一昨日「戦争を語り継ごうML」に登録したら、大量のメールが届き始めた。 意見交換を会員専用の掲示板で交わしているのが、メールでも逐一 配信されるらしく、他のメールとごちゃごちゃになりそうなので、 フィルタを設定して、自動的に専用フォルダに入るようにしておいた。 昨日、首相が元旦に靖国詣でをしたとかで、昨日から数通入っていたが、 年末にもちょいちょい靖国問題について議論がなされていた。
そういえば、私自身、以前この塵語の中に書いたなぁ、、いつだったかなぁ、 と、確か一昨年の8月、終戦記念日にするのをやめて日をずらすとか、 何かそんなようなごたごたを見て書いたことを思い出したので、 一昨年の8月の日記のところを読んでみた(ノートよりも便利である)。 読む前まで、どんなことを書いたのかなかなか思い出せなかったが、 読んでみて、、、自画自賛みたくなってはなはだ恐縮なのであるが、 なかなかいいこと言ってるじゃん、って感じである。 学問的議論の好きな人には何ともばかばかしい意見なのだろうけれど、 論議の焦点となっている靖国神社の歴史とか意味とかには触れずに、 公式参拝にこだわる政治家の愚行というところに焦点を置いてみたわけだ。 一部分引用してみると、、、
・・・・・・ とにかく、なぜ「参拝するぞ」と意地を張らなきゃいけないのか。 何も、そうムキになることはないのである。 慰霊なんてことは心の問題で、どこにいてもできる。 神社に祀られているとか言ったって、所詮は虚構である。 表面上の雰囲気を作っている仮の場所に過ぎない。(中略) それよりも、海岸から海に向かい、大陸に向かって祈る方がよい。 そして最後にこの日本の大地にひれ伏して祈るのがよい。 犠牲者たちの霊は、まだそのあたりを恨みがましく漂っているかも知れない。 少なくとも、名簿登録されているだけの場所よりは実質的である。 それよりももっといいのは、戦争の恐れを払拭する日々の努力である。 戦争放棄の理念を実現するために最善の努力を惜しまないことである。 そもそも、国と国との過度な競争やもめ事をなくすことである。 それが、犠牲者たちに報いる最高の慰霊である。 形式的な慰霊にこだわって国家間のもめ事を大きくするのは愚かである。 ・・・・・・
ま、私は儀式というものは嫌いだし、バカにしてもいるので、 何で他国の批判を受けながらも「参拝するぞー」と これみよがしにあの場所に行きたがるのか、まったく理解できない。 あそこに行かなければお参りしたことにならない、と意固地になることこそ、 宗教的行為です、とわざわざ断っているようなものではないか。
それにしても、1年半前にはあれほど苦渋の決断を装って、 わざわざ日をずらして、、、賛否の両陣営のどちらも立てるように 配慮したにもかかわらず、昨日は元旦にしれっと参拝を済ませてしまった。 小泉くん、調子に乗ってなぁい???って感じである。 いよいよ自衛隊派兵が始めてしまったので、 靖国の多くの御霊に守護をお願いしたのだろうか。。。 彼らをお守りください、そうして、何人も血を流すことなく、 早く世界に平和が訪れますように、、、? いやいや、私には別のセリフが聞こえてしまうのだ。 「お待たせしました。やっとあなた方の時代に近づきます。 私が、ついに自衛隊を戦場に送り出すことに成功しました。 やがて憲法は書きかえられ、自衛隊は軍隊となり、 あなた方の戦犯の汚名は拭われて、英雄と称えられる日も近いでしょう。 もう少しの辛抱でございますですよ」 なあんてね、考えすぎであってほしいと思うけれど、 今までの首相の中でもっとも危険なものを就任当時から感じていたところ、 こんな情勢になってきたものだから、ついつい極端に想像してしまうのだ。
何はともあれ、西方の大陸ではこれを良しと思っていない。 感情的に刺激する一方だということが、まず事実としてある。 他国がとやかく言うことは内政干渉だといううるさい賛成派もいるようだが、 そんなこと言わず、戦前に日本が大陸で何をしてきたか勉強し直して、 自ら控えようとするのが、一国のリーダーの義務だろう。 靖国参拝なんてのは、よくよく考えてみれば形式的行為に過ぎないのだ。 それをあえてやろう、やらねばならぬとするところに、 執拗なほどの好戦的イメージをまとわりつかせてしまうわけだ。
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