 逆に、授業はまあまあまじめに受けていたのに、 試験前の勉強が甘かったために20点も取れなかった生徒は不合格。 ところが、テストと平常点を同等に配分すると、ちゃんと逆転する。 上位者の方の逆転にも、いろいろ興味深い現象が見られた。
今こそこういう評価方法を採用すべきだと、私自身は確信したのだが、 周囲の人たちに話しても、あまり好評とは言えなかった。 あまり平常点の比重を高くすると、評定の信憑性が危うくなる、という そんな意見が大半だったようだ。 五段階評定の資料的意味が障害となってしまうようだった。
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