薪能と聞くと、この上なく幽玄な能舞台を思い浮かべる。 能楽堂で楽しむ能に1度でも魅せられれば、薪能というものに憧れるものだ。 あの芸術が、篝火の灯りだけに照らされている様を思い浮かべるだけで、 もう眩暈がしそうなほどのゆかしさにとらわれてしまうのである。
十数年前から、私の家の近くの河原に舞台をしつらえて、 この8月1日前後に薪能が開催されてきた。 長い間ずっと、それは入場券や整理券を手に入れるのに一苦労する、 特権的な人たちにしか見られないものだと思い込んでいたし、 たいていは部活動を終えて帰路について、この河原の堤防を通るとき、 もうすでに謡曲の音が響いているという具合だったので、 家から歩いて10分ほどのところで開かれている薪能も遠い存在だった。
ところが、今年度は部活動もたいへんではないし、帰り道も早い。 しかも、長良川薪能も整理券制度を廃止して、自由入場になっているそうだ。 5時半ごろ帰宅すると、子ども2人とも、薪能に出かけたという。 2人とも、普段から能や狂言に親しんでいるわけではない。 私がテレビから録画した能・狂言のビデオも、 2、3の狂言だけ見たことがある程度である。 けれども、坊ずの方は4月から演劇に関わりのある専門学校に通い始め、 娘の方は大学の一般教養科目でこの方面のことを学んだらしくて、 そんな成り行きで2人とも開場前の時刻から開場に赴いて、 ぜんぜん混んでないからおいでよ、みたいなメールが入ってきた。 2人ともそう子ども扱いしたくはないけれど、 夜道がどんなだかわからないので、迎えがてら最後の能だけ見に行った。
能の後半をねらって、着いたのは7時20分ごろだったけれど、 これから最後の能の演目「養老」が始まるところだった。 かなり広いスペースに、白いビニールシートを敷いてある。 今までずっと、100人程度の限定されたスペースだろうと思い込んでいた。 数百人は座れそうな広い中で、7割程度の入りであろうか、、? もちろん途中の出入りも多い。 けれども、こんな渋い催しめあてに3、4百人の人間が集まるのが意外だ。 ふと横を見ると、暗がりで台本を手に聞き入っている人もいた。
残念だったのは、舞台のそばの篝火は2つだけで、 ほとんど電気による照明で舞台が照らされていたことと、 能舞台が低すぎて、後ろの方だと、立たないとよく見えなかった点である。 坊ずは前から2番目の列で見ていたからよかったけれど、 少し遅れて到着したために、2ブロック目の最前列にいた娘は、 もうそのあたりから携帯用の椅子を遣っている人もいてみづらかったそうだ。 私が座ったのはうんと後ろの方なので、姿も小さい上に、 役者の立ち姿の上半身しか見えないような状態だった。 ご親切にも、見づらい人たちのために、大型スクリーンに映写されてもいる。
幽玄を満喫できるようなあつらえではなかったにせよ、 なにしろ、背景は暗がりの金華山であり、長良川の川面である。 能が演じられているさなかに、篝火を焚いた屋形船が3、4そうずつ、 川を下って行くのが背景に入ったりすると、格別な味わいである。 私はとにかく、あの能楽の、世界のどこにもないような独特のリズム感で 演奏される、あの音楽が好きである。 それを夜空の下で聞くというのも、格別な味わいである。 こういう楽しいひとときが、無料で自由に過ごせるのが不思議に思われた。
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