TENSEI塵語

2003年06月17日(火) 命を絶つこと

今夜はとても日誌を書けそうにない。
今月に入って毎日を心がけてきたけれど、ここで絶たれるのかもしれない。
友人がひとり死んでしまうかもしれないのに、
何かじっとしていられない気持ちなのに、じっとしているしかない。
そんなことは9割9分信じたくないし、信じられないことなのだけれど、
わずか1分の可能性にも、何やら現実味を感じてしまって、
数字とは反対に、1%が99%を凌駕してしまいそうな、、、
人間の心の中には、こういう非合理的な力関係が働くものである。

今までに、身近な人のさまざまな死に悲しい思いをしているわけだけれど、
教員になってから、身近な人の自殺を3度経験した。

最初は、最初に勤めた三河の定時制高校の、職員室で隣席だった先生である。
実にまっすぐすぎるくらいに真面目な先生だった。
この人が、後にも先にもこんなひどい生徒が集まったことがないと、
長くいる先生たちが証言したクラスの担任を2年間担任した。
無断欠勤が数日続いた後、彼は腐乱死体として林の中で発見された。
私は、生徒たちに対する、彼なりの究極の抗議だったと解釈している。

2番目は、そのクラスの生徒のひとりだった。
港でシンナーを吸って、その勢いで海に飛びこんで死んだという。
同情はできなかったけれど、棺の中の表情が、
生きていたときとはまったく異質の世界にいるので、淋しかった。

3度目は、前任校に赴任したとき、真っ先に親しくなった人物のひとりである。
音楽や文学の話で親しくなった。
家族をとても大事にしていたのに、遺書を残すこともなく、
自宅の軒先で首を吊って死んでしまった。
それを知ったのは、彼が亡くなって2カ月ほど経ってからだった。
転勤後何年も経っていたからである。
なぜ死んだ、なぜ死んだ、、、と、彼の日記をつぶさに読んだけれど、
どうしても、こうだという理由がつかめない。
小説家になりたがっていた彼の遺稿集は私が編集して、
10人ほどの彼の友人たちと協力しあって本にした。

親しい人の、本当に成立してしまった死でも、
99%信じられなくても、1%の現実味が凌駕してしまうものだ。
心と現実の絡まった領域というものは、数字や論理では割り切れぬものである。


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