忙しい1日だったと言えばそうも言える。 午後は台所掃除で手を油まみれにし、トイレ掃除もした。 腰が痛くなって座っているのもつらくなったので、夕寝をした。 夜は風呂場の全面掃除をした。 それから、最後の2集分を一挙放映した「映像の世紀」を見た。 第2集から欠かさず、見たくてたまらない気持ちで見続けたことになる。 年末年始にはしばしばこういう番組に出会えるのでうれしい。 第10集の民族紛争の特集を見ながら、また涙ぐんでしまった。 もっとよく知って、自分の言葉で自在に語れるほどよく知って、 生徒たちに伝えなければならないことがいくらでもあるのだと思い知った。
昼前は何をしてたかというと、こんなこと↓を書いていた。
橋本さんが日記の中で「戦争を語り継ごう リンク集」のサイトを 紹介していたので、ちょっと覗いてみた。 http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/ そういえば、どんな細かいことでも検索して調べるという技を覚えながら、 こういうサイトを検索するということを思いついたことはなかった。 とりあえずひとつ読んでみようと、特にこれという理由もなしに クリックして入って行ったのが、「サイパン島の怒号」という体験記である。 http://www.nsknet.or.jp/~yamabuki/taga.html
ついつい一気に読んでしまった。 九死に一生どころか、九百九十九死に一生を得たようなスリルの手記で、 よくこんな中をくぐり抜けて帰還されたものだと、敬意を表したくなる。 食料も水もなく、武器もなく、飢えと渇きに耐えながら、 ただジャングルの中を砲弾を避けて逃走する体験記である。 周りの日本兵たちは次々に死んで行く。 この筆者が生き延びたのは、かすかながら水・食料を得ることができ、 たまたま弾に当たらなかったからである。 その攻撃のすさまじさもよく伝わってくる。 そうして筆者はついに殺されることなく捕虜として捕らえられ、 ハワイやカリフォルニアの収容所を転々とさせられ、 終戦2年後に帰国する。 故郷では戦死者としてとっくに弔われていたそうである。
私はそのヒヤヒヤするような極限状況の物語を読みながら、 そのきっかけの部分を忘れずに読んでいたので、常に怒っていた。 彼らは何のためにこんな運命を背負わされたのだろうか、、、? 筆者は召集されてから約3ヶ月の訓練を受け、 数ヶ月後にトラック島へ出兵となったが、危険で近づけず、 とりあえずサイパン島に上陸することになった。 そのころはまだ米軍は上陸していなかったようである。 筆者は見張りの仕事だけは義務づけられていたようである。 2ヶ月近く経ったころから空襲が始まり、以後は逃げるだけの毎日である。 これといった戦闘があったわけではないようだ。 1発撃てば千倍になって返ってくると言って、銃の使用も禁じられたようだ。 ということは、応戦するほどの備えもない状態に放置されていたのか? そんな状態のところに、なぜ彼らは派兵されなければならなかったのか? 戦場の現実を知らない役人が、ただ駒を機械的に動かすように、 多くの生命を無駄な死に場所へと送り込んだだけではないのか。 そんなことを怒りながら読んでいたのだが、私なんかの怒りより、 体験した筆者自身のまとめの言葉の方が切実であろう。 私自身の覚えとして、ちょっと引用させていただくことにした。
・・・・・・・・ 振り返ってみると「お国の為にお役に立とう」と勇んで村を発ったのですが、 何かお役に立ったことがあったでしょうか。 怯えながらジャングルの山中をさまよい、 側に戦死した友の遺体をそのまま放置して、逃げ惑うことがほとんどで、 何とお詫びの言葉もありません。 私自身が死と直面した毎日でした。 人生の基礎を築く大事な年代に、4年間も死と対峙〔タイジ〕し、 恐怖の逃避生活を余儀なくされ、九死に一生を得て生還しても人目を憚って、 外出も控え目な生活をしなければなりませんでした。 捕虜となったことで、こんな引け目を感じたり、罪悪感に悩まされることを、 戦後の教育を受けた人には理解できないでしょうが、 戦前の教育では最大の不名誉で、 家門の恥、男子の恥ということをたたき込まれていたのです。 アメリカでは「名誉の捕虜」という言葉があって、 凱旋勇士と同等の扱いをするそうですが、 国民性と教育による考え方が違うことを痛感しました。
ある夜、夢を見ました。 「お前はなぜ生きて帰って来た。 恥しいだろう、俺が殺してくれるからここへ入れ」 と棺桶に入れられ、火葬場に着いたところで目が覚めたことがありました。 又、今ここにいる私は本当の自分だろうか? 柔らかく温い蒲団の中に寝ているここは、本当に自分の家だろうか? 信じられないような疑問と幻想に悶々と日を過したことも長く続きました。
私が何を悪いことをしたと言うのでしょう。 あの当時の国の指導者は何を考えていたのでしょうか。 国益の為になると思っていたのでしょうか。 大和魂で勝てるとか、日本は神の国だから負けることがないとか、 そのうち神風が吹いて敵の艦艇は全部沈没するとでも思っていたのでしょうか。 武器らしい武器も無く、精々が帯剣と手榴弾だけの肉弾となって、 最後の声を振り絞った鬨〔トキ〕の声をあげながら、 敵弾雨霰〔アラレ〕と飛び散る中ヘ突撃して散った若い兵士達に、 何とお詫びしようと美辞麗句を並べて称讃しようと、散った命は蘇りません。
鳴呼!、怒号の涙が止まりません。 『子よ、孫よ、こんな愚な戦争に参加してはならない!! 平和こそ人類の最高の仕合わせだ』
今、振り返ってみて、私の手で人を1人も殺さなかったことは、 最高の幸運であり、最高の誇りだと思っています。
最後に、平成7年8月7日に来日された ワイツゼッカー前ドイツ大統領の講演の中に、 「過去を否定するものは、その過去を繰り返す。 心のこもった謝罪でなければ、謝罪にならない」 また、「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」と言われました。 なんと素晴しい言葉でしょう。 現在の日本の政治家達が以って銘すべき名言だと思います。 いや、政治家ばかりでなく、我々1人ひとりの日常生活の中にも 座右の銘として、肝に銘じていきたいものだと思います。
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