昨日から妻が小学校の国際交流の活動のレポートを書いている。 今年度新しい赴任先で係になって、不本意ながら係として仕事した挙げ句、 報告書まで書かされているというわけだ。 そして、いつものことながら、文書の細かい修正とレイアウトと印刷を 私がやらされるわけである。
高校にもAETが来るが、小・中でもAETを採用して、 小学校ではわずかな英会話と、AETが紹介する外国文化に触れるわけだ。 私ははっきり言って、小学校でこんなことに金かけるよりも、 もっと他に金をかけなきゃいけないところがあるだろう、と腹立たしい。 中・高では、生きた英語に触れさせる目的が大なのだろうけれど、 それにしては、AETの一度に相手する生徒数が多すぎる。
お上のすることは、だいたいにおいて短絡的で形式的である。 生徒の実際を直視しないで、机上の空論で悦に入るからである。 また、そのためにもっとも大切なことは何か、ということを考えもしない。それで体裁だけとりあえず整えて、偉業を果たしたつもりになって威張る。 現場は実は困惑しつつも、体裁を整えるために四苦八苦させられる。 いつもこの構造である。
小学校のうちはこんな国際交流をしなくても、別に遅れをとったりしない。 鎖国状態でもないのだから、いろんな形で外国文化に触れているではないか。 日本の文化や歴史にもっと触れさせたいものである。 中・高に進んでも、それを重視してほしいものである。 私の古典の授業は、いつも日本文化ということを第一に意識している。 歌舞伎も落語もろくに知らない、和歌も俳句もろくに知らない、 12月8日も8月6、9、15日もろくろく知らない、、、で 国際交流してもバカにされるだけではないか。 国際交流、国際交流と体裁だけは整えるくせに、 どうして世界史と日本史のどちらかを履修すればいいことになっているのか? 地理などは履修してもしなくてもいい科目にさえなっている。 実におかしな話ではないか。 はちゃめちゃと言ってもいいくらいだ。
お上の方々の思考が短絡的で、現実をちっとも見ていないのは、 学力低下に対する反応にも表れているが、それは次回にしよう。
|